B級雪女

宙灯花

第1話 謎の生物

 おとぎ話? 伝説? 怪談? とにかく有名な妖怪だ。だが、幸雄の腕に抱かれて安らかな寝息を立てている雪女は、それとは少々、趣が異なっていた。


 標高一千メートル級の山脈を縦断する観光道路の中間付近に、行村幸雄ゆきむらゆきおはバイクを止めた。エンジンを切ると、しん、とした静寂が耳にまとわりついてきた。

 夏場ならば多くの人や車が行き交い賑わうけれど、真冬のこの時期にわざわざこんなところに登ってくる物好きはいない。

 すべてを白に包まれた世界、と言いたいところだが、明りのない山の中は、どんなに雪が積もっていても、ねっとりとした黒い闇が広がっているだけだった。

 雪は、光を受けてこそ、白く輝く。

 幸雄は今、古びた木のベンチがひとつ置いてあるだけの小さな展望台に立っている。地元民以外にはあまり知られていないこの場所に、幸雄は恋人だった理沙りさと何度も訪れた。眼下には百万ドルと称された煌めくような街明りが広がり、人工島に作られた空港の滑走路に並んだ二列の光の向こうには、遠い水平線から黒い波が押し寄せている。

 港のショッピングモールに立つ観覧車が知らせるデジタルの時は、帰宅ラッシュの混雑をすぎて街が落ち着きを取り戻し始める頃だと告げていた。

 人々の生活と想いを暖かく映し出す窓の光にはもう、手が届きそうになかった。幸雄はひとつ息をついて、ベンチに横たわった。容赦なく降り続く黒い雪が、あっという間に幸雄の体を覆い隠していく。

 いい感じだ。このままいけば、しっかりと埋まることができる。そして春になり雪が溶けだす頃、眠るように安らかな状態で発見されるだろう。幸雄は、暗く微笑んだ。

 雪に埋もれかけているのに、寒さは感じなかった。幸雄は特異体質だ。周囲の人たちがガタガタと身を震わせるような状況でも、幸雄だけは平気だった。

 先天性せんてんせい無痛むつう無汗症むかんしょうという病気がある。生まれつき、痛み、熱さ、冷たさを感じない。そのため自分は不死身だと勘違いして、無茶なことをしてしまう場合があるらしい。あるいは危険な状態にあっても気づかない。もちろん、ダメージは普通に受ける。

 寒さ冷たさ以外は感じるけれど、幸雄も同様の症状を持っているということなのかもしれない。とはいえ、長時間、冷気に包まれていれば凍傷になるだろうし、命を落とすこともあるだろう。だからちょうど都合がよい、と幸雄は考えたのだ。苦しい思いをせずに目的を果たせる。

 幸雄は手のひらでベンチをなでた。理沙とふたりで何時間も身を寄せた、小さなベンチだ。なぜここを選んでしまったのだろう。今となっては、辛い思い出しかないのに。理沙とすごした様々な時間が、心の中でぐるぐると渦巻いた。幸雄はもう一度、小さく息をついた。

 そのとき、ほとんど真っ暗な視界の隅でなにかが動いたような気がして、幸雄は顔を向けた。

 イノシシならば、この山で何度か見たことがあった。しかし、それにしては縦に長いし、どうやら二足歩行をしている。クマだろうか。ツキノワグマの目撃情報はある。だとしたら逃げなければならない。生きたままクマに喰われて死ぬなんて最悪の結末だ。

 幸雄は慎重にベンチから降りてバイクのもとに移動した。相手の正体が分からないのでは対処を考えられない。思いきってライトを点灯させた。

 重いモノトーンだった世界に、鮮やかな色彩が浮かび上がった。謎の生物の上半身は黄色で、下はオレンジだ。どちらも半袖で、白い手足が出ている。半袖?

 こけた。新雪に埋もれて、もがいている。クマじゃない、人間だ。

 しかし、雪山を歩きまわるような服装ではない。凶悪な犯罪者に襲われて、やむなく着の身着のまま極寒の山中に逃げだした。そんなストーリーが幸雄の頭の中を駆け抜けた。

 他人を助けている場合ではなかった。でも、放ってはおけない。

「大丈夫ですか」

 白い息と共に声をかけた。新雪に足を埋めて近づいていく。

「……」

 辛うじて声が聞こえた。しかし、なんと言ったのかは分からなかった。若い女性のようだ。二十歳はすぎていないだろう。

 助け起こした。体が氷のように冷たい。こんな薄着でどれほどの時間、氷点下の世界にいたのだろう。力の入らない様子でぐったりしている。このままでは危険だ。

「乗って」

 肩を貸してバイクまで歩かせた。タンデムシートに座らせる。理沙が使っていたヘルメットは、まだコンパートメントに入っていた。

「しっかりつかまって」

 女の子が幸雄の腰に両手を回してうなずいたのを確認して、エンジンをスタートさせた。

 スタッドレスタイヤを履いているとはいえ、手応えは頼りない。だが、走れなくはなかった。幸雄は慎重に体重移動しながら、優しくハンドルとアクセルを操作した。

 やがて曲がりくねった山道を抜けて広い県道に出た。路面に二本のわだちができている。その部分だけ雪が薄い。だが圧雪ブラックアイスになっている可能性があるのでけた。

 女の子は幸雄にしがみついたまま、ひとことも口をきかない。かなり深刻な状況に思えた。早くなんとかしなくては。

 標高が下がるにしたがって雪は勢いを弱めた。住宅の窓明りがぽつりぽつりと見え始める頃には、路上の積雪もまばらになっていた。

 走り続けるうちに、前方に赤い看板が見えた。全国展開している中華のファミリーレストランだ。

「しっかりして。まずは暖かい所に入るよ。それから……」

 幸雄がヘルメット越しに声をかけると、女の子は身じろぎした。

「餃子ーっ!」

 いきなり叫んでシートから跳ね上がり、女の子は幸雄の腰を強く締め付けた。

「え、なに? どうしたの」

 突然のことに、幸雄の心臓が跳ねまわった。危うく転倒するところだった。

「おなか、すいた」

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