黎明の約束 上
ファジル達六人の解読作業が完了して尚、ウマルは未だ円卓に現れてはいなかった。既に夜のとばりは落ちて久しく、満月に近い月の明かりが窓から差し込み、床の大理石を煌めかせている。流石のフィレーネも表情に不安を滲ませた。
「ウマル、遅いわね……」
「やっぱり逃げたんじゃ無いだろうね」
もしそうであったら拳をくれてやると握り拳をかざして憤るライラ。
「大丈夫です。必ず来てくれます」
少し時間を置いたことで幾分か落ち着いたファジルは固い信頼の瞳で扉を見つめる。
「他の可能性を考えてはどうだ? 先生に捕まっているとかな。先生は真夜中だろうと容赦がない。夜明けまで話し続けるだろう」
「あり得るわね……」
メトロスの唱える説はフィレーネを唸らせた。
「すまんが……」
ハーロルが遠慮がちに立ち上がる。その腕の中には、すっかり眠りに落ちたファムムがすっぽりと収まっていた。
「ああ、もうこんな時間ですし、ファムムは寝てしまいますよね」
ファジルが窓の外の白亜の街に僅かに見える時計塔を見て呟くと、ハーロルは頭を下げて言う。
「見届けられんのは心苦しいが、私はファムムを連れて帰らねばならん」
「むしろ、ここまで付き合って頂きありがとうございました。心強かったですよ。ファムムにもそう伝えてください」
「うむ、伝えよう。では、健闘を祈る」
ハーロルは頭を上げるとファムムを抱えて円卓から去っていった。ハーロルを見送ったメトロスはフィレーネの肩に手を添える。
「フィレーネ、私達もそろそろ休まねば明日に障る。アイモス一派の中では若輩とは言え、円卓の皆ほど若くは無いのだからな」
「え、で、でも……」
フィレーネはファジルの顔を心配そうに伺う。そんな不安を吹き飛ばして貰えるように、ファジルは努めて明るい声を出した。
「私の恋路も大切ですが、明日の儀式も大事です。どうせウマルと話す時は二人きりになるのですから……私は大丈夫ですよ」
尚もフィレーネは心配の顔を崩さなかったが、結局ファジルの言葉を受け入れる事にした。
「……そうね。お言葉に甘えるわ」
フィレーネはメトロスに差し出された腕を取り、扉へと歩きだす。扉に差し掛かったところで振り返り、顔の横で小さく手を振った。
「頑張ってね」
ファジルも手を振り返す。フィレーネは最後にふわりと微笑むと、メトロスと共に部屋を出ていった。
扉が静かに閉まり、円卓にはファジルとライラの二人だけとなる。
「ライラも、もう休んでください」
ライラは腕を組んでじっとファジルを見定める。ファジルも真っ直ぐ折れない視線を返した。二人の見つめ合いはライラがため息と共に視線を下げたことで終わりを向かえる。
「ま、一人でないと纏まらない言葉もあるかね。それに、これ以上のお節介は野暮ってもんだ。分かったよ、ファジル」
ファジルは無言で頭を下げる。ライラもまた、それ以上は何も言わずに円卓を後にした。
ついに円卓に一人きりとなったファジルは静かに椅子に座り、目を瞑る。ウマルが来たらどう話そうか? 次を逃せば、ウマルはもしかすると二度と自分と向き合ってくれ無いかもしれない。言葉を精練し、厳重に選ばなければならない。
迫り来る見えない
自身の肩に何かが触れた気がしてファジルは目を開いた。ファジルの目にまず飛び込んできたのは窓の外で僅かに白み始めている空。もしや寝過ごしてしまったのかと考えに至り、勢い良く立ち上がろうとするが、肩に乗せられた何かが突っかかり、ファジルは立ち上がることができなかった。
一体何が自分の邪魔をしたのかと肩を見る。そこにあったのは人の手。男性としてはかなり細めの、良く見慣れた、良く繋いだ手。
「ウマル」
振り返って見れば、そこに居たのはやはり愛しい人だった。
「ずっとここで待っていたのかい? すまなかった……あまり言い訳はしたくないけど、先生に捕まってね。まさか夜明けまで逃げられないとは思わなかった」
ファジルは息を切らせて恐縮しきりなウマルを見て、彼はどうやら自分と向き合ってくれるようだと理解した。更に言うなら、ウマルもまた、自身と同じように平静ではいられなかったのだと感じた。そうと知れば、数刻前に感じていた心臓の逸りも最早感じずに済んだ。ファジルから柔らかな微笑みが洩れる。
「ふふ、メトロスの読みが当たっていたのですね」
ウマルは久々に見たファジルの混じりけの無い微笑みに見惚れ、数瞬の遅れの後、ファジルに手を差し出した。
「僕の研究室に忘れ物をしたんだ。取りに行ってから帰ろうと思う……一緒に、どうかな」
「喜んで」
ファジルは差し出された手を受け取った。ウマルの方から手を差し出してくれるのはいつぶりだったかと思い返し、こんな小さな事がこれ程までに得難く、胸を歓喜に満ちさせるものである事を認識する。
「行こう」
重ねられた手をしっかりと握り返したウマルは、ファジルの手を引いて歩きだした。
◇◆◇
アイモスの弟子の中でも活躍目覚ましい者は高弟に認定され、専用の研究室が与えられる。円卓派の魔導師達はハーロルを除いた全員が高弟と認められ、自身の研究室を持っている。ウマルもやはり例外ではない。
ウマルに促され、ファジルはウマルの研究室に入る。獣脂蝋燭の弱々しい灯りの中で出迎えてくれるのは、乱雑に様々な紙束が置かれた机や、一冊分の隙間もない本棚、床に描かれた魔方陣、そして、御影石を削った等身大の男性の彫刻だった。
ファジルは最後に研究室に入った一ヶ月前を思い出し、作りかけだった彫刻が出来上がりつつあるのを見てとる。以前はのっぺりとした無貌だった頭部に、どこかウマルに似た所のある凛々しい顔が刻み込まれていた。
「彫刻、順調なのですね」
「ああ」
師である魔導師アイモスには彫刻家としての側面があった。ウマルは魔導師としてのアイモスの弟子だが、彫刻家としてのアイモスの弟子でもあるのだ。では、魔導師としてのウマルが一体何を研究しているかと言えば……
「久しぶりに見せてもらっても良いですか? あなたの魔術を」
「そうだね……ここ一ヶ月の成果を見てもらおうか」
ウマルは彫刻の前の椅子に座り、彫刻に手を伸ばして触れる。そして、念じる様に目を瞑りしばらく経つと、ウマルの体がぐったりと椅子に深く沈んだ。するとどうしたことだろう、彫刻がゆっくりとぎこちなくだが歩きだしたのだ。彫刻には関節の類いは備えられていない。本来、固く柔軟に曲げることなど到底できないような石の彫像が、全身をまるで人の肉体の様に駆使し動き回る。
彫像は最後にウマルの肩に手を置き、ファジルへと一礼すると、その形のまま動かなくなった。ファジルは拍手を送る。
「随分と自然な動きになりましたね」
ウマルが目を開けた。
「まだまだ人の動きを再現しきれていないけどね。走れもしないんだ。出来れば、話せるようにもしたい」
困った様に肩をすくめるウマル。彫像に乗り移り、人の肉体同然に動かす魔術こそ、ウマルの研究だった。
「座ってくれ」
ウマルはファジルに自身の向かいの椅子を勧める。その挙動は先程の彫像のようなぎこちない動きだった。幼い頃はそうでも無かったにも関わらず、ここ数年のウマルの一挙一動は明らかに潤滑さを欠いていた。仮面の様に表情を失ったのも同時期だった。それは、幾度も彫像に自身を乗り移させているためについた癖なのでは無いかと言うのが専らの噂であったし、ウマル自身もそれを否定したことはなかった。
ファジルは勧められた椅子に座る。向かい合う二人を、窓のカーテンに散らされた黎明の陽光が包み込んだ。
「さて……お互い、話さないといけない事があるね」
「ええ」
どちらから話を切り出すか、数拍の目線の応酬の後、先に口を開いたのはウマルだった。
「まずは……一つ謝らせてくれ」
ウマルは深々と頭を下げる。
「この一ヶ月間、確かに君を避けていた。君を泣かせる程傷つけてしまう事に考えが及んでいなかった。本当にすまない」
「愛する人に避けられれば傷つくのは当たり前です。反省しなさい」
被告人を叱る裁判官を真似た口調でファジルはそう言った。
「あなたがこれからは側に居てくれるのなら、許します。頭を上げてもらえますか?」
ファジルの許しにウマルは恐る恐るといった様子で頭を上げる。ファジルが優しく目を細めて自身を見つめている事に気づくとふっと身体の緊張が解けた様だった。
「しかし……そうか。僕は君の愛する人、なんだね」
ウマルが小さく呟くのをファジルは聞き逃さなかった。
「自覚が無かったのですか? 私の想いはあなたも知ってはいるのだとばかり思っていたのですが」
「分かってる。君が……その、
それは、初めてウマルから言葉にしてくれた明確な好意だった。ファジルは胸から全身へと巡る歓喜に頭を焦がされ、ウマルに抱きつきたくて堪らなかった。しかし、それを全力の心頭の滅却をもって拳を握しりめ抑えた。歓喜にうつつ抜かしてはいられない。次にウマルが紡ぐ言葉は間違い無く……
「でも……それは出来ない」
ウマルが続けたのは、やはり不実行の言葉だった。そう言われるだろうことは想定の内だった。そう考えているので無ければこんな事にはなっていない。ここからが正念場だ。言葉を間違えてはいけない。決意にファジルの目がすっと細まった。
「何故か聞いても?」
床の大理石の切れ目や魔方陣の文字に視線を惑わせながらウマルは答える。
「僕には幼い頃から抱える、致命的な問題があるからだ。君に否定されたくなくて、今までひた隠しにしてきた。いつか問題が解決される事を信じてね」
まだ核心に至るところまでは話していないが、それでもウマルがあっさりと自身の考えを明かしてくれる事にファジルは驚いた。のみと鎚で無理やりこじ開けるしかないとすら思った
「今に至るまで私に教えてくれていないという事は、結局、問題は解決されなかった?」
「そうだ。そしてこれが、君を避け始めた理由になる。問題を抱えたまま、君の想いに応える事は僕には選べなかった。君の感心を徐々にでも僕から別の人間に誘導したかったんだ。勿論僕だって平気だったわけじゃない。でも、君に、一生の重荷を背負わせたくは無かった」
「あまり私の想いを甘く見ないでください。あなたと背負えるなら、どんな荷であっても重くはない」
多少の憤りを覚えながらファジルは言う。しかし、ウマルは顔を下げたまま否定するように首を振った。
「それは、僕がずっと君の側に居られるならの話……だろう?」
「……え?」
その言い草では、ウマルが自分の前から居なくなるようではないか。ファジルの背に冷や汗がつたう。どこか遠くに移住してしまうのだろうか? それとも、人から隔離された環境へ? それとも……
ファジルの頭に最悪の予測が浮かんだ。
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