#8 描いた未来とウラオモテ -3- やさしさ
「ただいま」
「あれ、早くね?」
ぱたん、と扉を閉めると、悠太が洗濯物を畳んでいた。
「ごめんね、やっててくれたんだ」
「家にいるときくらい、ちゃんとやらないとな」
今日は日曜日。日はもう暮れている。
「残りはあたしやるから」
「大丈夫。その代わりと言ったらだけど、夕飯頼める?」
うん、と頷きヒールを脱いで、手を洗ってドレスを脱ぐ。
お風呂に入りたい――けど、それは後回し。
スウェットに着替えたあたしは冷蔵庫を開けて、鶏肉と卵を取り出すと、頭の中で料理のイメージを描き、ばたん、と扉を閉めた。
「――ん?」
ふと、いつも何かが占めているはずの一角が空いていることに。
気付いたあたしはもっかい扉を開き、悠太に尋ねる。
「ビールないね。買ってこよっか?」
もちろん彼の分のことである。
だけど悠太は、「あぁ、」とあいまいに告げて頭を掻く。
「――や、最近肝臓の数値高くてさ。俺も、我慢しよっかなって……」
「っ、……」
――ずくん、と胸が痛んだ。
そんな嘘、つかなくていいのに。
――あたしのせいだ。
家計が苦しいのも、悠太が気晴らしのビールさえ飲めないのも。あたしのせいだ。
あたしが、悠太を苦しめてるんだ。
「っ、そ、そっか。――親子丼、すぐ作るから待ってて」
「おぅ」
何でもないようににこっと笑顔を作ると、悠太もまた何気なく言葉を返す。
冷蔵庫の横に置いたあみあみの中から、玉ねぎを一つ取り出して切る。
ダメダメ、落ち始めると止まらないぞ。
あたしは自分に言い聞かせて、手に持つ包丁に意識を集中させる。
「っ、きょうの玉ねぎは染みますなぁ〜……」
――ほろっ、と涙がこぼれて。
とんとんと櫛切りにしながらぽつりと呟く。
千遊ちゃん、かわいかったな。
生まれてくる赤ちゃんも――きっとかわいいんだろうなぁ……。
「、ぅう、ふぇぇ…………っ」
あー、どうしてなのかなぁ……。
気付いた頃にはぼろぼろと涙がこぼれて、目の前は、すっかり見えなくなっていた。
「――あたしだって、あたしだって……っ」
「っ、ちはる、落ち着いて――」
悠太が駆け寄る。――感情の、トリガーを引く。
「――あたしだって、会いたいよ!!!!!」
まな板に包丁を放り出しうずくまる。
呼吸が浅くなる。息ができない。
――しあわせの、かたまり。
――いやだ。
ダメなのに。
こんなこと、思っちゃいけないのに……っ、、、
「――どうして、披露宴も、赤ちゃんもっっっ」
口にしてしまって、
ああ――とあたしは放心する。
「ちはる……今日はもう、休みな?」
「…………うん……」
悠太に肩を抱かれて。
あたしはかろうじての意思を、小さく一つ、頷いて示した。
「悠太、これ……」
「ん?」
あたしはたっぷりと通知の溜まったスマホを、悠太に預ける。
「明日まで、持ってて」
悠太は目で確認して、画面に触れる。
亜子めいに、千遊ちゃん。
大切な友人たち。
決して傷つけられない――あたしの青春の証。
「……幻滅した?」
「幻滅するくらいなら、最初から家上げてないっての」
軽妙な返しに、笑っちゃいけないのだけど――ふっと頬が緩んで。
「……今度会ったら、謝らなきゃ」
「涌谷さんには聞こえてないぞ? あ、今は栗原さんだっけか」
「ううん、けじめはつけなくちゃだから」
告げると、悠太は「わかった」とだけ呟いて。
「……乗り越えような」
「うん」
頷いたあたしは、悠太がつないでくれたやさしさを、二度と手放さないと心に決めた。
――――――――
――……
その夜、あたしは夢を見た。
『俺たち、付き合ったらどうなるんかな?』『そりゃもう……――らぶらぶの甘〜い高校生活を過ごして……』
目が覚めたとき、悠太はもういなかった。
都心からこのアパートは遠い。
寝不足にならなかっただろうか。誰もいない玄関を見つめて、あたしは彼を心配した。
枕元にはスマホ。通知がとんでもない数になっていた。今はさておき、悠太のトーク画面を開く。
ちはる『きのうはありがと。――夜、あったかくしようね?』
文面確認、送信。
「――朝から、むらついちゃうかな?」
別の心配が頭をもたげる。
なんなら、いますぐ有給使って帰ってきてくれてもいい。――そんな夢みたいなことを考えて、あたしはスマホを、胸に抱いた。
テーブルには、彼が作り置いてくれたトーストと目玉焼き。
あたしは一人椅子に座り、いただきます、と手を合わせてラップを外す。
たまごを口に含み、真っ白な牛乳を流し込む。
口の粘膜の中で混じり合ったそれは、どこが甘くて――こくんと飲み込むと、ひた、と胃の底に落ちて、あたしはなぜだか、『むくむくと大きくなるんじゃないか』と空想めいたことを考えて、さすがにやめた。
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