Smoking Music

@TK1124

扉の向こう側


 穏やかな午後、店内には柔らかな陽光が差し込み、古びた木のカウンターがほのかに輝いている。

 棚には古いギターやアンプが並び、時折、窓越しに通り過ぎる人々がちらりと楽器を一瞥しては立ち去っていく。

 外からは、たまに車が通る音や、小鳥のさえずりが聞こえるだけで、店内には静けさが漂っていた。


 アユムは黙々と検品作業をしていた。

 

 かつてアユムは「ユウ」と名乗り「Daily Trail」というバンドのギターボーカルとして活動していた。

 しかし、とある事情でバンドが解散してからというもの、彼の音楽に対する情熱は徐々に冷めていった。


 夢見ていたステージから遠ざかった今、アユムは静かな生活を求め、同じ「Daily Trai」のメンバーだった、智寛が店長をしている楽器店で働くことを選んだ。


 窓越しに見える通りには人通りも少なく静かな時間が今日も流れていた。


「今日は早く店仕舞いして、ライブに行くぞ」


 穏やかな雰囲気を破るように、智寛の声が響く。

 光が差し込む店内に、作業をしていた手を止めて店長の智寛を見上げた。


「ライブって……誰のですか」


 アユムは一瞬戸惑った。

 智寛は野暮用で店を閉めることはほぼない。

 なので、ライブを行くためになんて珍しかった。


「まあ……楽しみにしておけよ」


 それ以上の説明はなく、智寛は鼻歌を歌い始めた。

 アユムは言葉を出そうとしたが、あきらめた。

 店内の照明が落とされて、二人は近くのライブハウスへと向かった。



 ライブハウスの入り口の壁には数多くのバンドのサインポスターが貼られていて、色褪せたものやから新しいものまでが過ぎ去った時間と今を象徴するかのように並んでいる。


 アユムはその中に、かつて自分が夢見た世界の片隅を見つけ、心が少しざわつくのを感じた。


「いくぞ」


 いつのまにか受付を済ませた智寛がアユムの背中を叩く。

 客席に足を踏み込んだ瞬間、独特の空気に包まれる。

 熱気と期待感が混ざり合った雰囲気。

 彼の心には久しく遠ざかっていた音楽への感覚がかすかによみがえる。

 しかし、その感覚は長続きしなかった。

 次第に、アユムの胸にじわじわと広がっていくのは、かつて抱いていた夢を思い出させる苦しさだった。

 ステージ上で輝いていた自分、そしてそれを失った自分。


「もう、俺はこの場所にいないんだな……」


 アユムはそう呟きながら、胸に押し寄せる感情が押し寄せる。


「アユム、大丈夫か」


 智寛が心配そうに声をかけてきて我に返る。


「うん、大丈夫」


 心の中ではまだ引っかかりがあったが、無理やり笑った。


 なんとなくその場に立ち尽くすのも落ち着かないため、ステージが良く見える位置に移動する。

 少し距離を取って全体を見渡せる場所に移動すると、舞台上では準備をしているバンドマンたちが目に入る。

 その中で派手なスカジャンを着ている1人の青年がエレキギターをアンプに繋ぎ準備をしていた。

 その姿にアユムはなぜか目を奪われた。

 ステージが暗転し、曲が始まる。

 彼は鋭い視線を持ち、痩せた体にギターを抱え、堂々としたプレイスタイルでステージを支配した。

 力強く、かつ繊細なギターの音色がアユムの胸を揺さぶった。

 胸の奥に潜んでいた音楽への情熱が、再び目覚めたかのように感じた。

 

 演奏が終わり、アユムはふと息をつき、足早に店内を出て喫煙所に向かう。

 彼のギタープレイに引き込まれて息をするのを忘れていた。

 ライブの熱気が残る会場の外、涼しい夜風が心地よく感じる。

 アユムは手元の煙草に火を付け、一息ついてようやく気持ちが落ち着き始めた。

 ソロの途中で彼が一瞬間を置いて、弦を強く引いた。

 あの瞬間、場内の空気がさらに緊張し、全員がその一音に集中しているかのようだった。

 強烈な一音が過ぎ去ると、音が一気に解放され、切ないメロディが静かに響いた。

 そして、どこか懐かしさを感じさせる存在感を放っていた。


「一緒に吸ってもいいですか?」


 もう一本煙草に火を付けようとすると、背後から声が聞こえた。

 突然の声に、アユムは驚いて振り返った。

 ステージでギターを弾いていたあの青年が立っていた。

 近くで見る彼は、痩せた体に派手なスカジャンをまとい、先ほどの鋭い目つきとは対照的に、ふわふわした茶髪と穏やかな雰囲気が印象的だった。

 ステージ上ではまるで別人のようにギターを支配していた彼が、ここではただの青年のように見える。

 彼がタバコを取り出した瞬間、アユムは思わず微笑んだ。


「同じ銘柄ですね」


 アユムの言葉に、青年は嬉しそうに小さく笑った。


「本当だ。これあまり見ないですよね。この匂いがずっと好きで吸っています」


 その無邪気な一言に奇妙な親近感を覚え、アユムの心に小さな安堵をもたらした。

 彼が手慣れた様子で煙草の香りを充満させる。

 その様子を横目に、ふと思い出したように口が動く。


「さっきのギター、すごくかっこ良かったです。特にソロの部分、鳥肌が立ちましたよ。」


 彼は一瞬驚いた表情になり、静かに微笑んだ。


「……そんなに褒められることないから、すごく嬉しい」


 その言葉にアユムは目を見開く。

 彼ほどのギタープレイに誰も気づかないなんて。


「こんなに凄いのに、みんな気づかないなんてもったいないですね」

 

 率直に伝えれば、少し照れくさそうにしていた。


 「サクヤさん、そろそろ……」

 

 そのとき、先ほどのバンドメンバーだろう青年が呼びに来た。


「今行きます」


 サクヤさん、と呼ばれた彼は吸っていた煙草の火を消し、アユムに向き合った。

 

「じゃあ、えっと……」


 「アユムっていいます」


 知らない人に軽々しく名前を教えてはいけないはずなのに、この人だけには覚えてもらいたかった。

 

「アユムくん、またライブに来てくださいね」

 

 穏やかに微笑む顔がアユムの胸に深く残り続けた。



「アユム、探したぞ~」


 しばらくすると智尋が少し笑いながら喫煙所にやってきた。


「ごめん、智さん。煙草吸いたくなっちゃって……」


 アユムは言い訳しながら、急いで煙草の火を消す。


「まあ、いいさ。で、今日のライブどうだった?たまには観るのも悪くないだろ」


「うんまあ……。悪くはなかった、かな。」


 曖昧な返事をしながら、智寛の問いをぼんやりかわした。

 サクヤの笑顔がまだ頭から離れなかった。

 

「でも、本当はお前に会わせたい奴がいたんだけど……またの機会かな」

 

 智寛は少し困った顔をし、そう付け足した。

 智寛の言葉に、アユムは何とも言えない感情を抱きながら、家路に向かった。


 02


 サクヤは自身の相棒といったエレキギターの弦を買うために楽器店を訪れた。

 街中にある小さな楽器店は、知り合いの智寛が店長を務めている。

 店内に足を踏み入れると、淡い陽射しが古い木製のカウンターを撫でるように照らし、店内に落ち着いた温かさが漂っているなか、智寛が笑顔で出迎える。


「いらっしゃい」


「智さん、こないだのライブ来てくれてありがとうございました」

 

 サクヤは明るく声をかけた。

 智寛は作業していた手を止めて、頭をかく。

 

 「話せなくてごめんな。本当はユウにも会わせたかったんだけど……」


 そういえばそうだったと、サクヤは思い出す。

 以前、智寛との会話の中で「Daily Trail」というバンドのドラマーだったことを知り、ユウに会ってみたいと智寛にこぼしたことがあったのだ。

 

「いや、大丈夫ですよ」


 代わりに、気になる人を見つけたので。

 

 サクヤの頭には、自分のギタープレイを褒めてくれる黒髪マッシュヘアの青年・アユムのことが離れなかった。

 アユムが発した言葉、そして、どこか懐かしい感じがする不思議な感覚。

 自分と同じ銘柄のタバコを吸っていることすら妙な偶然に思えたが、それ以上に彼に対する引っ掛かりを感じていた。

 智寛からいつも使っている弦を購入してると、店の奥から例の彼がバインダーを持って姿を現した。

 

「智さん、これの発注どうします?」

 

「アユムくん!」

 

「あ、こないだの……」

 

 サクヤは驚きつつも、再会できたことに心の中で喜びを感じた。

 あの日、初めて会ったはずなのに、また会えたという感覚が不思議でたまらなかった。

 この懐かしさは、ただの偶然の感覚ではない――サクヤの心のどこかが、アユムとの再会を強く望んでいた。

 その様子を見ていた智寛がにやりと笑い、提案してくる。


「サクヤ、音出しついでに二人でセッションでもやってみたらどうだ?」


「え?」


 二人の声がきれいに重なった。

 

「おれは嬉しいけど……」

 

「いいっすよ」

 

 彼のほうを見ると、驚きながらも提案を受け入れてくれた。

 

「え、本当に?」

 

「じゃあ、決まりだな」


 智寛は満足げに笑っていた。

 

 

「ここで働いてるけど、こんなスタジオがあるなんて知らなかったな……」

 

 アユムがぽつりとつぶやく。

 店の裏奥、倉庫にもなってそうな場所に入ると、機材類が揃っており、練習するには十分の広さだった。

 サクヤは背負っていたギターケースからエレキギターを取り出し、手慣れた手つきで弦を変えていく。

 

「セッションは嬉しいけど、アユムくんは何か楽器やってたの?」

 

「昔、智さんからドラムを教わってたよ」


 アユムはドラムセットに座り、ドラムスティックを片手で回し始めた。

 それを横目で見つつ、アンプにつないでいく。

 

「そうなんだ!じゃあカウントお願いしてもいい?」

 

「久しぶりだから、下手かも」

 

「全然気にしないよ」

 

 アユムは頷き、力強く、時に柔らかくリズムを響かせていく。

 自然と引き込まれるビートにサクヤは、ギターの弦を軽やかにすべらせ、音を重ねていく。

 ギターとドラムの音が重なる瞬間、それはただの即興演奏ではなく、二人が一つの楽曲を共に紡いでいるように感じられた。

 まるでお互いの音が心地よく絡み合い、言葉なくとも音楽で通じ合っているような感覚だった。

 

「ちょっと合わせるつもりが、ガッツリ弾いちゃった」

 

 最初は軽く合わせるだけのつもりだったが、気づけばどんどん深いところまで入り込んでいた。

 普段、ライブではサポートばかりをやっているサクヤにとって、思いっきり自分の好きなように弾ける機会は少ない。

 だからこそ、こんなふうに音を重ねるのが何より心地よかった。

 サクヤは笑いながらギターを抱え、汗ばんだ額を軽く拭う。


「確実に一曲分やってましたね。」


 アユムも笑顔でドラムスティックを置き、疲れた体を少し伸ばしていた。


「……よかったら今度、曲作ってみます?」


 ふと視線を向けて、アユムが提案してきた。

 その言葉に、心がぐっと引き寄せられるのを感じた。

 自然とギターを握る手に力が入る。

 

「ぜひ!」

 

 アユムとなら、自分の思い描く音がもっと自由に、そしてあの人のように心に響く何かを作れるかもしれない。

 サクヤが憧れるDaily Traiのユウみたいに。

 そんな期待が、今まで以上に膨らむのを感じた。

 スタジオを出た後も、サクヤの心にはアユムとのセッションの感覚が残っていた。


 03


 

 楽器店の奥にあるスタジオで、アユムとサクヤは再びセッションを楽しんでいた。

 音楽が始まると、二人は自然にリズムを合わせ、互いのプレイに引き込まれるように音が絡み合っていく。

 アユムの提案で録音機材が準備してあり、二人のセッションは音楽ソフトにも取り込まれていった。

 アユムが軽いリズムから始めると、サクヤもそれに合わせてギターを奏で始める。

 テンポが徐々に上がり、彼らの音が1つの流れになっていく。


「やっぱり、いい感じだよな」


 アユムは自分の叩くリズムとサクヤのギターがぴったりと合っているのを感じ、思わず口にした。


「アユムくんのリズムが最高だからだよ」


 サクヤは笑顔で答えながら、ギターのフレーズをさらに複雑にしていった。

 それに応じてドラムを強調し、二人のセッションはさらに熱を帯びていく。


 音楽ソフトで録音されたセッションは、パソコンの画面に音の波として記録されていた。

 一旦ドラムを止め、録音したデータを確認するためにPCの前に座る。


「このリズムとフレーズ、もっと膨らませられそうだね。」


 アユムが画面を見ながら話すと、サクヤも興味深そうに覗き込む。


「本当だ、リズムがすごく心地いい。これ、もう少し調整したら曲になるんじゃない?」


 サクヤの声にアユムはうなずいた。

 セッションから生まれた良いリズムやフレーズを取り入れ、即興的に音を重ねていった。

 自分たちの作り出した音に没頭し、気づけば完全に自己満足のセッションに浸っていた。

 二人の笑顔が絶えず、音楽そのものを楽しむ純粋な時間が流れていく。


 

「今日も楽しかったね。」


 楽器店の外に出て、一息つく。

 心地よい風が吹いているなか、煙草休憩を挟んだ。

 アユムはサクヤが持っているライターに目を留める。


「え、そのライターは……」


 サクヤは少し照れくさそうにライターを見せながら言った。


「これ、Daily Trailっていうバンドのライターだよ。アユムくん知ってる?」


 アユムは疑問の表情を浮かべた。

 それはバンドの試作で作っていたライターであり、なぜサクヤが持っているのか。


「貰ったときは知らなくて、後からDaily Traiのユウさんだったことに気づいて……そのときは驚いたよ。それから、ユウさんの配信動画で歌声を聞いたら、一気にファンになっちゃって」


 サクヤの言葉に内心動揺しつつも、サクヤの熱意に引き込まれていった。


「ユウさんの歌、ほんとにすごくて、心にズンと響く感じの。あの歌声とギターが忘れられなくて……自分じゃ歌えないけど、気に入った曲、耳コピして弾いてるよ。あのギターをどうにかして真似したくて」


「そうなんだ……」


 サクヤが心底ユウを尊敬していることがわかる。

 しかし、その場で真実を言い出すことができなかった。

 そのユウが今の自分だと明かせば、彼の憧れはどうなるのか――そんな疑問がアユムの心に重くのしかかるのであった。


 04



 雨が静かに降り注ぐ午前、店内には薄暗い光が差し込み、古びた木のカウンターがしっとりと濡れている。

 外の雨音が心地よく響き、静かなひとときに身を委ねる。

 アユムはパソコンで、サクヤと作り上げた音楽ソフトのセッションを聞いていた。

 無数の音が重なり、互いに溶け合う。

 サクヤとの演奏は、どこか安心感があり、同時に自分を揺さぶるような高揚もあった。

 その音楽に浸りながら、出会ってからの日々を振り返る。

 サクヤの明るい笑顔や、音楽への情熱はアユムに刺激を与え、再び創作の意欲を掻き立てる。

 日々のセッションが進むにつれて、サクヤとの絆は深まり、アユムの心に少しずつ明るさが戻っていた。

 

「よっ! 久しぶり」


 突然、背後から馴染みのある声が響いた。

 驚いて振り返ると、そこにはタイガが立っていた。

 かつてバンドを共にしていた、あのタイガだ。

 瞬間、忘れかけていた過去の痛みが蘇り、アユムの表情が険しくなる。


「……何しに来たんだよ」


 冷たい言葉を口にしても、タイガは気にする素振りもなく、にやりと笑った。

 その顔には、以前と変わらない軽薄さが浮かんでいる。


「いやぁ、元気にやってるかなぁって思ってさ。」


 タイガの話し方には懐かしさすらあったが、アユムの中ではすでに過去の人物だった。

 以前、タイガはアユムが心血を注いで作った曲をすべて横取りし、自分のものにした。

 その裏切りの記憶は消えることなく、心の奥底で燻り続けていた。


「そっか、お前が最近またライブハウスに足を運んで、バンドマンとつるんでるって話、小耳に挟んだよ」


「お前には関係ないだろ」


 言葉に冷たさが滲む。

 アユムは、サクヤとセッションすることで少しずつ音楽への情熱を取り戻していた。

 サクヤのパフォーマンス姿を見に、ライブハウスにも顔を出すようになった。

 タイガにとやかく言われる筋合いはない。


「たしか……サクヤって言うんだっけ? お前が仲良くしてる奴って。」


 その名前をタイガに言われた瞬間、アユムの胸に苛立ちが募った。

 タイガはサクヤのことを知らないはずなのに、何かを企むような目でこちらを見ている。


「まあ、あの見た目だったら、男でも惚れるよなぁ」


「……黙れよ」


 アユムはタイガを睨みつけた。

 サクヤのことを軽々しく言われるのが許せなかった。

 過去の裏切りだけでなく、今度はサクヤまで巻き込もうとしているのか。

 怒りがこみ上げて拳を握りしめるが、なんとか衝動を抑えた。

 深呼吸をして心を冷やそうとするも、タイガの薄笑いは止まらず、不愉快な空気が漂い続ける。


 その晩、閉店の準備を進めていると、サクヤがライブ終わりの勢いそのままに駆け込んできた。

 彼は興奮した表情で、何かを伝えたくてたまらない様子だった。


「アユムくん! 聞いてよ! さっきユウに会ったんだ!」

 

「……ユウに?」


 その名前を耳にした瞬間、アユムの胸が苦しくなった。

 ユウはかつて自分が使っていた名前だ。

 サクヤがその名前を口にするたび、アユムはざわつく気持ちに苛まれる。

 しかし、サクヤはそんなことには気づかず、瞳を輝かせて話を続けた。


「そう、あのユウだよ! ずっと憧れてたんだ……ライブハウスで偶然会えてさ、それでユウが俺に『一緒にセッションしてみませんか?』って誘ってくれたんだ!」


 その表情には純粋な喜びがあふれていた。

 サクヤが自分の「ユウ」という名の過去に、これほどまでに夢中になっていることが、ただ辛かった。


「だから……アユムくんも一緒に行こうよ! ユウとアユムくん、二人とセッションできたら最高だと思うんだ。」


 ユウに会えたという喜びが、自分じゃない誰かに向けられる笑顔に胸が痛む。

 サクヤの言葉には期待がこもっていたが、アユムはその提案にどう応えていいかわからなかった。


「……俺は行かなくてもいいだろ」


 アユムが冷たく言い放つと、サクヤは驚いた表情を見せ、少し寂しそうに視線を落とした。

 そして、すぐにぎこちない笑顔を作って言った。


「そっか……でも、やっぱりユウに会ってもらいたかったな。アユムくんもきっとユウのこと、好きになると思うんだけど……」


 サクヤの言葉にはわずかな不安が混じっていた。

 その瞬間、アユムの心に影が差した。

 サクヤは自分の気持ちを一切気づかず、ただ自分の憧れを叶えたいだけだったのだ。


「それでも俺には関係ないから」


 声が思わず荒くなる。

 サクヤは驚き、少し後ずさるようにして大きく目を見開いた。

 その後、何も言えないままお互いを見つめ合う。


「……そっか。なんかごめんね。今日は……帰るね」


 サクヤはぎこちない笑顔を浮かべ、少し俯きながら店を後にする。

 アユムはその背中が見えなくなるまで視線を外せず、心の中にわだかまりがさらに深く沈んでいくのを感じた。

 重い沈黙が店内を包み、窓の外では、厚い雲が空を覆っている。

 雨は一層強くなり、滴る音がアユムの耳に痛いほど響いていた。

 サクヤが店を出ていった後も、アユムはただその場に立ち尽くしていた。

 自分の「ユウ」としての過去が、今のサクヤにとって大切な存在になっていることが、皮肉にも心に重くのしかかる。


「俺はあの頃のユウじゃないのに……」


 苦々しい思いがこみ上げてくる。

 サクヤの視線がいつもユウを追い求めているようで、それがどうしようもなく寂しかった。

 サクヤとセッションすることで少しずつ救われたはずなのに、ユウという名前がその関係に割り込んでくる度、彼の存在が遠く感じられた。


 気づけば、握りしめた拳が震えている。

 雨音だけが響く店内で、アユムはその痛みに耐えながら静かに立ち尽くしていた。


 05

 

 ――アユムくん、話したいことがあるので、今から会いませんか?――。


 気まずくなってから数日後、サクヤからの急な連絡に驚きつつも、近くの喫茶店で待ち合わせた。


「話ってどうしたの?」


 二人分のアイスカフェラテが運ばれる。

 喫煙用に灰皿が置いてあるが、今は吸う気にはなれない。


「ユウにね、会ってきたよ。」


 サクヤは緊張しながら口を開いた。


「……そういえば言ってたね、今日だったんだ。」


 サクヤと連絡を取らなくなってから、どの日に会うか知らなかった。

 心なしか覇気がなく、もともと細身のサクヤだが一層弱く見えた。

 アユムは少し氷が溶けたアイスカフェラテを口につける。


「なんか、あの人がユウだなんて思えなくてね。」


 サクヤはぽつりと口にした。

 その言葉は、アユムにとって意外な返答だった。


「どうしてそう思ったの?」


 我ながら意地悪な問いかけだと思いつつも、気づいてくれたことに安堵した。


「……アユムくんといるのが楽しくて忘れていたけど、本当はこの顔が嫌いなんだ。」


 確かにサクヤは中性的な顔立ちをしている。

 その見た目とギタープレイでファンを魅了させているのも事実。

 しかし、本人にとっては苦労していたのかもしれない。


「昔から、面倒ごとばかりで……ギターだけが心の拠り所だった」


 サクヤは当時、正式メンバーとしてバンド活動をしていた。

 しかし、バンドメンバーたちもサクヤの外見にしか注目していなかった。


「お前は所詮顔だけだ。ギタープレイなんて誰も見てない。」


 ギター技術を誇っていたサクヤだったが、外見を理由に客を呼び込むためだけに集められたことを知り、存在意義を否定されたように感じた。

 なんとかステージには立てたものの、ライブが終わると同時に胸に抱えたショックと苦しみを引きずりながら身を潜めた場所が、あのライブハウスの喫煙所だった。

 喫煙所には誰もいないことが幸いであった。

 視界がぼやけるほどの涙が止まることなく頬を伝い、深い息をついて座り込んだが、胸の中の苦しみは収まりそうもなかった。

 自分の居場所はもうない。そう思ったとき誰かが近づいてくる気配がした。

 サクヤが顔を上げると、そこに立っていたのは金髪を無造作に遊ばせたパーマが特徴の青年だった。

 その彼こそ、ユウであった。


 ユウは、泣き崩れるサクヤに対して何も言わず、ただポケットからタバコを取り出し、静かに火をつけた。

 独特な香りが喫煙所に広がる。


「……タバコ吸わないのに、ここにいてすみません。」


 サクヤは涙をぬぐいながら気まずそうに言った。ユウはふっと笑い、優しく応じる。


「別に大丈夫ですよ。落ち着くまでここにいたらいいと思います。」


 そして一息ついてから、タバコを1本取り出し、サクヤに差し出しながら尋ねる。


「それとも、吸ってみます?」


 サクヤは戸惑いながらもそのタバコを受け取った。

 初めてのタバコに手が震え、恐る恐る口に含み煙を吸い込んだ途端、激しく咳き込んでしまう。


「大丈夫ですか?」


 ユウは笑いながらサクヤの背中を優しくさすった。


「無理せず、少しずつ吸ってみたらいいですよ。」


 ユウの言葉に促され、サクヤはもう一度タバコを口に含み、今度はゆっくりと煙を吸い込んだ。

 さきほどの咳き込みはなく、じわりと煙が身体中に広がる感覚がした。

 タバコの香りが徐々に馴染んでいき、心の中の重苦しさが少しだけ軽くなったような気がした。

 自分を覆っていた悲しみや孤独が、一瞬だけ遠のく。


「良い香りですね。」


 サクヤはふと呟いた。どこか落ち着くこの香りが、心を少し和らげてくれたようだった。

 ユウはその言葉に微笑む。


「気に入ったなら、それ全部あげますよ。」


 手にしていたタバコとロゴ入りのライターをサクヤに差し出した。


「え?」


 サクヤも驚きながらも嬉しさを隠せなかった。

 そして、少し照れながらも優しい光を宿した瞳でサクヤを見つめる。


「ギター姿がかっこよかったんで。俺もギターやってますけど、まだまだだなって気づかされました。」


 ユウの優しさが、この香りと共に自分の中に染み込んでいくようだった。


「お互いに頑張りましょうね。」


 吸いかけた煙草の火と共に、アユムは姿を消した。

 その言葉にサクヤは、初めて自分が誰かに受け入れられたような感覚を覚え、少しだけ救われた気がした。

 渡されたロゴ入りのライターを興味を持って調べたサクヤは、それがDaily Traiのバンドであることを知った。

 そして先ほどの彼はギターボーカルのユウだということも知り、彼のつくる音楽とユウの歌声に完全に心を奪われた。

 何気ない一瞬の出会いが、彼にとって大きな転機となり、音楽をあきらめずに続ける道を選ぶきっかけとなったことをアユムに伝える。


「あの時、ユウからこのライターと煙草を貰ってなかったら、今の自分はなかったかもしれない。彼は俺にとって特別な存在なんだ。」


 ポケットからロゴライターと煙草を出して、テーブルに静かに置く。

 同じ銘柄の煙草は偶然だと思われたが、ユウのマネだった。

 そして、アユムと初めて会った時、アユムが自分ではなくギターソロの話をしたことにも触れた。


「だから、そんな彼がおれの外見を言ってくるなんて、ね。」


「ごめん。」


 その告白を聞き、アユムは思わず謝ってしまった。


「なんで、アユムくんが謝るの?」


 サクヤは誰にも言えなかった過去を話し、なぜアユムが謝るのか理解できなかった。

 

「今のサクヤさんの顔、すごく壊れそうな顔してるから。」


 長い間抱えてきた心の傷が表情に現れていたらしい。


「ねえ、もしかして……」

 

 それと同時に、何かを隠していることに気付く。

 アユムは、これ以上サクヤを苦しめたくないと考え、ついに真実を伝える決意を固めた。


 06


 

 ポケットからペンを取り出して、紙ナプキンに「侑」と書いて、サクヤに見せた。


「これ、なんて読むと思う?」


 サクヤは不思議そうな顔で答える。


「……ユウ?」


「本当は、これでアユムって読むんだ。」


 その言葉に、サクヤは驚いた表情で目を見開いた。


「俺の名前、ユウって読まれることが多くてさ。『Daily Trail』のユウの由来も、ここからなんだ。」


 アユムは少し目線を落とし、膝の上で拳を強く握りしめる。


「だからユウは俺なんだ。今まで黙ってて、ごめん。」


 サクヤは驚きつつも微笑みを浮かべる。


「……なんとなく、そうじゃないかって思ってた。セッションしてたとき、アユムくんのリズムが、ユウっぽい気がしてた。それに、俺がDaily Traiの曲を弾いたとき、ドラムで合わせてくれたの、気づいてた?」


 実はサクヤはDaily Traiの曲を弾き、アユムがそれに合わせてドラムを叩いていたことを伝えた。

 その笑顔を見て、アユムは少しホッとした。


「でも、どうしてそんな大事なことを隠してたの?」


 サクヤの問いに、アユムは真っ直ぐに彼を見つめる。


「サクヤさんの憧れを壊したくなかったから……俺がバンドを辞めたのは、メンバーのタイガに裏切られたのが理由だったんだ。彼は俺の曲を自分のものにして、俺の努力を無視してた。最初は我慢してたけど、自分の音楽がどんどん遠ざかっていくようで……それが原因で、バンドは解散した。」


 アユムの言葉には、当時の苦悩がにじんでいた。

 サクヤは黙って聞き、アユムが背負ってきた重荷を感じ取る。


「タイガの件で音楽から離れようと思った。でも、智さんが楽器店で働くよう誘ってくれなかったら、今も音楽に関わってなかったと思う。」


 アユムは少し微笑んで続けた。


「そんな中でサクヤさんに会って、ユウのことを憧れてるのを知って、でも、今の俺には名乗り出る資格がないって思ったんだ。」


 その言葉に、サクヤはアユムの真摯な気持ちを感じ取り、彼の言葉をじっくりと受け止める。

 そして静かに言った。


「たとえ憧れていたユウがアユムくんだったとしても、……今のおれにとって大切なのは、アユムくんだよ。」


 アユムはしばらく沈黙していたが、サクヤの優しい声が彼の心を静かに包み込んだ。


「だから、これからも……」


 サクヤが言葉を紡いだ頃には、テーブルに置かれたアイスカフェラテの氷はすっかり溶けていた。

 冷たかった飲み物がゆっくりと温度を変えるように、二人の間にあったわだかまりも、静かに溶けていったように思えた。

 アユムはその変化を感じながら、ふとロゴ入りのライターを見つめた。

 サクヤに初めて会ったことをぼんやりと思い出す。

 顔に劣らず、彼のギタープレイは力強く、かつ繊細なもので、決してルックス要員のレベルではなかった。

 慰めるにもなんと声をかけてよいかわからず、結果ライターと煙草を渡しただけで心残りではあった。

 

「ねえ、アユムくん。せっかくだから、これで吸ってみない?」

 

 サクヤはアユムに向けてロゴ入りのライターを見せてくる。

 アユムは一瞬驚いたが、サクヤの笑顔に後押しされて、煙草を一本、手に取った。

 サクヤは手慣れたように火をつけて、アユムにライターを差し出す。

 ユウがあげたライターは普通のライターだか、サクヤにとっては思い出のライターである。

 Daily Trailと書かれたロゴをなぞり、火をつける。

 アユムはその香りを楽しむようにゆっくりと煙を吸い込んだ。

 サクヤの優しい視線が心地よく、まるでこの瞬間が特別なものに思えた。

 

「なんか、懐かしい香りだね。」


 アユムが微笑むと、いつも吸ってるのにね。と、サクヤもその表情に応えた。

 二人の心に新たな絆が生まれ、これからの未来への希望が少しずつ広がっていくようだった。


 07

 

 「だからこれからも……仲良くしてほしい」


 あの時の真実を告げてから数日後、まだどこかぎこちなさが残るものの、アユムはサクヤを自分の部屋に招待した。

 そこには、自分がかつて所属していたバンド「Daily Trail」のポスターやグッズが並んでいる。

 アユムは少し恥ずかしく感じながらも、サクヤが見たがっていたことを思い出し、思い切って彼を招き入れることにした。

 自分の大切な場所を他人に見せるのは勇気がいることだが、サクヤに特別な想いを伝えたかった。


 部屋に入った瞬間、サクヤの目が輝いた。


「うわ……Daily Trailのグッズ、こんなにたくさん!すごい……」


「ほとんど売れ残りだけどね」


 サクヤはまるで宝物を見つけた子どものように、ポスターやグッズのひとつひとつを嬉しそうに眺めていた。

 その姿を見て、アユムの胸に温かな気持ちが広がる。

 けれど、それと同時に、自分の中で何日も考え続けてきたある想いが、再び胸の奥から湧き上がってきた。


「実はさ、俺……もう一回バンドやろうと思ってるんだ。」


 その言葉に、サクヤは驚いたように顔を上げた。


「え……本当に?ユウの復活を願ってる人なんて、たくさんいるはず!」


 目を輝かせながら嬉しそうに身を乗り出してくる。

 アユムは少し照れながらも、続けた。


「それで、サクヤさんがもしよかったら二人でバンドを組まない?」


 サクヤはその提案に驚いた表情を浮かべ、言葉を失っているようだった。

 戸惑いと喜びが混ざった彼の顔を見て、アユムは静かに部屋の壁に飾ってあるアコースティックギターを手に取った。


「実は、この曲……サクヤさんのために作ったんだ。」


 アユムはそう言うと、サクヤのために書き上げた新しい曲を弾き語り始める。

 静かなイントロから少しずつ音が重なり、心の奥底に秘めていた想いが1つずつ解き放たれていく。

 ギターの音が部屋に響き、アユムの想いがメロディに乗って流れていく。

 その音楽には、出会ってから今日までサクヤに抱いてきた感情が込められていた。

 サクヤはアユムの紡ぐメロディーに耳を傾けるうち、言葉にしがたい、深い感動に包まれていった。


 演奏が終わると、サクヤは感動したように目を見開いたままぽつりとつぶやいた。


「この曲……おれのために?」


 アユムは静かに頷き、優しく微笑んだ。


「そうだよ。サクヤさんに出会って、もう一度音楽を楽しみたいって思えたんだ。」

 

 アユムはこれまで言えなかった気持ちを少しでも伝えられた気がした。

 その言葉に、サクヤはしばらく言葉を探していたが、やがて震える声でつぶやく。


「……信じられない。ずっと憧れていた人から曲をもらえるなんて……ありがとう、アユムくん」


 アユムもまた、自分の中にある温かな気持ちをかみしめながら、サクヤに静かに言葉を返す。


「俺も、こんなふうにまた誰かのために曲を書ける日が来るなんて思わなかった。でも、今はただ音楽を楽しみたい。それができるのは、サクヤさんがいるからだよ。」


 サクヤは深い感動に包まれ、静かに微笑んだ。


「一緒にやりたいって言ってくれて……本当に嬉しいよ。アユムくんとなら、どこまでも行けそうな気がする。」


 二人の間にあったわだかまりや不安が溶けていくような気がした。

 二人はその瞬間、音楽を通じてさらに深く繋がり、互いに対する想いを確かめ合った。


 アユムはベランダを開けて外の空気を部屋の中に取り込んだ。

 サクヤに今の自分を受け入れてもらい安堵し大きく背伸びをする。

 そして、アユムが煙草を取り出すと、サクヤも煙草を吸おうとポケットを探る。


「しまった、ライター家に置いてきちゃった……」

 

 いつもあるはずの例のライターがないことに気づく。

 照れくさそうに笑うサクヤを見て、アユムはすぐに自分のライターを差し出した。


「俺の使えば?」

 

「ありがとう」


 ライターを受け取らず、煙草を咥えたままアユムの顔を近づける。


「サクヤさん?」


 アユムは一瞬戸惑ったが、すぐにサクヤの意図を理解し、煙草の先端を差し出した。

 アユムの火を分けてもらうように、サクヤの煙草を近づけて火を分け合う。

 その瞬間、二人の顔がさらに近づき、視線が交わる。

 静かな緊張感が漂い、サクヤの顔が妙に色っぽく見えたアユムは、思わず顔を赤らめた。


「……なんだコレ」

 

「1回やってみたかったんだ」


 サクヤは無邪気に微笑み、アユムを見つめながら煙草の煙をゆっくりと吐き出した。

 思い出すのは、かつて憧れていたユウからもらったライターのことだ。

 しかし、その思い出よりも、今は目の前にいるアユムとの時間の方が何よりも大切に思えた。


「今度から、もうあのライター使わないで、アユムくんからもらおうかな」

 

「……いいと思うよ」


 その軽やかな言葉に、アユムは驚いた表情を浮かべながらも、どこか嬉しそうに微笑んだ。

 サクヤは、心の中でずっと憧れていた「ユウ」という存在を手放し、目の前にいるアユムとの関係に焦点を当てることを決意したようだった。

 アユムもまた、「ユウ」としての過去を受け入れながら、新しい自分としてサクヤと未来を歩んでいく決意を固めていた。


 過去や傷を理解し合い、音楽という共通の絆で結ばれた二人は、これからの道を共に歩むことを選んだ。


 もうユウではなく、侑(アユム)として――。


 ベランダで静かに煙草を吸い終えると、サクヤは部屋の隅に置かれたアコースティックギターをじっと見つめた。


「ねぇ、アユムくん」

 

「ん?」


 アユムが返事をすると、サクヤは不思議そうな顔をする。


「二人でバンドやるって話、アユムくんはドラムを担当するつもり?」


 アユムは意外そうに目を瞬かせた。

 

 「……そのつもりだけど?」

 

 アユムはDaily Trailではギターボーカルを担当していたが、得意なのはドラムであった。

 サクヤのギタープレイを生かすためにもドラムで合わせるつもりだった。

 

「せっかくなら、ギターでやりなよ」


 アユムは驚き照れたように笑う。

 

「でも、俺、サクヤさんみたいにギター上手くないよ」


「大丈夫だって!できないところは俺がカバーするし、なんなら二人でアコースティックギターでもいいじゃん」

 

 サクヤは明るく笑い、アコースティックギターを抱え込む。


「それに、ドラムだと歌うの大変でしょ?アユムくんの歌声に合わせて、俺はギターを弾きたいからさ」


 その言葉に、アユムは一瞬戸惑いながらも、心の奥から温かい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。


「ありがとう、サクヤさん」


 サクヤの真剣な表情に応えるようにアユムは微笑んだ。

 サクヤはゆっくりとギターの弦に触れると、少しワクワクしたようにアユムを見つめる。


「ねえ、弾くから歌って?」


 アユムは嬉しそうに頷く。

 サクヤが弾き始めたのは、Daily Trailの曲であった。

 部屋に暖かい音が響き始めると、アユムは自分の声を重ね、サクヤはリズムに合わせて小さく体を揺らしていた。

 やがて、曲がひと区切りつくと、サクヤが顔を上げてアユムを見つめた。


「アユムくん、やっぱりギターで合わせるのすごく楽しいね」

「……それはよかった」


 照れくさそうに笑うアユムに、サクヤはまっすぐな眼差しで続ける。


「二人でやるライブ楽しみだね!」


 その言葉に、アユムの胸の中で何かが弾けるような気がした。


 08

 

 アユムはライブハウスの屋上で、煙草の煙をゆっくりと吐き出していた。

 周囲は静まり返り、さっきまでの熱気が嘘のように感じられる。

 彼はライブの余韻に浸りながら、夜空を見上げた。

 雲一つない星空が広がり、月明かりが柔らかく輝いている。


「お疲れ」

 

 背後から声がかかる。


「……来てたんだ」


 侑が振り返るとそこには、大翔タイガが立っていた。


「まあな。智と一緒に来た。」

 

「まったくあの人は……お店のこともあるから来なくてもいいって言ったのに。」


 かつて三人で活動していたDaily Trailのことを思い出す。

 あの頃から智寛はお節介なところがあった。

 

 侑は煙草を吸いこみ、ゆっくりと煙を吐き出す。

 その姿に呼応するように、大翔は静かに息を吐き出した。


「いや、実はオレが行きたいって頼んだんだ。」


 大翔の意外な言葉に侑は驚く。


「今までのこと謝りたくて。その……すまなかった。今までのこと全部。」


 侑が知っている大翔は、いつも自分のことしか考えていない男だった。

 だから、こんな風に謝罪の言葉を口にし、深々と頭を下げる姿は予想もしていなかった。


「どうしたんだよ、急に。」


「お前の熱心なファンに会ってさ。」


 大翔はなんでも器用にこなす侑のことを羨ましく思っていた。

 小さなライブハウスで演奏するより、メジャーデビューしたいという思いがずっと心の中にあった。

 当時の侑に提案したが、自分のギター技術と曲が未熟であることで断られていた。

 「もっと広めたい、売れたい」という気持ちの歯がゆさから、最終的に大翔は侑の作り上げた曲を無断で、自分の名前で広めてしまった。

 それが原因でバンドが解散になってしまった罪悪感はあったものの、今度は、大翔ではない朔也というギタリストと仲良くしていることを知り、羨ましく思えた。

 

「あ、こんなところにいたんだ。探したよ、侑。」


 外階段から登ってきた朔也サクヤが現れる。

 

「朔也。」

 

「あっ」


 朔也は大翔を見ると目を丸くさせた。


「よお。こないだは騙して悪かったな。」

 

 大翔は真っ直ぐに朔也を見つめる。

 朔也がDaily Trailのファンであることは智寛から聞いていたのでユウとして近づき、セッションを持ち込んだ。

 

 ――今のあんたの技量とその外見なら売れるぜ。なあ、アユムじゃなくてオレとつるもうぜ――。

 ――ユウさんに誘われて嬉しいですが、売れる気はないです。それにアユムくんはおれの外見なんか気にしないし、一緒にいるほうが楽しいので、ごめんなさい――。

 

 あんなことハッキリ言われたら、自分の入る余地はないと感じた。

 

「今日のライブ最高に良かったよ。」

 

「なあ」

 

 侑は吸っていた煙草の火を消して、大翔と向き合う。


「お前がやったことは許せないけど……あのとき、お前の安定したベースだったからこそ曲ができたんだ。……今日はわざわざ来てくれてありがとう。」

 

 その言葉を聞き、大翔は微かに笑みを浮かべた。

 

「……侑に飽きたらオレと組もうな。」

 

 朔也の肩に軽く触れて、後ろ姿を見送る。


「……今のもしかして、大翔さん?」


 朔也が不思議そうに侑に尋ねる。


「うん、そうだけど。」


「……そっか。」


 朔也は微笑みながら彼の隣へと移動した。

 侑が新しい煙草に火をつけていたので、朔也も顔を近づけて、その火を分けてもらうように自分の煙草に火を移した。

 周囲には静寂が広がり、ときおり風の音だけが心地よく響いていた。


「やっぱりそのスカジャンいいね、侑に似合ってるよ。」


 息を吐くように朔也がつぶやく。

 侑が着ているのは、朔也が贈った派手なスカジャンだった。

 刺繍や色使いが際立ち、舞台の照明が当たるたびにその魅力が増すこのスカジャンは、ユウに出会ったあの日以降、ギターを続けるために選んだ、サクヤにとっての「勝負ジャケット」だった。

 朔也がそう言うと、侑は少し照れくさそうに肩をすくめる。


「派手だけど、まぁ着てみたら意外としっくり来るね。」


 その言葉に、安心感を覚えた。

 二人の間に流れる静かな絆を象徴するかのように、侑のスカジャンは夜風にふわりと揺れていた。

 ギターを手にするたび、このジャケットが彼を支えているような気がしてならなかった。


 少し前まで、二人はともにステージに立っていた。

 侑が作った曲は、朔也のギターソロが際立つようにアレンジされ、そのプレイとビジュアルでファンを魅了していた。


「そういえばみんな、侑のこと探してたよ。」


「俺じゃなくて、もっと朔也のギタープレイを見に来るべきだよな」


「……十分披露させてもらったよ。」


 少し複雑な思いを感じ取りながら、侑をなだめるように応える。


 Daily Traiには、朔也以外にもコアなファンが少なからずいた。

 侑の歌声は、わかる人にはわかる特徴的なもので、いつも昔からのファンが駆けつけてくれた。


「それに、おれは侑の声で弾くのが好きだから。」


「……朔也がいいなら、いっか。」


 侑の表情は見えなかったが、煙草の匂いが広がる。

 夜風が心地よく、二人の間には無言の理解が生まれていた。


 その時、朔也はふと昔のことを思い出した。

 ユウは金髪パーマが印象的な青年だった。

 今、隣にいる侑は、黒髪マッシュヘアで、ライブの時は邪魔なのか、センター分けにしている。

 その変化はあまりにも大きく、最初は気づかなかったほどだ。


 智寛に「ユウに会いたい」とこぼした時、ライブに連れてきてやると言われたのも、今なら少し納得できる気がした。

 運命的な巡り合わせに、朔也は心の中で微笑む。


「どうしたの?」


 侑が不思議そうに問いかける。


「ううん、なんでもない。」


 ユウに出会ってから、朔也の世界は大きく変わった。

 侑も朔也との出会いによって、音楽への情熱を取り戻していた。

 

「また、ライブ楽しみだね」


 朔也が微笑みながら言うと、侑はゆっくりと頷いた。


「今度は、Daily Trailのリミックスバージョンやろうかな。」


 朔也の目が輝き、嬉しそうに身を乗り出した。


「お、それは楽しみだね!」


 二人はその新しい挑戦に胸を躍らせながら、これからの音楽活動に向けてさらに意気を高めた。

 彼らの奏でる旋律は、煙草の煙が風に流れるように聴く人の心に柔らかく染み込んでいく。


「そろそろ戻ろうか」

 

 2人は短くなった煙草の火を消し、まだ残っている煙を纏い、屋上を後にする。

 侑のポケットには、skrollとロゴの入ったライターがあることに朔也はまだ気づいてないのであった。


 エピローグ

 

 

「お邪魔します」


 朔也はスーツ姿で侑の部屋にやって来た。

 普段朔也は会社員であり、就業後には楽器店は閉まっているため、二人は侑の部屋でセッションすることが多くなっていた。


「ちょっと一服しよう」


 夢中になって演奏を続けた後、気晴らしに外の空気が吸いたくなった侑は朔也に声をかける。

 窓を開けてベランダに出ると、朔也も続いてベランダについてくる。


「ねぇ侑、火、ちょーだい」


 侑は少し首をかしげながら、ポケットからライターを取り出した。


「……この前、ライターあげただろ?」


 朔也が煙草を吸う時には、必ず侑の煙草から火をもらっているため、侑は自分たちのバンドのロゴが入ったライターを新しくプレゼントした。


「……貰ったやつ、ロゴが入ってるんだもん。会社で使うとバレるし」

 

 朔也は気まずそうに視線をそらし、小さな声で答えた。

 その照れた表情が可愛らしくて、侑は思わず吹き出した。

 そして、煙草の先端を朔也に差し出すと、朔也は静かに火をもらい、ゆっくりと白い煙を吐き出した。

 その瞬間、ふと侑は先日のライブに来ていた朔也の後輩のことを思い出す。

 彼は朔也の会社の後輩で、どうしても先輩のバンド活動を見たくて駆けつけていた。

 ライブ後、その後輩は目を輝かせながら「普段の朔也さんとは全然違う」と興奮気味に話していた。

「会社でバレる」というのはそういうことか。と納得してしまった。


「なぁ、そういえばお前が年上だって知らなかったんだけど」


「あー確かに言ってなかったかもね」


 少し肩をすくめていた。


「でも、侑はそういうの気にしないと思ってたから」


「……うん」


 彼のギタープレイに見惚れていたあの日から同じ歳ぐらいだとずっと思っていたのだ。

 穏やかで大人しい朔也が、ギターを手にすると情熱的に演奏する。

 そのギャップに驚きつつも、侑はむしろ、そんな朔也に年齢関係なく惹かれていることに気付いていた。

 そして今、ふと横目で見ると、煙草を吸う朔也の姿さえも見惚れてしまい、侑は思わず息を呑んでしまう。


 朔也がこうして火をねだるたびに、彼が少しずつ心を許してくれているようで、二人の心の距離が縮まっている気がした。

 バンド仲間以上の何かが、この関係の中に芽生えているのかもしれない……いや、それは自分だけが知っていればいい。


「侑」


 不意に名前を呼ばれて、侑は朔也の方に目を向ける。朔也はまっすぐに侑を見つめ、少し照れくさそうに微笑んだ。


「これからも、ずっと一緒にやっていこうね」


 朔也の囁くような声が、静かな夜の空気に溶けていく。

 その言葉が胸の奥にじんわりと染み渡り、侑は胸が高鳴るのを感じた。


 室内から漏れる柔らかな光が、二人の横に置かれたアコースティックギターを優しく照らしていた。

 

 

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Smoking Music @TK1124

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