第5話 君の寝相は。

 何かを期待していたわけではないけど、結局なにも起こらず、朝を迎えた。アラームで起きると君は先に起きていて、体を起こして眠っていた俺のそばに座っていた。カーテンの隙間から細く差す朝日が、君の黒艶の髪を、キラ、と光らせていた。

 「先輩、おはよう」両目の二重がすこしだけバランスを崩している。

 「おはよう、はやく起きてた?」

 「わたしも今起きたの。寝相、大丈夫だったかな」

 「全然」

 「全然悪かった?」

 「全然良いんだよ。」俺はおかしくて笑う。「仕事行くか。送るから支度しな」

 「これしかないからね」

 君は上着を顔の高さに掲げて笑う。


 俺は仕事をしながら、頭の中はもっぱら君のことだった。なんの兆候もなく、空に流れた彗星のようだと思った。パッ、と暗い空を明らめる彗星。無数の星を一瞬にして見えなくするほどの光。俺の頭の中には、昨日の君とのひと時が、尾をひいている。君は、どこか寂しげだった。よく笑い、話す子だとは思えたけれど、心ここに在らず、いや、なにか、なにかが大きく欠けていた。君はなにかを大きく失っていた。その欠損は大き過ぎて、近づく対象をあっという間に取り込む。俺は君のことを忘れられなくなっていた。


 「おい!なに、ぼーっとしてんだよ」 

 年配の先輩が、俺を見てニヤニヤしていた。

 気がつけば正午を過ぎて、もう昼休憩の時間だった。君のことを考えていた俺は、コンビニで買った弁当を前に、ぼんやりしていたようだ。

 「いやぁ、すこし、寝不足で」

 「どーせ女と遊んでたんだろ若造がー」

 「あー。そうーでもないんですよ」

 絶妙に当てられて俺はすこし焦る。そうなんです、と言ったようなものだった。

 「遊びも大事だぞー」前歯の欠けた笑顔を見せる。「だけど仕事も気合い入れなよなー」

 「はい。頑張りますよ」

 うまく笑えない俺は、無愛想だろうか。頑張ると言いつつも、まだ頭の片隅には、隣で眠る君の寝顔があった。今日もあの場所でまた会うのだろうか。君に。あの海に行けば、そこにまた君はいるだろう。漫然と、俺はまた自分があの海に行くだろうと思った。三日月の形をした夕方のビーチを思い浮かべると、そこに君は、存在しているものになっていた。君はひとりで、浜辺へ歩いていき、夕暮れの時を過ごす。寂しそうな横顔だった。満たされていない、君の。


仕事を終え、そのままの姿でビーチへ向かうとやはり君はいた。砂浜に制服のまま腰を下ろし、すこし俯き気味だった。

 俺を待っていたように見えたのは、流石に意識のし過ぎだろうか。

 「来た」君は立ち上がりながら、言った。

 「来たよ」なんとなく苦笑いをする。

 「今日も来ると思った」

 「俺もそんな気がしてた」

 「相思相愛だね」

 「そんなのとは、また違うだろ」

 「照れなくてもいいのにさー」海の方を見て君はおどけた。

 「ねえ」

 「なによ」何を言われるかわかる気がした。

 「今日も、行っていい?」ほら、当たった。

 「やだ」ちょっといじわるをする。

 「やだなの?」やだじゃないよ。

 「嘘だよ」

 「嘘なんだー」君は、わかっていたけどね。という顔をする。

 「まあどっちでもいいけど」

 「じゃー、行く」

 「ちゃんと帰りなよ今日は」

 「わたしと居たくないんだ」

 「そうじゃないけど」

 そうじゃないけど、家にはちゃんと帰さないといけない気がしていた。学生さんなのだし。

 「なにを食べたい?」

 「本当に作ってくれるんだ」

 「仕方なく、ね」

 「なんか食いに行く?」

 「作るよ、約束だし」

 「じゃあ、ホットケーキ」

 「夜ご飯だよ?」

 「いいよホットケーキで。おいしいじゃん」

 「先輩がそれがいいって言うならそれでいいか」君はニコニコして、楽しそうに言った。

 車に乗って、君の働くスーパーに寄ろうとすると、「ここはやめよ?」と君は言う。プライベートでまで来たくないよー。心底嫌そうだった。君がそう言うから仕方なく、別の、どちらかというとドラッグストア寄りのスーパーへ向かった。俺はホットケーキミックス、ホットケーキミックス…、とホットケーキに使う材料を一直線に探しに行くと、君は本当にホットケーキでいいの?とキャッキャと笑った。

 買い物を済まして俺の部屋へ帰り、電気ホットプレートを出して、一緒にホットケーキを焼いていると、妹かなにかと一緒に料理をしているようで楽しくて、なんだか胸が温かくなるようだった。片面焼けたホットケーキをひっくり返す時に君が失敗して、ホットプレートからはみ出てこぼしたとき、あー!と、残念そうにしていた。君は、ごめんね、と言う。全然大丈夫だよ、と俺は言う。今は君の失敗を、全て笑って許せる気がした。夜ご飯(?)を食べ終えて君と話をした。今はなんとかという先生がどうとか、今、3年生のあの子がどうとか、そんな意味のない話をした。卒業したばかりの学校の話は、通ずるところが多く、いつまでも尽きなかった。夜もふけてきて、壁にかかる時計を見ると9時を過ぎるところだった。俺は帰りのきっかけを促す。

 「少し話しすぎたね。楽しいけど、もう帰ろうか」

 「ええ、いいよ。まだ」君は本当に残念そうだった。

 「俺も仕事あるし。君も学校だし。帰ろう」

 「大丈夫だよ。いいでしょ?まだ」

 駄々をこねる君をみていると、子供のようで可愛く思った。本当は俺もまだ一緒にいたいんだけど…楽しいし。

 「だめー」

 「先輩っ」

 「え?」

 君は突然、俺の手の甲に、弱々しく手のひらを重ねてきた。

 「お願い。だめって言わないで」

 「どうしたの」

 「帰りたくない」

 「そんなこと言ったって、また泊まるの?」

 「朝、送ってほしい」

 君の瞳は、暗くなってしまった君の、心をありのまま映しだしていた。そんな瞳で言われて、一体誰が断れただろう。

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