第10話「職場の上司に事情をご説明ください」

 リヴィと二人で連れ立って2階への階段を上がる。


「そういえば先輩、今日はPTA会長の引き継ぎで出勤遅れてたんでしたっけ?」

「そう、この指輪も」


 リヴィは再び興味深そうに俺の手元に目をやった。


「ああ、それがエデュカスコラの会長に代々受け継がれるという」

「うん。『会長の指輪』だってさ」

「そのまんま」


 リヴィが思わず吹き出したので、俺も一緒に笑ってしまう。確か、正式名称は別にあるとカクガルは話していたよな。そのうち確認しておこう。


「PTA会費で維持管理されてると聞いたよ」

「俺たちの会費ってそれに消えてたのかー」

「別にこれだけじゃないだろ」


 リヴィには二人の子供がいて、上の子供がエデュカスコラに入学している。すなわち、PTAに加入し、会費を納めている。これまでその使途について意識したことはなかったのだろう。

 かくいう俺も、PTA会費や予算が何にどれくらい使われているかなんて、自分が小学校で会長を任されるまでは気にしたことさえなかった。立場を得て、例えば会長の体外的な会食・懇親会の費用や交通費まで会費から支出されているということを知り、会食・懇親会への出席は諸々に差し障ることのない最小限とし、移動はすべて自転車で乗り切ることにしていた。

 そういえば、この世界のPTAの会計はどうなっているんだろう。会計報告を公開したりはしていないのだろうか。アキルは親として子ども達を学校に行かせているはずだが、特に明確な記憶としては残っていない。


 二人連れ立って階段を上がり、廊下を左に進むと、来客用のカウンターを挟んで戸籍課のオフィス――というか仕事場である。現在も20名程の課員が一心不乱に机に向かっている。机や椅子などの什器は木製で、「戦前の役所」と聞いてイメージするような重厚感というか、硬質で堅牢な質感で統一されていた。


「指輪、お昼の時間にでもまたゆっくり見せてくださいよ」


 リヴィは念を押すと、軽く会釈して自席に戻った。俺は頷き、片手を挙げて見送る。

 それから、俺は室内全域に声が届くように声を張った。


「おはようございます。遅くなり申し訳ありません、カイ・アキル、出勤しました」


 課員の目が一斉に俺に注がれる。直後「お疲れ様です」に相当する職場での挨拶の言葉をそれぞれが返してくれた。最低限、挨拶を返してくれる程度にはアキルは職場で嫌われてはいないようだ。何だか少し安心した。その足で、俺は室内の奥、この戸籍課の長たる課長席に向かう。


「サドゥガ課長、今日は時差出勤を認めていただきありがとうございました」


 課長席。白髪交じりのオールバックの男性が書類から視線を上げ、俺の顔を見て穏やかに微笑んだ。


「おはようございます、カイさん。随分早かったですね」

「みんな忙しい中、私用でご迷惑をおかけしているので」

「完全な私用というわけでもないでしょう。でも、配慮いただいてありがとうございます」


 サドゥガ・ターカー。一等戸籍管理官にして、民務局・戸籍課のトップである。事務処理能力や業務遂行能力に長け非常に有能でありながら、落ち着いた柔和な人柄で常に周囲への配慮を欠かさない。幅広い知識に加え、業務に対する真摯な姿勢や哲学を兼ね備えている。アキルの記憶によれば、最も尊敬する職業人であり、アキル自身のロールモデルとして位置づけられているようだ。日本での俺、海地陽(かいちあきら)にも、同じように深く尊敬する職場の上司がいる。小さな共感から、アキルの人格や生き方が、徐々に自分に馴染んでいくのを感じた。


「あの、課長」

「どうしたんですか、改まって。いつも通り『サドゥさん』でお願いします」


 課長――サドゥさんは、きょとんとして首を傾げた。

 彼は基本的に、格式張った場など必要性がある場合を除き、役職で呼ばれることを好まない。階級の別なく、職場では「さん付け」に相当する一般的な敬称で全員が呼び合うのが望ましいと考えているらしい。彼は「私は課長ですが、別に偉いわけでもなんでもないです。単純に役割の違いですから、考え違いをしないでくださいね」という決まり文句を折に触れて全課員に伝えている。

 アキルは若い頃に一度、疑問に思って尋ねてみたらしい。「なぜわざわざご自身への敬意を削ぐようなことを皆に伝えるのですか?」。これに対しサドゥさんは、「課長が偉いなんて思われたら、私が誰よりも優れていなければならないことになります。私は皆さんそれぞれの得意分野では全く歯が立ちませんから、こうして自分を守っているんですよ」と恥ずかしそうに笑っていた。正直、どんな分野で誰がサドゥさん敵うのか全く理解できなかった当時のアキルは首をひねるばかりだった。しかし、その後経験を重ね、アキルは自分なりに彼の意図を理解できたと感じているらしい。俺にも何となく分かるような気がした。


「サドゥさん、ちょっとご相談があります。少し二人でお話できませんか?」

「もちろん構いません。会議室――は二人では広すぎるので、保管室でもよいでしょうか」


 記録保管室、口頭では単に保管室と呼ばれるその部屋は、原則として戸籍課のメンバー以外の入室が制限されている。戸籍の原本を保管しており、気密性と重要性が高いことがその理由だ。さらに最奥には、一等戸籍管理官以上だけが入場可能な区域があり、王室や貴族の戸籍も管理されている。そこには事実上、俺――というかアキルとサドゥさん、他に数名しか立ち入ることができない。要するに、ちょっとした密談には最適な環境である。


「はい、お忙しいところすみません……本当に」


 サドゥさんの処理能力を以てしても、彼のデスクには書類が積み上がっている。社交辞令ではなく、彼が本当に忙しいのを俺は知っている。しかし、この上司は何でもないことのように首を振って立ち上がり、穏やかに告げた。


「カイさんとお話するのは大事な仕事ですよ」


 サドゥさんの後について、俺は保管室に入室した。ちなみに、保管室への入室制限は施錠によるアナログセキュリティである。建物への入館に利用されている識鑑の球はプロトタイプを用いた試験運用のようなもので、全館での実用化には至っていない。


「会長の引き継ぎはいかがでしたか?」


 保管室に備え付けられたテーブルに付属する簡易な椅子を俺に進めながら、サドゥさんが口火を切った。


「大まかには教えていただいたんですが、正直まだよく分からなくて。大事なことを聞けずじまいで終わってしまったように感じています」

「あぁ、カイさんの前の会長さんはミグリャ・カクガルさんでしたね。彼もせっかちなところがありますから」


 サドゥさんは愉快そうに笑った。カクガルとは顔見知りらしい。敢えてそこには触れず、俺は端的に用件を切り出した。


「相談したいのは、実はそこに関係しているんですが」


 サドゥさんは深く頷いて先を促した。


「――実は、俺は命を狙われているみたいなんです」

「そうですね……PTA会長になってしまいましたからね」


 サドゥさんは再度深く頷いた。

 ……あれ? なんか、思ってた反応と違うな。また先を促しているように感じる。


「ええと、命を狙われていまして」

「はい、気をつけないといけませんね」


 神妙な顔をしてるけど……もしかして、サドゥさんは俺に意外と冷たいのか?


「その、つまり。俺は殺されるかもしれなくて、ですね」


 彼は一瞬目を見開き、それからすぐに吹き出した。え、吹き出した?


「――ふふ、それはないでしょう」


 どういうことですか、サドゥさん……。

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