第三話 黒い糸
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七月も半ばになり、あと十日ほどで終業式。梅雨がようやく明け、まぶしい太陽にさらされる季節だが、僕の心には、まだどんよりと重い雲がのしかかったままだ。
帰りのホームルームが終わり、掃除当番でもない僕は、さっさと席を立とうとする。そこに、狙いすましたタイミングで、椅子を押さえつけられた。
立ち上がりかけていた僕は、中腰の状態で止まってしまった。太ももが椅子と机にぎちぎちと挟まれて、痛い。
無理矢理振り返ってみると、犯人は渡瀬だった。
彼はわざわざ僕のところまで来て、普段はボールを蹴っている足で、椅子を押さえつけていた。
エースストライカーの脚力は、僕が想像するよりもはるかに強い。
「渡瀬、痛いよ」
努めて冷静に、僕は訴えた。感情的になったら負けだということを、最近になって学んでいた。爆発しそうになる度に、自分の心を圧迫する。繰り返しているうちに、クラスメイトに抱くありとあらゆる気持ちは、死んでしまったのかもしれなかった。
篤久が精神を病んで入院し、美希が事故に遭い、その心臓が美空に移植されたあの瞬間に、僕もまた、人間らしい心を失ってしまった。
渡瀬は僕の言葉を、鼻で笑った。
「何帰ろうとしてんだよ。お前、掃除当番だろ」
「いや、僕は……」
違う、と言いかけたところで、ヘッドロックをかけられた。息ができない。渡瀬の腕を強めに叩いても、離してくれない。
「お前、掃除当番だよな?」
わかった。わかったから。
YESと答えて、ようやく解放される。
最初から俺の言うとおりにしてればいいんだよ。
鼻で笑ったかと思うと、彼は僕の背中を強く叩いて、同じサッカー部の友人たちとともに、行ってしまった。
その中には、渡瀬同様、今日の掃除当番の奴もいた。ちっとも悪いと思っていない顔で笑い合い、連れだって出て行く。
僕はぐるりと教室を見回した。女子と目が遭ったけれど、視線をすぐに逸らされてしまう。
気づけば、六人いるはずの掃除当番は、誰もいなかった。まだ教室にいる生徒も、誰ひとりとして「手伝おうか?」と、声をかけてくることはない。
学校でも、腫れ物扱いだ。
黙々と床を掃き、机の位置を戻す。黒板を丁寧に消し直して、黒板消しクリーナーをかける。チョークの粉が飛んで、むせた。新しい学校だと、ホワイトボードになっているところもあるらしい。
あちこち老朽化が進んでいて、改修工事を順番に待っているうちの学校では、望むべくもないけれど。
クラスメイトはすでに、誰もいなかった。
いじめられる生徒というのは、一見地味にしていても、ノリが悪いだとか容姿が著しく平均からずれているとか、目立つ要素がどこかにあるものだ。
僕は、ごくごく平凡な、本当に目立たない存在だったから、これまでいじめられた経験はなかった。
高校に入学してからのわずか三ヶ月の間に、うちのクラスには事件が相次いだ。その両方に僕が関わっている。言い出したのは、青山だった。
五股、六股(実際の数は、僕にすらわからない)かけたあげく、刃傷沙汰を引き起こした篤久は、僕の親友だから、青山の言い分もわかる。もっとちゃんと諫めていたら。
そして、美希の死。確かに僕は、間接的に関係がある。だが、学校の連中は、僕が病院で美希の双子の姉妹である美空と親しくしていたことを、知るよしもない。
美希の死によって、美空が健康な心臓を得たことも、何も知らないのだ。
青山は、僕を糾弾した。
曰く、「美希を病院で見たってこいつが言い出してから、おかしくなった」と。
だから、上の空で歩いていたところを車に轢かれたのは僕のせいだと、もっともらしい理屈をこねくり回した。
さすが学年トップは、他人を納得させる演説力にも長けていた。
そういえば、廊下で僕と美希が何か揉めているのを見た……と証言する生徒まで出てきて、僕は疫病神と断定されてしまった。
青山や渡瀬は僕にわかりやすく憎しみをぶつけてくるし、彼らとさほど親しくないクラスメイトたちは、触らぬ神になんとやら、思いっきり避ける。
家での扱いと、似たようなものだ。
そう言い聞かせて、日々を過ごす。
両親は僕を……というよりも、僕に連なる姉を、いないものとして扱うのだから、どうってことはない。
縁を結ぶ赤い糸と、縁を切る白い糸が争い、赤が勝った結果、美希は死んだ。姉妹の生存競争だ。
僕はその渦中に、自分から深く関わってしまっていた。
そんなこと、誰に話したって信じてもらえるはずがない。
だから、学校で無視をされるのは、むしろ僕への罰である。受け入れなければならない。
片手に雑巾を持ち、もう一方の手で椅子を下ろしていく。下ろしたそばから机を拭く。どうせたいしてきれいな天板でもないので、適当。
落書きどころか、中には彫刻刀で彫った跡まで残っている。
テスト前にはすべて消すように言われるのに、どうして学校の備品を汚損するような真似をするのだろう。
「ん……?」
その中にひとつ、明確に誰かに向けたメッセージを発見した。
薄い鉛筆の筆跡なのに見逃さなかったのは、最近、僕の心を占めているのと同じ言葉だったからだ。
『ごめんなさい』
ここは、誰の席だったか。僕はぐるり、記憶の中の配置と照らし合わせる。すぐに答えははじき出された。遠藤の席だ。
彼女は、美希に対して従順だった。親友というには、彼女に遠慮をしすぎだった。女王様に仕える侍女のように、ひっそりと寄り添っていた。
美希の死後も、仲良しグループは崩壊しなかった。彼女がいなくなったことで、より結束が深まったようにも見える。笑うことも少なくなった遠藤のことを、青山と渡瀬は励まそうとする。遠藤は彼らの言動に、少し困惑している様子を見せた。
美希の立場をスライドしている。でも、遠藤は美希のように振る舞うことはできないから、どこか違和感が、しこりとして存在している。
ごめんなさい、の文字をなぞる。女の子らしい、きれいな文字だった。少しだけ右に上がる癖がある。
謝罪は独り言ではない。誰か相手がいてこそ、紡がれる言葉だ。
授業中に当てられた遠藤が、黒板に書いた文字を思い出す。彼女自身の筆跡で、間違いないだろう。
遠藤は自分の机に、誰かに向けての謝罪を書いた。その相手は、二択だ。
今はもういない美希に対してか、あるいは、自意識過剰かもしれないが、僕か。
青山たちの煽動によって、陰湿な目に遭っている僕のことを、彼女は時折、もの言いたげに見てくる。
遠藤は、自分の意見をはっきりと言えるタイプではない。渡瀬や青山を止められないことを、僕に謝っている。
そう解釈することもできた。
僕は少し考えて、筆箱からシャープペンシルを取り出した。他人の机に落書きをする、小さな悪事。少し緊張する。遠藤の筆跡よりも薄い字で、僕は一言、書き添えた。
気にしないで、と。
もしも美希に向けたメッセージだったとしても、いいじゃないか。遠藤の無用の罪悪感を拭うことができるなら、これもまた、贖罪だ。
最後まで掃除をひとりでやりとげた僕は、担任への報告をして、帰宅の途につく。
教師も、最近毎日ひとりで報告に訪れるのを認識しているくせに、僕が平気な顔をしているものだから、見て見ぬ振りをしている。
その方が楽だから。僕だって、みんなと同じ立場だったら、そうしている。
いじめではない。断じていじめではないのだ。ただ単に、居心地が悪いだけ。
僕は先生に挨拶をすることもなく、背中を丸めて下校した。
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