姉
緋雪
第1話
姉、
「たまには窓くらい開けなさいよ」
姉の部屋は湿気と香水の匂い、煙草の匂いと酒の匂いが混ざる。
奈々恵は、息を止めて窓を開けた。初秋の少し冷たい風が、彼女の頰を撫で、やっと息ができることにホッとする。
「窓はいいけど、カーテンは開けないで」
佳奈恵が言う。
「お姉ちゃん、たまには日に当たった方がいいって」
「頭が痛くなるのよ。ナナ、お水取って」
「もう、それくらい動きなさいよ」
奈々恵は渋々ペットボトルの水を、ベッドの上の佳奈恵に渡した。
佳奈恵は画家だ。
主に抽象画を描く。
奈々恵には、その絵の意味はわからないけれど、たまに、「グワッ」と変な感情が身体を駆け抜ける。
姉の絵は不思議だけれど、嫌いではない。
もっと健全な生活をしてくれていれば、奈々恵は、姉に対して何も文句は言いたくない。
母は4年前病気で他界し、父と姉と3人で暮らしている。奈々恵は、派遣社員として働きながら、母に代わって家事の全てを引き受けている。
父の正雄は、50代半ばになった。白髪も増え、いつの間にか背中は少し丸くなり、最近ますます無口になった。
姉のしていることにも無関心なようで、何も言わない。ただ給料日に奈々恵に生活費を渡して、自分の小遣いだけ財布に入れると、後は任せてしまうのだった。
佳奈恵の1週間洗っていないシーツを取り替えて洗濯機に放り込み、ゴミをまとめる。煙草は彼女が吸うわけではない。たまに来る男が吸っていく。煙草を吸う男は。
苦々しく思いながら、灰皿に山盛りになった吸い殻をゴミ袋に移した。
「ねぇ、これ、大事な画集でしょ? ちゃんと本棚に戻しなさいよ」
男がカップ麺でも置いたのだろう、汁が溢れて乾いた跡のある画集を本棚に片付け、姉に適当な服を着させてリビングに追いやり、掃除機とモップをかける。
こうやって、ダメ女の世話を、妹は甲斐甲斐しく焼くのだった。
「佳奈恵、おい、佳奈恵!」
ある日、奈々恵が買い物から帰ると、佳奈恵の部屋の前にちょっと前の男がいて、ドアを叩いて姉の名前を呼んでいた。この男には家の合鍵を渡しているらしかった。
「部屋の鍵が?」
奈々恵はゴミでも見るような顔で、男に尋ねる。
「あ、ああ。ナナちゃん、佳奈恵、どうしたの? 何回連絡しても、体調悪いって言ってたから、心配して来てみたんだけど、何の返事もないんだよね。中で倒れてたりしない?」
男は、慌てたように言う。
「大丈夫。姉は、仕事をしているだけです」
「仕事?」
「やり始めると、親でも私でも止められないんです。」
「佳奈恵が何の仕事?」
知らないのだ。こいつは、姉が画家だということも知らずにつきあっていた。
「そういうことですので、お引き取り下さい」
冷たくそう言うと、奈々恵は、男を玄関から放り出した。
「はぁ……」
姉は、また暫くアトリエに籠るつもりだろう。今は部屋の中で、自分の感覚を研ぎ澄ましている。
ここから暫く、奈々恵にできることと言えば、佳奈恵に食事を摂らせたり、風呂に入れたり、トイレに行くよう促したり……。
「まるで『介護状態』ね」
もう一度ため息をついて、奈々恵は台所に立った。
「ナナ……描くから」
フラッと部屋から出て来た佳奈恵が、奈々恵に声をかけ、アトリエに向かおうとするのを捕まえ、
「お姉ちゃん、少しでも食べてからにして」
と、無理矢理おにぎりを乗せた皿を押し付ける。
佳奈恵は、諦めたように、ふっと笑って、
「ありがとう」
と、一口食べると、アトリエに籠もってしまった。
佳奈恵が「やる気」を出すほどに、奈々恵は別のことでも困らせられることになる。
「またか……」
姉が食べ残したおにぎりをぼんやりと見ながら、また、ため息をつくのだった。
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