夜凪
白崎なな
第1話 夢の中。
静かな空間に、血の滴る音。骨が崩れていく音が響く。
自分の足元には、血の海ができている。むせ返るほどの生臭い血の匂い。
「一緒に帰ろうか」
知らない男が、私に手を差し伸べてニヤリと笑う……。
普通であれば、ぞくりとするような光景だ。それなのに私は、どこか暖かい感覚を感じている。
血の海の上を歩く。下を見なければ、ただの水たまりを歩く音にしか聞こえない。
「帰るって……どこに?」
そう私は言って、その男の手に触れようとした。指が男の手のひらに触れる瞬間に、アゲハ蝶になりパッと男は消えていった。
****
ハッとなって、目が覚める。寝転んだまま、手を上に伸ばして手の甲を見つめる。……もちろん何もない。
他人に言えば怖い夢だろう。しかし、当の本人としては怖い感情は全くない。
電子音が、時差で音を鳴らす。スマホを手に取り、アラームを止めた。
白い天井、白の壁紙。大きな窓に、クリーム色のカーテン。ぐるりと見渡しても自分の部屋。
ベッドから降りて、ヒヤッとする床に足をつける。ペタペタと歩いて姿見の前に立った。
黒のワンピースに、黒のストレートの長い髪。指で髪をすいて、整える。真っ黒な自分の瞳と視線とぶつかる。
「私は、帰る場所がある?」
しんと静まる部屋に、ぽつりとつぶやく声が消えていく。誰もいないこの部屋で、誰に言うわけでもない。
ただの独り言。
ふうっとため息をついて、鏡に背を向けた。
黒のワンピースを脱ぎ捨てて、スーツに身を包む。黒の長い髪をひとつに結んで、頬を軽く叩いて気合いをいれた。早く着替えて出社をしなくてはいけない。
朝7時半に、満員電車に揺られる。
暑い人の熱と、冷たいクーラーの空気。締め切られた息苦しい空間に、押し込められた人々。
――息が詰まる。
家を出て数分なのに、もうすでに家に帰りたい。帰って何をするわけでは無い。それでも早く帰りたい。
目を閉じて、嫌な空間から目を背ける。
目を閉じても、苦しさからは解放されない。毎日、退屈な日々を過ごしている。透明のガラスの自動ドアを潜る。
朝早くからもうすでに、ちらほらとPCに向かう社員の姿。
「おはようございます〜」
「あ、早見さん。おはようございます〜」
私の隣の佐々木さんが、緩い挨拶と共に椅子を滑らせてきた。明るい茶色にカラーリングされた、緩く巻かれた長い髪を揺らしている。
佐々木さんは、オシャレが好きらしく毎日ヘアスタイルを変えて出社してくるのだ。
「早見さん! 聞いてください!」
周りをキョロキョロとして、耳打ちをする。囁くほどの小声で、こそっと話す。
「実は、部長と……」
「おはようございま〜す」
ウワサ好きの佐々木さん。こうして、新情報を私に教えてくれる。きっと私だけでなく、この部署全体に広めているのだろう。彼女が知ると、一瞬で広まるのだ。
そして今ちょうど遮ってきた、女性がこの部署の部長だ。
流石の佐々木さんでも、本人の目の前では話せないらしい。こほんっと咳払いして、PCに向かった。私もカバンをデスクの下に置いて、PCを立ち上げる。
普通の人なら、あんな中途半端なことを言われたら気になるだろう。しかし私は、どうでもいい。誰が誰とどんな恋愛をしようが。全く気にならない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます