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 土曜日の昼下がり、僕は自室でぼんやりと過ごしていた。宿題なんてすぐに終わってしまって、ベッドに寝転んでいた。

 暇な時間は久しぶりだった。何をして過ごしていたのかと考えれば、胸が痛む。美空と会うために病院に通い詰めていたし、そうじゃない時間は、あの店にバイトをしに行っていた。

 のそのそと起き上がって、一番上の引き出しをあける。小学校のときに使っていた「おどうぐ箱」。意外とこれが、いいサイズ感なのだ。

 中にはポチ袋がたくさん入っている。和紙でできていて、セット売りのものなのか、少しずつ色が違っていて、全体的には淡いカラーで統一されている。

 糸子から受け取った、バイト代だった。中身は全部千円札。正確に数えてはいないが、けっこうな額が貯まっている。使い道のない金だった。

 ひとしきりぼーっと眺めて、蓋をしめて引き出しの奥深くに再びしまい込んだ。

 僕が糸屋に足を運んだのは、美空と決別した直後、一度きりだった。

 病院を飛び出して、家ではなくて糸屋に駆け込んだ。おそらくひどい顔をしていただろうに、糸子はちらっとこちらを見ただけだった。

 どうして。

 振り絞った疑問は、糸子にぶつけても仕方のないものだ。わかってはいても、姉妹の悲劇的な結末の責任の一端が自分にあるという事実に押しつぶされそうになっていた僕は、糸子が止めてくれれば、と責任を転嫁したかったのだ。

 糸子の黒目がちの瞳は、澄んでいる。覗き込めば真実を映す、ゲームに出てくる魔鏡のようだ。映り込むのは僕の顔ではなくて、僕の醜い、無責任な心。

 責めることはない。罪を憎み、罰を与えるのは、あくまでも僕の心であって、糸子ではない。彼女はただそこにいるだけ。

 恐ろしい女だ。縁を切るのも繋ぐのも、信念の力だと言いながら、糸子自身は、視線にも言葉にも、正の気持ちも負の気持ちも、乗せることはないのだ。

 僕は逃げた。冷静ではいられなかった。糸子はいつか、その虚無で僕の心を殺す。そんな気がした。

 外ではセミが鳴き始めていた。蝉時雨というには、地中から出てきた個体がまだ少ないのだろう。響き合う鳴き声は、やがて一斉に止んだ。思わず外を見た。

 その瞬間、窓に映り込む僕の姿は、やつれていた。まるで病人だ。姉の代わりに、ではなく、冴木医師に僕自身の診察を頼むことになるかもしれない。

 そんな風に自嘲していると、こつん、と扉から音がした。気のせいかと思ったが、二度、三度と少しずつ大きくなっていくノック音に、ようやく「はい」と、返事をした。

 今の時間、家にいるのは母親だけだ。家族なのに、「はい」だって。

 唇がひん曲がった状態で、僕は母と対峙することになってしまった。彼女にとっては、息子がどんな顔をしていようが、あまり関係なかった。僕とは目を合わせないのだから。

 腕を前で合わせるのは、防御反応の一種だ。落ち着かない様子で、腕を組み替えて、肘の辺りをひっかく。常に視線は斜め下で、僕の足すら見ていない。

「なに?」

 つっけんどんな声になってしまったので、もう一度、今度は一息ついて、無理矢理笑顔をつくってから、「なに?」と、柔らかく尋ねた。相変わらず、目は合わない。

「あのね」

 母が語ったことには、これから来客がある、とのこと。だから在宅していなければならないのだが、昨日のうちに郵便局に行って、小包を出すのをうっかり忘れてしまったという。

「だから、紡に郵便局の方を頼みたかったんだけど……」

 集荷を頼めばいいのに。そう思うが、母が気まずい関係の僕に声をかけてきた、その勇気に免じて、「いいよ」と、僕は言った。

 土曜日だから、大きい郵便局しか窓口業務を受け付けていない。うん、コンビニに行こう。

「本当に? ありがとう」

 そこでようやく、母は僕の顔を見た。真正面から目を合わせるのは、本当に、何ヶ月ぶりのことだろうか。

 記憶にある母は、もっとふくよかで、頬がパンパンだった。笑顔になると目がなくなって、子どもの頃は、「お母さんの目、迷子だね」と、姉と何度もからかっていた。

 目の前にいる母は、年を取った。実年齢よりもずっと老け込み、顔がやつれて、面長に見える。白かった頬に血色、目に光が宿り、母は微笑んだ。

「そう。頼まれてくれるの。ありがとう」

 涙を流さんばかりに喜んでくれるのに、「大げさだな」と照れ隠しで悪態をついて、僕はでかける支度をした。

 玄関にはすでに段ボール箱が置かれていて、母は僕に、配達料金よりも多いと一見してわかる金額を、渡してきた。

「好きなもの、なんでも買ってきていいからね」

 僕がゲーマーだったら、テレビゲームのソフトを買ってくる。そんな金額だ。せいぜいジュースやアイスくらいしか買う予定はないが、黙って受け取った。

「じゃあ、行ってくる」

「うん……ねぇ、紡」

 扉を開けたタイミングで、母に名前を呼ばれた。この時期の隙間風は熱風で、じわりと体温を上げていく。

「あの……お姉ちゃんとは、まだ電話で話をしてるの?」

 驚いた。姉のことまで気にするなんて。

 いよいよ仲直りというか、引きこもりの長女をどうにかしなければならない、という気持ちになったのか。

 そのために、まずは唯一コミュニケーションを取ることのできている、僕を懐柔しようというつもりなのだろう。

 四人で一家団欒できる日も、そう遠くはないかもしれない。

「うん。スマホにかかってくる。こっちからの電話は、出ないことも多いけど……何か言いたいことがあるなら、今度伝えておこうか?」

 期待を抑えられない、やや早口での僕の返答に、母は青ざめ、また貝のように沈黙し、そわそわと目を逸らしてしまった。

 僕の答えは、どこかおかしかっただろうか。

 いたたまれない気分になって、僕は「行ってきます!」と言い置いて、慌てて外に出た。





 荷物を発送して、さらに気温が上がった昼下がりの道を歩く。

 足取りが重いのは、暑さのせいだけじゃない。

 家に帰りたくない。母親と再び顔を合わせるのが怖い。またいつもの、陰気な顔をして溜息ばかりつく、幽霊のような母に戻ってしまっている。

 そんな気持ちが、最寄りのコンビニじゃなくて、僕の足を少し離れた郵便局本局まで動かした。

 汗がだらだらと流れていく。暑いのに、寒い。風邪で寝込んでいるときと同じような具合の悪さを覚えて、僕はバス停のところのベンチにへたり込んだ。

 深呼吸は逆効果で、肺の奥に熱気が入り込んでくる。なのに、吐き出してもちっとも涼しくはならないのだから、ままならないものだ。

 顔を上げれば、太陽光線が目を焼く。だから僕は、背中を丸める。いつも以上に丸く。

 目を閉じて、じっとする。自分の意志で視界を閉ざすとそこは、イコール暗闇の世界とはならない。

 薄闇に、極彩色の幾何学模様が見える。脳に焼きついたイメージが元になっているらしいが、本当は、もっと意味のあるものなのではないか。

 手のひらで目元を強く押さえつけると、より一層強く、目の前がチカチカと輝き、ぐるぐる回る。

「おい、大丈夫か!?」

 声と同時に、首筋に冷たい感触がして、「ひっ」と、声が出た。目を剥いて振り向けば、ペットボトルがにゅっと出てくる。

「熱中症か? 意識はちゃんとしてんのか?」

 スポーツドリンクを押しつけてきたのは、「肉のフジワラ」の跡取り息子、大輔だった。

 心底心配だ、という顔で僕を覗き込む。こんな風に至近距離で見つめられることは、日常、そうそうない。

 男同士でキスできそうな距離に顔があると、相手がどれだけ男前であっても、受け入れられない。大輔は平均よりも濃い顔をしているから、さらに圧迫感がある。

 僕はぐっと身体ごと引いて仰け反る。

「だ、大丈夫」

 ボトルを受け取って、一口飲む。大輔は、まだ僕を睨んでいる。怒っているわけじゃない。それから二口、三口と飲み進めると、ようやく彼は、ホッと表情を緩めてくれた。僕も肩から力を抜く。

 隣に腰を下ろすと、彼は僕の手からボトルを奪い取って、ごくごくと中身を飲む。

 もともと自分の分として買ってきたのだろうから、好きにしてもらっていいのだが、ほんのわずかに残ったのを、「ほら、もっと飲め」と押しつけてくるのはやめてほしい。

 両手で押しとどめて、自分で飲んでくれと、ジェスチャーで説得する。そうか? という顔で、大輔は中身を全部飲み干した。

「大輔さん、店は?」

「ん? おお、そうだな。じゃあ、お前も来いよ。コロッケおごってやる」

「いつもコロッケだよね。いいけど」

 たまにはメンチカツがいい。

 商店街も、真夏の昼日中は人通りが少なくて、いつもは元気なフジワラのおばさんも、大輔が帰ってきた途端、奥に引っ込んでしまった。

 愛嬌を振りまく気力もないようで、「おかえり」「いらっしゃい」の一言もなく、タオルで額を拭き、ふー、と大きく溜息をついていた。

「こう暑いとさ、家で料理つくる気力なくなるじゃん? だから肉よりコロッケとかメンチの方が売れるんだわ」

 言いながら、コロッケを手早く揚げていく大輔は、外にいるときよりも店の中にいる方が汗だくだった。

 そういえば、この間もおまけしてもらったんだっけ。あれは焦げていたけれど、今回のは、上手に揚がっていた。

「ほら」

 僕は受け取り、その場で一口かじりつく。揚げたて、しかもこだわりの豚挽肉を使っていることもあって、じゃがいものほくほくと肉のジューシーが、渾然となって口の中に広がり、旨い。

 さすがにお金を払わないのも悪いなあ、と思って申し出るも、大輔は「いい、いい」と手を振って断った。

「や、でも、今日母さんに好きなもの買ってきなさいって、小遣いもらってるしさ」

 子どもが同級生だから、母親同士も知らぬ仲ではない。うちの母親は、いつもエネルギッシュなフジワラのおばさんに、押され気味ではあるが。

 そんな「肉のフジワラ」で、大輔からの申し出とはいえ、頻繁にサービスしてもらったり奢ったりしてもらったとなると、母は恐縮してしまう。神経が細く、気を遣いすぎる性質は、僕にもほんの少しだけ、受け継がれている。

 小銭を渡したい僕と、受け取りたくない彼。小さな攻防戦だ。大輔が両手を挙げて降参ポーズをしたから、僕が勝ったと思った。

「わかったわかった。でも俺、代金よりもお前にやってほしいことがあるんだわ」

「やってほしいこと?」

 にやりと笑う大輔は、最初からそのつもりだったに違いない。本当の勝者はどちらなのか、わからなくなった。 

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