3
放課後、部活も何もしていない僕は、まっすぐ家に帰るのが常だが、今日は違った。
商店街と住宅地の狭間、古民家に擬態した、ニッチな商材を扱う店に向かう。
途中で肉屋の店主の息子に声をかけられた。
「おー、紡。お前、コロッケいらん? つか買って! 俺を助けて!」
「どうしたの、
彼は姉と同級生だったし、肉屋は昔からのおつかいルートのひとつで、僕のこともよく知っている。
クラスメイトとあまりなじめないのは、年上との方が、付き合っていて楽だからなのかもしれない。
大輔は鼻の根元にぎゅっと皺を寄せた。それがさぁ、と内緒話の体勢になったものの、母親――名前は知らない。「肉のフジワラ」のおばさん、というのが彼女の通り名だ――が、彼の頭を叩いた。ものすごくいい音がする。中身が詰まっているからか、それとも空っぽだからなのか。
「いっ……!」
後頭部を押さえてうずくまる大輔を見ていると、後者としか思えなかった。
「この子がねえ、調子に乗って揚げすぎたのよ。ちょっと焦げてるし、サービスするからさ、紡くん、買ってかない?」
もとの値段は一個一二〇円。二〇〇円でふたつ売ってくれるという破格の扱いだが、ひとりでふたつ食べるのは、大輔みたいな運動部出身なら余裕だろうが、僕は少食なのだ。
悩む僕に、「お前あれだろ、あのあれ」と、大輔は要領を得ない。
「?」
「あー、あれだ。お前、バイトしてんだろ? そこの店の人にあげればいいじゃん」
あの人に。
僕は固まって、考え込んでしまう。
あの人、コロッケとか食べるんだろうか。
僕は大輔に勧められるがままに、無意識にコロッケをふたつ買い、ふらふらと店に向かった。
あれ? そういえば僕、大輔にバイトのこと言ったっけ?
まぁ、隠しているわけじゃない。肉のフジワラのおばさんは、この辺のおばさんたちのボスみたいな存在だから、噂話もすぐに耳に入ってくる。
きっと大輔も、そのとき小耳に挟んだのだろう。
看板も何も出ていない店の前に着く。いつもこの扉の前に立つと、少し呼吸がしづらくなる。立ち止まったままでいると、今日は珍しく、客が出てきた。慌てて横にどける。
ボリューミーなマダムがふたり、おしゃべりをしながら出てきた。派手な化粧とちぐはぐな、適当に干してあったものを着てきただけの服装は、彼女たちの目的が「どちら」なのか、わかりづらくしていた。
会釈をした僕に、ふたりはちらとも視線をよこさなかった。楽しげな会話の内容から、彼女たちは普通に手芸が趣味の女性たちだということがわかり、知らず、細く息を吐き出していた。
一度中から開いた扉を再び開けるための勇気は、もはやいらなかった。
わざと音を立てて開ける。店主はいつもと同じように、レジを置いた木製カウンターの後ろに座っている。
今日の彼女は手元の本に目を通していて、ドアが開いた気配に気づきながらも、読書をやめなかった。いらっしゃいませ、の一言もない。客ではない、僕がやってきたのだと、こちらを一瞥すらしないのに、どうしてわかるのだろうか。
店主・黒島糸子は、不思議な女だ。
本を読んでいるからというわけではなく、彼女は常に伏し目がちだ。睫毛が濃く長く、黒と肌の白、それから唇の赤だけで構成された糸子は、美しいが、生気を感じられない。
僕は手にしたコロッケの袋と彼女を交互に見る。
「あの、糸子さん。コロッケ、いります?」
彼女は僕の問いかけに、少しだけ顔を上げた。ひくりと鼻をかすかに動かしたものの、首を横に振った。
揚げ物の匂いを嗅ぐ。すなわち、五感のひとつを働かせる仕草に、彼女もまた人間であったのだと、少し安堵する。
僕は急いでコロッケをひとつ食べて、残りは家に持って帰ることにする。紙包みから油が染みないことを祈った。
ここで働きなさい、と、糸子は言った。
篤久のような人間を出さないように、見張りたいのならば、と。
また、僕はこの店で働く縁が繋がっているとほのめかされた。その言葉の意味を知りたいのだが、雑談をする雰囲気ではないために、僕はいまだに聞けずにいる。
働くといっても、シフトはない。気が向いたときに店に来て、飽きたら帰る。給料はその場で手渡しだ。
時給は一〇〇〇円で、高校生のバイトとしては、破格中の破格。店にいた時間分だけ、糸子がレトロなレジスターから札を取り出し、わざわざポチ袋に入れてくれる。
篤久の仇とも言える女からの金を使う気にはなれなくて、僕は入っている袋ごと、机の引き出しにしまい込んでいた。
都合のいいときにだけ店に来る僕に、与えられる仕事はない。ひとつしかない椅子は、糸子が占領している。
ただ立ち尽くしているだけなのもあれなので、僕は掃除を買って出る。この間持参して、置きっぱなしにしていたエプロンを身につける。
ハタキを手に、僕は糸子を観察する。
読書をしている彼女の口元は、笑み曲がっている。そこには喜びも楽しみも、浮かばない。常に微笑を保っているのは、彼女の計算ではないか。
どうも、糸子は人間を装っているように、僕には見えるのだ。姿かたちは圧倒的な美しさを誇るが、確かに人間だ。けれど、どうもその奥底にあるものは知れない。
客商売にスマイルは必要だが、彼女があのマダムたちの相談に乗ったりしたとは、到底思えなかった。
棚の上の埃を落とし、箒で床を掃く。特別汚れているわけではない。糸子だって店を経営している以上、店内の掃除は毎日行っている。
最後に棚や机をから拭きをして、振り返る。糸子は一ミリも動いていない。彼女の周りだけ、時が止まっていたようだ。
ぼーっと眺めていると、扉が開いた。振り返って、「いらっしゃいませ」と声をかける。バイトに入っている時間に、客が来るのは初めてだった。
声がひっくり返ったが、少女たちは楽しそうにしていて、挙動不審な店員の存在など、目にも入っていない。糸子を見れば、客だというのに特に何をするわけでもなかった。
「どの赤い糸にするー?」
「これで
「ばか。そんなわけないじゃん」
手芸趣味ではなく、都市伝説に期待した方の客だったが、ノリは軽い。
思わず、「やめた方がいい」と口を出しかけたが、この暗い男に言われたところで、「なにこいつキモい」と嘲笑われるだけだ。小学生(ランドセルだった)に白い目で見られるのは、さすがに傷つく。
僕は何も言わずに、買い物を見守っていた。赤い糸の束を持って、レジに持って行く。そこでようやく糸子は立ち上がり、値段を告げる。
そして、ぞっと美しい微笑みを浮かべて、言うのだ。
「ごえんのお返しでございます」
来たときと同じように、彼女たちは笑いながら帰っていく。後ろ姿を見送って、僕は知らず、息を詰めていたことに気づく。
「あの」
読書に戻ろうとしていた糸子に声をかけると、彼女は心のこもらない目で、こちらを見返す。返事もなく、ただ僕の話の続きを待っているだけの糸子に、空気が張り詰める。
「……あんな子ども相手に、赤い糸を売りつけて……篤久みたいなことになったら、どうするんですか」
子どもの気持ちは、高校生の自分たちよりもずっと強く、純粋であるに違いない。好きな人と付き合うことができて、喜ぶだけならいい。けれど、それを悪用する可能性は、やっぱりゼロとは言い切れない。
彼女は小首を傾げた。
「別に、この糸に特別な力はないわ。縁を繋ぐのは、そうね……信念の力」
「信念?」
糸子は語る。これまでとは違う、饒舌さで。多少の興奮も感じられる。早口、パッと見開かれた目は黒目がちで、瞳も光彩も真っ黒だ。
「縁というのは、最初はただの偶然。引き寄せるのは、あなたの気持ち次第よ」
「その人」ではなく、「あなた」を使ったのは、僕の何もかもを見透かしているからのような気がした。背中は冷たく、腹は熱くなる。
病院で会った、「あの子」。
美希とそっくりで、彼女から嫌われている様子の彼女。美希には話をするなと念を押されていたが、そのせいでむしろ、気になって仕方がない。
彼女と出会ったのが偶然だとすれば、その後に関係を築くのは、僕が信念に基づいて行動をしなければならない。
僕は、彼女について知りたい。
エプロンを外して、鞄にしまった。
糸子は無言で、千円札を一枚、レジから取り出した。
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