先輩はかさこ地蔵ですか?
@J0hnLee
第1話 楽だけど田舎暮らしも良し悪し
「もう会社も定年退職したし、しがらみもなくなったから田舎で暮らしたいと思ってるんだけど」
と私は妻に打ち明けた。
「いいんじゃない。今まで仕事も親戚付き合いも頑張ってやってきた事だし。もうそろそろ好きなように生きてもいい頃だと思うわ」
「ありがとう。君が側にいてくれたからこんなポンコツな僕でもなんとかここまでこれたよ」
「本当よ、私がいなけりゃ野垂れ死にしてたわよ、あなた。でもポンコツを自覚してるんならまあいいわ。精一杯生きてきたご褒美を二人で楽しみましょうよ」
終の棲家として大自然の中で暮したいと言うわがままを妻は納得してくれた。
「一つ私からもお願いしていい?」
と妻が切り出す。
「せっかく田舎暮らしするならインターネットをすべてシャットアウトしたいの」
「いいねえ、僕もそう思ってたんだ。ネットニュースやSNSにはもう疲れ果てたよ」
「あなたもそう思ってたんだ。なんだか嬉しい。本当に質素な暮らしで今まで趣味でやって来たニット帽編みを楽しみたいわ」
「そりゃいいや」
「それでね、それを街に売りに行って生活費を作るって言うのはどう?」
「お~名案だね。それで君がウォーキングも兼ねて売りに行くんだろ?」
「いいえ…あなたが売りに行くのよ」
「僕が?」
「そう」
「そりゃ殺生だよ、こんなじじいに」
「あなたの野垂れ死にを救ったのは誰?」
「…」
「誰?」
「君だよ」
「ハイ、話がまとまりました。これからもよろしくね」
「こんな田舎に住めるんですか」と言うテレビ番組で私達の住まいが紹介された。
街までは徒歩で約一時間かかる。
「なぜこんなへんぴな所に住もうと思ったんですか?」
と若いタレントに聞かれた。
そんな失礼な質問にも腹は立たない。
もうテレビも配信動画も見ないからどんな編集されようとも構わない。
ひと里離れた山の奥におじいさんとおばあさんが住んでいました…と言う日本昔話の世界
である。
妻は昔話のおばあさんよろしくせっせと編み物にいそしむ。
私は山へ芝刈りに行く。
そして薪割りも私の仕事。
割った薪でお風呂を沸かす。
野菜は自家菜園で様々な品種を育てる。
さすがに米は広大な土地が必要なので週に一回街に出た時に買って来る。
週に一回なので大荷物になる。
背負子なる物を背おって街と田舎を往復するのが楽しみになってきた。
妻は好きな音楽を聞きながらニット帽を編んだりガーデニングに精を出す。
我が妻ながらニット帽を編む腕前、デザインのセンスは群を抜いている。
大口注文がどんどん入ってくる。
手編みのニット帽のレトロ感が今の量産型の市場を凌駕した。
ネットショッピング形式すれば良いものの二人ともそこは頑固だ。
「君のニット帽の売上で何不自由なく暮らせるよ、ありがとう」
と私は妻をねぎらった。
「こちらこそありがとう。あなたが街へ売りに行ってくれるからよ」
「生産が追いつかないね。大丈夫?疲れてない?」
「好きこそものの上手なれっていうでしょ、何も疲れないわよ。あっという間に一日が楽しく過ぎていくわ」
こんなに素敵な笑顔の妻を見るのは何年ぶりだろう。
「山川県の感染者数が1万人を越えました」ラジオのニュースが伝えてくる。
世の中は新型クレーターウイルス肺炎の世界的大流行に心身共に蝕まれている。
「街に出られないわね」
「そうだね。君のニット帽を待ってくれている人も多いのに残念だよ」
「外出しないからニット帽でおしゃれしようなんて思う人も少なくなって注文が減ってきているのよ」
次第に生活費が底をつき始めた。
食べる物に苦しむと人間イライラがつのる。
インターネットをシャットアウトした田舎暮らしで、もうイライラする事はゼロになったと喜んでいたのも束の間、妻は収入が減ってきている事に焦りを感じ始めて私にきつく当たる。
「あなたが田舎に住もうなんて言い出すからよ」
と毎日機嫌が悪い。
「お米を買うお金がないの」
と妻が言う。
「これだけ注文が入ってこなかったら収入も減るよね」
「収入も減るよねえじゃないわよ。退職金で株でも買って街で質素な暮らしで満足していればこんなに苦しまなかったのに」
「株はよくわからないしなあ」
「じゃあよく分かるように勉強すればよかったじゃない」
「そりゃそうだけど…」
「あなたには生活をしていく設計が全然できてないのよ。まるで節穴から外を覗いているように視野が狭くて、今現在の事しか考えられないんだわ」
「う~ん…その通りだ」
「その通りだと思うならなんとかしなさいよ、もう!」
妻の怒りのボルテージが上がってきた。
しばらくして怒り疲れたのか
「もう今日は寝ましょ」
と静かに言う妻。
「営業に行ってくるよ」
「こんなクレーターウイルス肺炎が蔓延してるのに危険よ。私も少し言い過ぎたわ、ごめんなさい。節約すればなんとかなるわ」
「ニット帽を買ってくれる心当たりがあるんだ。昔、学生時代に世話になった先輩がアパレル会社を経営しててね、困った時はいつでも相談に来いって言われたんだ」
「こんなご時世で会ってくれるかしら?」
「僕は先輩を心から尊敬してるし信頼してるんだ。きっと助けてくれるよ」
「あなたがそれほど尊敬してる先輩なら私も信頼するわ」
「それじゃ行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
私は妻に見送られて田舎の一軒家を後にした。
正直言って先輩もクレーターウイルスに戦々恐々としているだろう…会ってくれるかどう
かもわからない。
でも機嫌が悪い妻と少し距離を置けると思うと街への遠出は私の心を楽にさせてくれた。
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