河伯(ハベク)の姫君
やすみ
本編
或る青年が
太媛が産屋から戻った頃、馬子は何時にも増して口元を緩ませ、娘の顔を見に来ないかと、駒を邸に招いた。
駒は、麻布に包まれた赤子の顔をそっと覗いた。
「可愛い娘であろう」
「ええ、誠に」
赤く輝く肌はよく磨いた赤瑪瑙のようで、膨らんだ頬は綿毛のように柔らかい。
小さくも美しい命に、駒も自然と笑みがこぼれた。
「名前はお決めになられたのですか」
「いや、それがまだでな……。
「太媛様のお考えは?」
「勿論、考えましたよ。 ですが、殿が納得しておられぬのです」
「悪くはないのだが、在り来りでなあ」
「良いではありませぬか。 在り来りで何が悪いのです」
「年頃になれば、
「殿は凝りすぎです。 それで名付けの儀を延ばしていては、〝冠履を貴び頭足を忘る〟というもの」
「それはそうなのだが……」
――拘りの強いお方だ、初めての子供ということもあって、慎重に考えておられるのだろう。しかし、儀式すら先延ばしにするなど、流石に悩み過ぎではないか。
駒がそう思いながら二人の痴話喧嘩を眺めていると、馬子は何か閃いた様子で駒に向き直って言った。
「そうだ、駒。
「
思いがけない頼みに、駒はつい声を張った。
一瞬、赤子を泣かせてしまうのではと肝を冷やしたが、赤子は丸い瞳を見開き、じっとこちらを見つめるものの、不思議と泣き出すことは無かった。
「ほお。
「恐れ多いことです。 しかし、
「そうですよ、殿。 これは我々で決めるべき事。 駒に余計な負担を掛けさせてはなりませぬ」
「そうは言っても、吾では良い名が浮かばぬ。 もし
「まあ……、そのようなお考えなら、
「太媛様……?」
太媛が容易く折れてしまったので、駒は焦りを募らせた。
「それに、汝にとっても他人事ではないぞ。 いずれ、娘の邸の
「それはそうですが……」
「そうであろう。 だからここは一つ頼まれてくれ」
「殿は決めたらこうなのです。 智慧を貸して頂けませぬか」
こうなっては断るに断れない。駒は馬子の強い押しに負け、渋々承諾してしまった。
――己にまだ子供もいないというのに、まさか主人の娘の名を考える事になろうとは……。
駒は途方に暮れながら、己の持ち場「
この邸の主は、名を
彼女は駒と同じく高句麗の生まれであったため、馬子は同郷の好として、駒をこの邸の
倭国の暮らしは彼女のほうが幾らか長く、駒の数少ない相談相手でもあった。
駒は邸に上がり、美女媛に馬子の娘の様子と、名付けを頼まれた事を伝えると、美女媛は、袖で覆い隠せない程に口角を上げて、けらけらと笑った。
「あはははは、実に若らしいじゃないか」
「笑い事ではありませぬ。 儀式を先延ばしにしている事も、臣下に名付けを頼むなど、僕は聞いたことがない」
「慣習に囚われず、恥じずに人を頼る事ができるのが若の長所だよ。 まあ、時折裏目に出ることもあるがね」
「此度も裏目ではないですか」
「誰かに漏れるような話でも無いし、お決めになるのは若自身なのだろう? 太媛様も良いと仰せなのだから、良いじゃないか。 汝が気にすることじゃない」
「それは、そうですが……」
駒は不満をこぼしつつ、媛が言う事にも一理あると、口を噤んだ。
「それで、何か考えてみたのかい?」
「僕も考えあぐねているのです。 媛なら何と付けます?」
「それでは
「……聞いた僕が愚かでした」
「そう不貞腐れるな。 じゃあ、こうしよう。 妾と
「またそのようなお戯れを……」
「偶にはいいじゃないか。 これは倭国では知られていないから、遊び相手がいないのだよ。 それとも汝は、主の頼みを聞けないとでも?」
媛の挑発に駒は観念し、力無く首を垂れた。
「……さがない御方だ」
「賢しい御方というのだよ」
媛は悪戯な笑みを浮かべてそう言うと、侍女を呼び、須恵器の高坏と小枝を四本、砂利八粒を持ってこさせた。
そうして、刀子で小枝の片面を削り、高坏の面に筆で目盛りを描いて盤とした。
「やり方を忘れたわけではあるまい?」
「勿論。 四本の〝
「良し。 先手は汝で構わんよ」
「では……」
駒が勢いよく上へと投げると、棒は全て樹皮の面を向けて卓に転がった。
「いきなり〝
媛の煽りに構うことなく、駒は黙々と砂利を一粒指先で摘み、盤の目盛に置いた。
「次は……〝
駒は二つ目の砂利を取りながら、徐ろに媛に尋ねた。
「馬子様は何故、僕に頼まれたのでしょうか」
「さてね。 若は韓土にも明るい御方だから、倭人だけでなく、我々からしても気品を感じさせるような、含みの有る名を付けたいのかも……。 それっ!」
媛が投げた棒は、今度は四本とも削り面を上にして止まった。
「〝
「含み、ですか……」
「そういう視野をお持ちなのだよ、若は。 だから身内ではなく汝を頼ったのではないかね。 ……〝
「あ!」
媛は自分の砂利を先行していた駒と同じ目盛まで進め、駒の砂利を盤の外へと摘み出した。
「そうだ。 妾が勝ったら、五経を写して貰おう。
「はあ!?[#「!?」は縦中横] あの量を!?[#「!?」は縦中横]」
「妾に勝てばよかろう。 ……〝
――この性悪主人……。
嬉々として語る媛に反して駒は苦い顔を浮かべながらも、棒を受け取り、振って再び砂利を置いていく。
「それで、例えば汝は、若の子がどんな大人になる事を願う?」
「どんなと、言われましてもね……僕の子では無い訳ですし」
「名付け親になるのだから、我が子の事と思って考えたほうが良いじゃないか」
「まあ、それはそうですが……」
暫く考えながら、粛々と進めていると、駒はぽつりと呟いた。
「やはり、国母……ですかね」
それを聞いた媛はクスリと頬を緩めた。
「ふっ、大きく出たね」
「そうなれば、馬子様も喜ばれるでしょう」
「そりゃあ喜ぶだろうね。 しかし、国母になる事だけが女の幸せかね」
駒は首を傾げた。
「どういう意味です」
「国母も結構だよ。 だが、妾は国母じゃなくても、それなりに幸せを感じている」
何時になく、媛は真剣な眼差しを駒に向けて言った。
「名は呪だよ、駒。 〝何になってほしいか〟を託すと、そうではなくなった時、その人を苦しめるやも知れぬ。 託すべきは〝どう生きてほしいか〟ではないかね」
媛の深慮遠謀に、駒は目を丸くした。
「珍しく良い事をおっしゃいますね」
「失礼だな。 妾だって人の親だよ」
「そうでしたね、失言でございました」
媛が頬を膨らませているのを他所に、駒は改めて砂利を摘みながら思いを巡らせ、言葉を繋いでいった。
「辛い境遇にあっても、望みを捨てず、澄んだ水のように気高く、清らかであってほしい……。 良き公達と結ばれ母となったら、厳しくも優しく、我が子の危機には身を挺して守るような親となってほしい……とか」
「はは、それはどこか
「柳花……?」
「汝なら知ってるだろう? 国祖・
その名を聞いて、駒は相槌を打った。
「ああ、
「そう。 仲人を立てずに天帝と関係を持ってしまったという過ちで、父の河伯神によって
「その後、天帝の日光に感応し、産んだ卵から生まれたのが、遠祖・東明聖王……」
「そういう意味では、国母というのも当てはまるかもね」
「柳花……」
駒は何か引っ掛ける感触を覚え、繰り返しその名を呟いた。
「そういえば、倭国には柳(枝垂柳)がありませんね」
「ああ、あっても
「では柳から付けても、倭人には伝わらないか……」
「そうさねえ。 ほっ!」
そうこうしているうちに、媛は三つ目の駒を上がらせた。
「こっちにも気を配らないと、暫く書写で休みがなくなるよ」
「やめてください、そういうの」
媛の最後の一つは、盤の中央に鎮座している。早ければ次の手番、二巡もすれば上がってしまうだろう。
対して駒は二つ上がらせて、右上角に二つ重ねて置いている。
〝羊〟(参)を出せば、媛の
逆を言えば、〝羊〟(参)以外を出せば負けに等しい状況である。
――〝羊〟さえ出れば……
そう祈りつつ、棒を振り上げた瞬間、媛が呟いた。
「柳が駄目なら、河はどう?」
「は?」
勢い良く投げるつもりが、棒は掌から滑り落ち、卓の上に軽い音を立てて転がった。
「あ……」
棒は樹皮の面一本、削り面が三本。出た目は〝羊〟(参)だった。
自分の出目を確かめた駒は安堵の余り、膝から崩れ落ちた。
「良、かったあ……」
媛の
「あらまあ、負けちゃったか」
「お陰様で、名前も考えられました」
「ほう、どんな?」
駒は筆を取り、木札に字を書いてみせると、媛は微笑を浮かべて頷いた。
「うむ、良いんじゃないか」
明朝、駒は再び太媛の邸を訪ねた。
「どうだ、考えてくれたか」
「はい。 石川の河上に坐す大臣の娘であられる事、清水の如く清らかで、慈悲深き乙女となることを願い、二つの意味を重ね、〝
「ほう?」
「我が国の国祖・東明聖王の御母君も、河の神・
「そうか。 河上、河上か……」
「美しい名ですわね」
「うむ、良い名を考えてくれた。 有難う、駒」
「はっ!」
馬子は上機嫌で駒に礼を述べ、褒美をとらせた。
かくして無事に名付けの儀を執り行い、赤子には〝河上〟という名が与えられた。
十数年後、彼女は
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