尾緒神くん、体操服を貸す

十六夜 つくし

第1話 赤堂さんが濡れていた

 7月。この土地にしては珍しく雨が降っていた。

 屋上での読書が至高な俺でも、流石に雨に打たれながら本を読みはしない。こんな日には、仕方なく教室に留まって休み時間と変わらない読書タイムを味わうようにしている。雨の日にでも朝早くからここに来る理由は単純で、ただ単に弟と顔を付き合わせて家を出たいという理由だけだった。弟は違う高校に通っている。あいつは朝練があるから毎朝早くから家を出る。体育館競技だから、雨の日でも関係はない。あいつは今頃体育館で汗水垂らして頑張っているんだろうな、なんてことを思いながら大きく欠伸をしているのが今のはなし。

 今日読んでいるライトノベルのタイトルは「俺は男女の友情を成立させてみせる!」というもの。つい最近、色々あって赤堂さんという変な女と友達になることになった。そんな俺にとって、本屋を歩いて見つけたこのタイトルには非常に興味を惹かれるものがあったのである。俺は異性の友達との上手な付き合い方が知りたかった。友達なんていう存在は、異性でなくても滅多にできないのが俺だ。同性でも仲良くなるのが難しい性格なのに、赤堂さんと上手くやっていける様子は想像できなかった。

 しかし、このライトノベルはそういうことに対して参考になりそうな本ではなかった。

 本作は、主人公が幼馴染みヒロインと友達の関係置で居続けるために必死になって己の恋心と戦う「打倒恋心」がテーマらしい物語だ。俺と彼女はただの腐れ縁。だから気にする方がおかしい。そんな思いが根底にあるお話。だが、そんなものは案外直ぐに否定される。寧ろ、それを否定する為の本と言ってしまっていい。幼馴染みヒロインの強引な押しに負け、二人は結局イチャイチャドキドキしてしまうのだ。この主人公は、自分の恋心を少しも自制出来ていない。お前ら両思いなんだから諦めてとっとと付き合ってしまえよ!もう!とは思わずにいられない純愛ラブコメであった。

 本来の俺であれば好みの作品なのだが、やっぱり今の心境的には求めているものではない。異性の友人は恋人関係に昇華する。その間にどんな過程を通ろうと、必ず最後には恋人関係に収束してしまう。だから。そんなことを訴えられた気分だ。だが、俺は赤堂さんのことが恋愛的に好きなわけではない。最終的にどうなるのかは分からないにせよ、今の俺が彼女と接するときの心境は本作の主人公とはまったく違う。だからやっぱり、この本は参考にはならなかった。

 本作に登場する男女の友情を保つための基本的な戦法は“己の恋心を我慢する。”であり、仲のいい友達であることは既に前提条件であった。幼馴染みとはなんて便利なことで、彼らの馴れ初めは軽くしか描かれない。親が仲良しで昔からよく一緒に遊んでいた。だから自然と仲良くなった。そんな仲の深め方は、幼馴染みですらない俺と赤堂さんには到底できない。これまでの関係性も薄いのだから、いきなり彼らのように仲の良い会話を繰り広げろと言われても土台無理な話であった。

 でも、一度でいいから幼馴染みトークはやってみたいなとは思わされる。あー。今からでも可愛い幼馴染みが転校してこないかな。なんてことを考えながら、終盤の展開を読み進めていく。この調子だと、午前中にはこの作品を完走できそうだ。


 そんな静かな時間は、今日も彼女によって打ち砕かれる。

 しかし、今日のはじまり方はいつもより少しだけ暗かった。

「こんなところに居たのかよ。尾緒神」

 教室の後ろ扉の方から、やけに暗く、冷ややかな言葉が投げかけられる。そちらの方に振り向いてみると、びちょびちょに濡れた赤堂さんがそこに立っていた。ひたひたと地面にしたたり落ちる水滴がちょっとした水溜まりを作り出している。

 彼女のトレードマークである季節外れの赤いマフラーは水を多分に含んでいて重たそうだ。桃色の長い髪の毛は地面に向かって重々しく伸びていて、前髪がその顔を隠してしまっている。幽霊みたいだな。なんてことを思いつつ、そんな彼女の姿がいつの日にか見た弟の姿と重なって、少しだけ気が引き締められた。

「赤堂さん?」

 俺は少し動揺しながら席を立とうとするも、すぐに拭くものが必要だと座り直す。鞄を漁る。そこにはタオルがあったが、自分が登校した時に使っていたものであり、すでに濡れていた。これで拭くのもなんだと思い、まだ乾いている体操服の方に手を伸ばす。これ以外に使えそうなものはない。取り敢えず拭けさえすれば、ものなんてなんでもいいだろう。


「どうして、今日は屋上に来ないんだよ」

 俯いたまま、彼女は低い声で怒るようにして言う。表情が見えず、なんか怖い。その手には、濡れた雑誌が握られている。赤堂さんお気に入りの『漢のホビー魂』というタイトルのホビー系雑誌だ。俺は席を立って赤堂さんに近づくが、彼女は一切此方を見ようとしない。これがドッキリで、急に顔を上げて飛び掛からでもしたら、腰を抜かしてしまうだろう。

「どうしてって、今日は雨だろ。屋上なんかに行ったらずぶ濡れになってしまうじゃないか」

 いいながら気がつく。最近は、赤堂さんも朝の屋上に来るようになっていたことを。特に約束をしている訳ではないが、俺達は待ち合わせでもしているかのように毎朝あの屋上に集まるようになっていた。え。こいつ、まさか。

「それは、そうだけど。でも、でもさ。わたしは、っ」

 下を向いたまま声を押し殺す赤堂さん。何かを言いたそうだが、言えないで苦しんでいるようだった。俺は、そのまま黙り込んでしまった彼女の頭に体操服を被せる。そしてそのままわしゃわしゃと髪の毛を拭いてやる。


「……。なんだよ」

 俺に頭を自由にされながら、赤堂さんは不満げな言葉を発した。急に頭に布を被せられて不快だったのかもしれない。

「そのままだと風邪をひきそうだから。取り敢えず拭いてやろうと思って」

 本当に、ただそれだけのことだった。他意は無い。

 俺の手の中で赤堂さんの頭がもぞもぞと動く。

「なんか、変な感じだ。タオルじゃないだろ。なんだこれ」

「体操服だ。悪いとは思ったが、他に使えるものがなかった。」

「たい、そう、ふく?」

 赤堂さんは白い半袖の体操服の淵を掴み、その質感を手触りで確認し始める。体操服で頭を拭くのは、タオルで頭を拭くのとは違う感覚がするのだろうか。

「ふっ。ふふふ。」

 俺の体操服の中で、赤堂さんが急に笑い始める。

 今の会話に、笑うようなところなんてあったかな。

「ははは。なんだよそれ。ばかだろ、お前。」

 赤堂さんは先程までの暗い調子の声ではなく、少しだけ明るい声で軽く笑う。そして彼女の手でぺしっと俺の手を払った。なんだこいつ、急に元気になるな。そう思ったけれど、考えてみれば前の時もそうだった。前も、途中で急に明るくなっていた。いったい赤堂さんの中でどんな心境の変化が起こっているのだろうか。

「ありがとう。後はもういいから、自分で拭く」

 そうして赤堂さんは、俺の体操服を使ってガシガシと自分の頭を拭き始める。その後に長い髪を丁寧に拭き始める様子を見ていると、髪が長いって大変だなと思う。俺だったらもう拭き終えている頃合いだろうし。

「うわ。制服までびちょびちょ」

 赤堂さんは肌に貼り付いた制服を持ち上げながら苦い顔をする。たしかに、これだけ濡れていたらどんな服でも着心地が悪そうだ。想像しただけでぞわりとする。

「濡れていたのに気づいてなかったのか?」

 赤堂さんが初めて気づいたみたいな反応をするものだから少しだけ気になった。

「え。いや、気づいていたのは気づいていたけど、気にならなかった。みたいな?」

 曖昧な調子で赤堂さんは言う。落ち込んでいたみたいだし、自分の状態なんてどうでもよかったのかもしれない。俺が屋上にいかなかったことがそんなに不満だったのだろうか。でも、約束をしている訳でもないのだから怒られる所以はないはずだ。俺達は、偶然あそこに集まっているに過ぎない。でも、なんだか申し訳ない気もする。

「……。もし冷えるようなら、篠崎先生に言って今日一日体操服で過ごさせて貰え」

 篠崎先生とは彼女の担任だ。ここまで濡れているなら、体操服に着替えて授業を受けることも許されるだろう。生徒の体調が第一だろうし、濡れたまま過ごせなんて鬼みたいなことを言うとは思えない。そんなことを思って言ったのだが、赤堂さんは不味そうな顔をする。

「……。体操服、持って来てない」

「……。」

 なんとも言えない顔をされたのが気に障ったのか、赤堂さんは続ける。

「だって今日、体育の授業なかったし」

 意外だ。赤堂さんなら体操服の一枚や二枚、常備しているかと思っていた。失礼だとは思うが、勝手にがさつなイメージを持っていた。置き勉とかもしていそうだなと。

 まあ、体操服くらいなら先生が貸してくれるだろうから持っていなくても問題ないだろう。

 赤堂さんはスカートの端を掴むと。

「まあ大丈夫だろ。授業受けてたら、制服も乾くと思うし」

 ……。なんというべきか、想像通りの答えが返ってきた。

 こいつ、この状態で授業に出るつもりなのか。

「風邪、引くぞ?」

「大丈夫。実は私、風邪ひいたことないんだ」

 自慢げな笑顔を浮かべた赤堂さんが胸を張る。なるほどそれは安心だ。と、彼女の言葉を鵜呑みにしてしまってもいいのか、少しだけ悩む。そもそもこれは、俺が約束を破ったせいでのことなのかもしれない。いや、約束なんてしていないんだけど。とにかく、そんな経緯で風邪にでも罹られるのは、なんか嫌だ。

 だが、ここで職員室で体操服を借りて来いといっても、彼女は素直には聞かないだろう。そんな気がする。

「ちょっと待ってろ」

 結局、俺は彼女の言葉を信用しきれなかった。自分のロッカーから予備の体操服を取り出すと、それを赤堂さんに渡す。

「これは?」

「予備の体操服。貸してやるから、着替えてこい」

「いや、いいよ。なんか悪いし」

「いいから。そのままだと、俺が心配なんだ」

 渡された体操服を返そうとした手を押しとどめる。少しだけ押し問答をした後、先に赤堂さんが折れてくれた。

「そこまで言うなら。むぅ。なんか、いつもより強引な気がする。なんか変だぞ、お前」

「ん、そうか?」

「ああ。いつもはこんな押し付け方、しないだろ」

 その言葉に衝撃が走った。それとともに、過去に押し付けられる側だった自分の記憶が蘇る。俺は、そうされることが嫌だった筈なのに。同じことを彼女にやってしまったのかもしれないと。後悔が生まれる。

「それじゃあ、お言葉に甘えて着替えさせて貰うわ。なんか、ありがとな」

 目の前が白黒とした。俺は偽善が嫌いだ。それをされるのが嫌なのだから、人には決してやってはいけない。自分が嫌いな奴らと同類にはなりたくない。でも、だとしたらどうすればよかったのか。あのまま彼女を行かせて、風邪をひかせて後悔するのが正解だったのか?

 ……。

 いつの間にか、赤堂さんはいなくなっていた。俺だけの孤独な教室には、雨の音だけが反響している。その音を掻き消してくれていた騒がしさは消えていた。

 俺は天井を見つめる。

「どっちを選んでも、後悔しかないじゃないか」

 呆然と自分の席に戻る。窓の外の雨模様を眺めながら、現実の理不尽さを呪う。

 さきほどのことを振り返る。思い返してみれば、たしかにあれは俺らしくないような気がしてきた。だって、今までの友達は……。

「人に優しくするって難しいな」

 暫く考えごとをした後、頭の中を空っぽにしたくて机上のライトノベルへと手を伸ばし、一人の時間を再開する。一人の空間に閉じこもる。そこは、俺が一番落ち着ける場所で。誰にも迷惑を掛けない安全な居場所くうそう。俺は、教室の隅で幸せな物語ユメを観る。

 この中でだけは、相手や自分の行動について考えなくて済む。なぜなら、その世界に俺という人間は存在しないのだから。一番害悪な存在について思考しなくて済む。すごく、居心地がいい。


 雨のせいか、気分は少しだけ憂鬱だった。

「そうだ。体操服、借りにいかないと」

 そして俺は、あまり好きではない熱血教師の下へと頭を下げに行く。内申点なんて気にしたこともないけれど、それでも忘れ物リストにチェックが付くのは、少しだけやるせなかった。

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