先生とバターソテー
カラン、カラン、カラン。
廊下から聞こえるハンドベルの音でラナは目を覚ました。優しい日差しが窓から寝台の上に降り注ぐ。ラナは身を起こしクローゼットを開けると、フルールレッドの学徒服を出した。ボタンを上まできっちり止めると、背筋が伸びる感覚があった。ラナが寝起きしている場所は旧校舎を改装した学生寮。貧乏学生用の簡素な部屋が用意されているだけだが、ラナはそれなりに気に入っていた。玄関ロビーの古時計の長針は三の文字を指している。ラナはブーツの靴紐を結びなおし寮を出た。大庭園まで朝の風を一身に受けながら歩くと、噴水の荘厳な水音が耳を通り抜けていく。大庭園の噴水の前には同じフルールレッド。ラナはそれに駆け寄った。
「オハイアリイ様、おはようございます」
「おはよう、ラナ。朝ご飯の時間ですわよ」
一足先にラナを待っていたオハイアリイと連れたってガパンドホールに向かう。男子生徒に紛れるのももう三日目。ラナの緊張は少しづつ解れ、オハイアリイと談笑しながら列に並ぶのにも周囲の視線は気にならない。
「あら、ラナ。今日は白身魚のソテーですって」
オハイアリイの視線につられ、ラナもメニュー表を見上げる。厨からは嗅ぎ慣れない食欲を唆る香りがした。オハイアリイはその香りに気が付き、顔を綻ばせる。
「良いバターの香りですわね」
「えっ? これ、バターの香りなんですか?」
ラナは目を見開く。オハイアリイは優しい顔をしてええ、と頷いた。
「ラナはバターの香りをかいだことはないのね」
「流石に、高級食品を使えるような財力は……」
「そうなの。バターソテーはね、食の革命よ」
オハイアリイは恍惚とした表情で窓口にモーニングを二食注文した。ラナもそれに倣い、バターソテーのモーニングを注文する。
「はい、承りました。オハイアリイさま、朝からよく食べるねぇ」
窓口の注文を請け負う気のいい職員、ルイーサは歯を見せて笑う。オハイアリイもルイーサに気さくに返した。
「ええ、だって美味しいんですもの」
「コックが聞いたら喜ぶよ。はい、次どうぞ」
二階のテラス席、大庭園が見下ろせる一等席はいつも二人で占領していた。一年生特個室を使わないのかと聞いたが、解放感のない食事は嫌いだと一蹴されてしまった。ガード・フルールが食事を運んできて、早速食事に手を付ける。オハイアリイが一口目を口に入れたのを視界に捉えながら、ラナは白身魚のバターソテーを一口食べた。とろり、口の中で仄かな甘みが広がる。
「これがバター?」
「ええ。美味しいでしょう」
「すごい……」
ラナは啞然としながら魚身を噛み締め、舌鼓を打つ。じゅわ、と溢れ出す旨味に口角は上がる一方だった。
「まさか人生のうちに、高級食材を朝食に食べれる日が来ると思いませんでした」
「これからいくらでも食べれますわよ。聖クロートニア大学校を甘くみないほうがいいわ」
オハイアリイは感動するラナに微笑みを渡しながら、頼んだ食事をあっという間に平らげ、ナプキンで口を拭った。朝食を終え、肩を並べ校舎に向かう。
「美味しかったわ、ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
「はい、また来てね」
ルイーサに見送られ、ガパンドホールを出る。春らしく色とりどりの花がきらきらと光を受けて咲いていた。
聖クロートニア大学校は紳士淑女の学びの場。勉学から教養、作法に運動まで全てを身につけられる。授業の予定は一身に詰まっていて、生徒を疲弊させる要因でもある。ラナとオハイアリイが南校舎のエントランスホールに立つと、掲示板の前が騒がしい。
「何かあったのでしょうか?」
「さあね」
オハイアリイはそう言いながら人混みに近づく。頭の隙間から見えた掲示板には校内新聞が貼ってあった。
「クライドフォビンの失踪……?」
男子生徒の似顔絵が大きく描かれた新聞。見出しを読み上げたラナは首を傾げた。
「トーマス・クライドフォビン。二年生のようね」
「ご存じなんですか?」
「ええ。彼とはパーティーで話したことがありますわ。聡明で冷静な男だったかと」
「失踪って……」
オハイアリイとラナが顔を突き合わせ話していると、後ろから突如呼び止められた。
「おや、オハイアリイ様。まさかご存知でない?」
ラナが振り返ると、そこに花のような美丈夫の青年が立っていた。ラナは思わず見惚れる。
「クリフト、黙りなさい」
「酷いなあ、オハイアリイ様。せっかく教えてあげようと思ったのに」
「あの、オハイアリイ様。この方は?」
クリフトと呼ばれた青年はラナをみとめると仰々しく挨拶をしてみせた。
「はじめまして。クリフト・エンゼルランプと申します」
「えっと……ラナンキュラス・トーイと申します」
「よろしくね、ラナンキュラスちゃん」
クリフトは右手をあげてラナに応える。オハイアリイは胡乱な瞳を向けながらクリフトの顎を扇で撫でた。その仕草にラナはむず痒い気持ちを覚える。
「それで、クリフト。何の用? 学校では話しかけるなと言わなかった?」
「承諾はしてないんでね」
クリフトとオハイアリイは暫く言い合いをしていたが、ラナの視線に気がついてひとつ咳払いをした。
「最近ね、クロートニアの生徒の行方不明事件が多発しているんです」
「行方不明?」
オハイアリイは眉をひそめる。クリフトは掲示板の集団からオハイアリイとラナを隠すようにたちはだかると、身体をかがめオハイアリイに顔を近づける。
「一件目は三年生のラグレア・キースフィト。二件目は四年生のカンナ・テイルズ。三件目は二年生のトワレ・メルダ。そして四件目が、彼、二年生のトーマス・クライドフォビン」
「四人も行方不明になっているの? 教師陣は何をしているのかしら」
「いやあ、どうするんだろうね」
「どうするって、あなたね……」
軽薄なクリフトにオハイアリイはまた胡乱な視線を向ける。ラナは行方不明になった生徒の名前を反復し、その共通点に気がついた。
「キースフィト、テイルズ、メルダ、クライドフォビン……って、どこも伯爵家ですね」
「……言われると、そうね」
「流石は学力特待生。記憶力も抜群だね」
突然自分の入学基準を当てられたことで、ラナは肩を跳ねさせる。そしてクリフトに一歩近づいた。
「私のこと、知っているんですか?」
「もちろん。生徒のことは知っておかなきゃね」
「生徒……?」
ラナがそう聞き返すと、クリフトは目に見えて焦り、オハイアリイとラナを何度も見比べた。オハイアリイは大きなため息とともに、クリフトの頭を扇ではたく。
「クリフト、貴方がそんな軽薄な態度でいるから。生徒と思われてるわよ」
「……えっ?」
ラナがクリフトの体に視線を落とす。フルールレッドの学徒服ではなく、教師用の落ち着いた黒のローブ。襟には校章のバッジが輝いている。
「……先生、だったんですか……!?」
「ええええええ!? えっ、俺生徒だと思われた!?」
「アッハハハハ! ラナ、貴方最高ですわ!」
やってしまったと顔を青ざめさせるラナの肩を、クリフトが揺さぶる。
「えっ、俺生徒に見えるの!? 嘘だよね!」
「ええと……」
「いい加減になさい、クリフト……ふふ……」
「オハイアリイ様、笑わないでくださいよ!」
オハイアリイは扇を開き口元を隠しながらも、時折震えて笑っているのが伺えた。クリフトは暫くオハイアリイとラナを何度も見比べていたが、始業を知らせる鐘が鳴ったことでそれは終わった。
「やだ、遅刻じゃないの! クリフト!」
「あああ、申し訳ありません、オハイアリイ様……」
クリフトはまだ傷を背負っていたが、オハイアリイはお構いなしにラナを連れて小講堂まで歩く。小講堂に入るとレドハイドが鋭い視線を向けてきた。
「オハイアリイさん、ラナンキュラスさん、遅刻ですよ」
「申し訳ありませんわ、エンゼルランプ先生が少々」
「そうですか。次からは遅れないように」
オハイアリイとラナは並んで机に座る。レドハイドは連絡事項を事務的に述べ、すぐに出ていった。
「あの、オハイアリイ様。エンゼルランプ先生って……」
「ああ、やはり気になりますわよね。……彼とわたくしは、一応『師弟』ということになるのかしら」
オハイアリイの煮え切らない答えに、ラナは首を傾げる。
「師弟、ですか」
「ええ。彼の担当教科は剣術。わたくしは幼い頃、クリフトに護身術として剣術を教えてもらっていたのよ」
オハイアリイは遠い昔の自分を思い起こす。まだ華奢で筋肉も脂肪もついていない所謂THE・公爵令嬢だった時代。
「まだ若い兵士だったクリフトに、お父様が声をかけて。わたくしは彼に剣術を習ったわ」
「なるほど、それでお知り合いだったんですね」
「ええ。あんなお調子者なのが玉に瑕だけれど、クリフトはなかなか良い人間よ。剣術、教えてもらってもいいんじゃなくて?」
オハイアリイはいたずらっぽく笑う。ラナは考えておきます、と返答してから、あることに気がついた。
「……あの、オハイアリイ様。今何歳ですか?」
「十八だけれど」
「ですよね。エンゼルランプ先生に剣術を習っていたのは?」
「五歳からね」
「……今、エンゼルランプ先生って何歳ですか?」
オハイアリイは少し考えてから羽ペンでノートの済に数字を書いた。
「私が五歳の時、彼、二十五歳だったから、今は三十八歳ね」
「えっ……ええ!?」
ラナは思わずオハイアリイを二度見する。先ほど見たクリフトはどう見ても青年だった。
______てっきり、二十代かと思ってた……!
いたたまれなさに頭を抱えるラナに気がついたのは、隣のオハイアリイのみだった。
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