第2話
まだ、やることが山のように残っている。母は、買い物のレシート一枚も捨てられない人だった。
部屋に残された大量の遺品を、少しずつ片付けなければならない。
しかし、今日もあがりの少し前に、集荷の依頼が入った。
「時間過ぎちゃうけど、行ける?」
林崎さんが聞く。
「行きます」
端末に表示された名前は、いつも私指名で集荷依頼してくるお婆さん。キチンと荷物を準備して、伝票も書き終えて待っているお得意さんだ。
時間はさほどかからない。
「集荷終わったら連絡して。取りに行くから」
「分かりました」
私は電話を切り、時計を確認する。
林崎さんが、営業所に出荷の荷物を持って戻るまで、あと三十分はある。
あのお婆さんなら、急がなくても大丈夫。
私は、ゆっくりと台車を走らせた。
インターホンを鳴らすと、ほんの数秒でドアが開いた。
「いらっしゃい」
前に七十代だと聞いた気がするが、ピンシャンしていて、品があって、柔らかな物腰の、好感の持てる御婦人だった。
「何日か前に集荷頼んだら、貴方休みだって言うから……」
「すみません。お待たせしてしまって……」
私は、玄関にしゃがみ込んで、伝票を書き込みながら軽く頭を下げた。
「あれ? ご依頼主のお名前……」
いつもは旦那さんのお名前なのに、今日は女性の名前が書いてある。
「黒澤さん、
黒澤さんは、不思議そうに頷いた。
「ええ、それが何か?」
私は、自分のネームプレートから、名前を隠していたシールを取った。
「私も一に美しいで、ひとみっていうんです。名前一緒ですね」
「まぁ、お揃いね」
黒澤さんは、嬉しそうに笑った。
「父がね、 付けてくれた名前なの。一度も会ったことはないんだけど、産まれる前から決めていたんですって。一番大切な美しい子ってね」
「素敵ですね。うちなんか、本当は目の瞳という漢字に決まってたのに、父が勝手に一に美しいで出生届出して、後から気がついて大騒ぎだったらしいです」
「あら、まぁ」
何でもない会話で笑い合って、いつものように集荷を終えると、私は黒澤さん宅を後にした。
家に戻って、母の部屋を見回す。
何処から手を付けて良いかわからないほど、物が溢れている。
深い溜息。
業者に任せるお金もない。地道に片付けるしかない。買い物のレシート、手紙、請求書、領収書、見積に大量の写真が段ボール箱やお菓子の空き缶に詰まっている。
ほとんどがいらないものだが、何が入っているか分からないから、確認しながら捨てなければならない。
父が亡くなった時は、こんなに大変ではなかった。
無口で、いつも何を考えているのか分からなかった父は、あまり物を持っていなかった。遺品の中で、唯一大切そうにしまってあったのは、一枚の写真。
父は、いつも酔うと東京大空襲の話をした。国鉄の車掌だった父は、その日山手線に乗務していて、田町で空襲警報が鳴って列車が止まり、線路沿いを歩いて恵比寿まで逃げた。
恵比寿で貨車が燃えていて、中の芋が焼き芋になっていたから、それを食べて飢えを凌いだ、と。
何処までが本当か分からない話。
でも、出てきた写真は、父が間違いなく車掌だったことを伝えていた。
車掌だったことは、間違いない。しかし、同僚と喧嘩して辞めてしまい、故郷の茨城に帰って炭鉱夫になった。
三十代後半まで結婚せず、実家に居た農家の次男は、厄介払いとばかりに、半ば強制的に結婚させられ仙台にやって来たのだ。
あの時代はよくある話。母は、そう言った。親が結婚相手を決め、逆らうことなど許されない。だから、仕方ない。
私は、その仕方ないが嫌いだった。
仕方なく結婚して、仕方なく産まれたのが私。そんな私に価値があるなんて思えないし、私が産まれなければ、母が愚痴を言わない幸せな人生を送れたのなら、申し訳ないとすら思っていた。
でも、違う。
古いアルバムには、そこそこ仲良くやっている両親が写っていた。
海へ出かけたり、神社仏閣に出かけたり。あーだこーだ言いながらも、それなりの絆は築いていたんじゃないか。
なのに、私の記憶の中の二人といえば、母がガミガミと父に文句を言い、父が苦笑いして小さくなっている記憶しかない。
ーー何故なんだろう。
アルバムから剥がれ落ちた、産まれて間もない私の写真。裏を見ると
「瞳、退院」
と書かれていた。
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