第19話 父親は町人なり

 葎はこの時まで梅吉が実の父親であることを教えていなかったのである。

それは次男の慶七郎も同じだが、こちらはある時期傍に居た為何とはなしに感づいて居たようだ。

 そこで葎はこれからのことを考慮して、二人に打ち明けたのである。

そこには梅吉(敬四郎)も同席していた。

二人は神妙な顔で聞いて居たが、細かい事情を聞いて父母のとった行動が已もう得ないことと知ったが、慶五郎は女手一つでここまで育ててくれた母には畏敬の念を抱いたものだが、父親だという梅吉には馴染むことは出来なかった。


 実質豊川家の当主となった慶五郎政治は、作事方材木方改となって三十俵二人扶持抱席を戴いて千代田城に出仕した。

 佐柄木町前の屋敷を出て神田橋御門に真っ直ぐ向かい、酒井雅樂守の屋敷横を抜けて大手門から入り、三の門を入ると左手に甲賀百人組が護る百人番所があり、先の地震に因る損壊部分の修繕も終えたようだった。

次の中之門で正面の石垣に沿って右に折れた所に在るのが御書院門で御書院番の詰所があり、右手に中雀門があった。

この最後の門を入った正面に本丸御殿の玄関があった。

 此処から入るのは溜りの間詰大名や当番目付に番方らであった。

 慶五郎は建物の右側沿いに入った所の中の口から入った。

作事方の控え部屋は入って直ぐのところにあった。ここは奥行十三間の土間だが両側には勘定組頭、小普請方や奥祐筆等の控部屋や番方衆の控え部屋もあり、此処で身形を整えて荷物を置き、刀掛けに太刀を架けて詰所に向かったのである。


 弟の慶七郎政仁は六年前に甘利家の養子となって六代目を継ぎ、弱冠十八歳ながら表台所役人として頭角を現し始めていた。

五代目彦佐までは御膳所台所役人であったが、お堀投身事件の後の空白時に表台所人が代わりに就いた為、慶七郎は入れ替わって表台所人として入ったのである。


 二人の息子がお役に就いたことでホッとした葎は、敬四郎を頼りながらも特技を生かして、生計の一助としたいと考えていたのである。

 敬四郎の観点からすれば、葎には好きにしてやりたいと考えていた。

そこでこう提案したのである。

「行儀見習いや作法・所作について教えてはどうかな。葎のように武家の娘御なら行儀見習いも出来ようが、町屋の娘たちの多くはそう言った機会が無いのが現状だ。

大奥での経験を生かして見るのも良いではないか」

「やるとしたら何処で?」

「勿論屋敷で部屋二つ程使ってみてはどうかだが、それは慶五郎に断ってやればよい」

 葎は慶五郎の帰宅を待って相談した。

「結構です。母上の思いのままに進めて下され。場合によっては明奈(慶五郎の妻)を手伝わせればいいでしょう」

 と言うことで、南縁側に面した中の間と次の間を使うことにした。

 冠木門には豊川の表札を出し、壁に【行儀作法並びに所作指導致します】の張り紙を出したのである。

 これが評判になり始めた料亭梅乃の前にある武家屋敷であったので、料亭を利用する商人や通りすがりの町屋の者達の目に留まらない筈がなかった。

然も従前から此処の住人は大奥勤めと噂されても居たので、話題になって当然と言えた。

 早速その日のうちに問い合わせや申し込みがあった。

敬四郎の発案で門は開けたままにして、入り易いようにした。

 張り紙から五日ほどで六名の申し込みがあったので一応締め切った。

特に定員は設けなかったが、少数の方が教えが行き届くように思えたからである。

 応募して来た子らの大半は大店の子女で、下は七歳から受けつけ、一か年ほどの修業とした。

 寺子屋に通う子も居たが、寺子屋は読み書き算用が主で、躾まで教えるところも無くはなかったが、それらとは違った観点から、特に礼を重んじる指導を心掛けたのである。

 挨拶の仕方や話し方、室内での歩き方から襖の開け閉め、立ち方から座り方、座る位置など女としての立ち振る舞いを細かく教えたのである。

 指導要綱などと言ったものはなかったが、教えるべき内容は一応整理してあり、その子の修得度に合わせて進めて行った。

また読み書きについても必要に応じて教えたのである。

 敢えて束脩(入門料)は取らなかったが、謝儀(授業料)は二百文(五千円)迄として、貧しい者からは取らなかった。


 併しこれが予想以上の評判となって、希望者は二十名を越えたのである。

葎はそれらを何時までも待たしてはいけないと思い、連雀町の屋敷を立ち退く際に解雇した者の中に行儀作法に煩い女中が二人程居たことを思い出して問い合わせると、喜び勇んで来てくれたのである。

 二人とも御家人の妻で一人は浅草大御番組仲町の峰岸はるえと言い、今一人は御先手組の田澤つかと言った。

未だ四十路半ばで働き盛りであったのだ。

二人の亭主は俸禄は二十俵ほどであったので、手伝い料が六百文(一万五千円)なら十分であった。

この他に甘利絹が夫松次郎の同意を得て参加した。

 結局二十六名の子らを教えることになり、一之間次の間三の間を使うことになった。

二十人の子らは商人の娘だが、後の五人の子は棒売りや傘張りなどの貧乏人の娘であり、謝儀が払えない子も居たが、葎は構わず通わせて教えたのである。

 その中にきくという未だ数え五歳の子に注目していた。

中山道沿いにある旅籠の仲居の娘だが、母親が仕事で留守の間に家事を済ませて、近くの小間物屋で雑用の手伝いをしていたのである。

 その小間物屋の娘が【行儀作法並びに所作指導】を習いに来ていたところからその子の存在を知り、家を訪ねて通うことを勧めたのだが、謝儀が払えないどころかその子が貰う僅かな駄賃さえ、暮らしの足しになっているのだというのであった。

 そこで葎は商家の主人に僅か半時(壱時間)で良いからきくの学習の為に時間を割いては呉れまいかと持ちかけると快く了承し、然も駄賃はそのままで結構ですと言って呉れたのである。

そのことを母親に話すと、

「其れなら構いませんが」

 と礼を言うでもなく、客にお茶も出さずにきくに注がせた下等の酒を飲んでいた。

それを見て葎は何時かこの女からきくを離さなければいけないと思ったのである。

 翌日の昼八つ(二時)から八つ半(三時)がきくの学びの時であった。


 こうした娘たちに対する指導者は葎を含めて四人であった。

教え方については四人が違わぬよう、十分に打ち合わせて意見を出し合い、其々の子に合った指導にも留意した。

 このように【行儀作法並びに所作指導】も順調な滑り出しとなった。

一方の料亭梅乃は仕出しの要望も多く、それらは松次郎や時には彦一や信之介という老料理人まで駆り出した。

嘗て下魚として扱いを避けた鮪が喜ばれる様に驚いたものだ。



 松次郎が妻絹を迎えに来たと言って、二人して料亭に寄ったのである。

「松次郎、お葎様はお絹さんのお陰で助かってると喜んでいたよ」

 町人となっても松次郎と呼び捨てしていたが、当の松次郎も兄者と慕って居たのである。

「兄者これを話していいものかどうか、絹と 悩んだんだけど、矢張り話して置くべきと思うので知らせるよ…。

 実は先日、日本橋に用が有って絹と出掛けて行った時のことなんだけど、橋を渡って高札場の反対にある市場の裏側の蔵屋敷と四日市町の三角地に三味線を弾く河原乞食が居たんだよ」

「乞食か」

「そう女の乞食だった。 

人集りで良く見えなかったのだけど、その女が弾き語る歌詞を聞いて居たら、


♪髪を七分三分の本多に髷て 当てる気もない大筒おおづつは 元はさぶろう二本差し 

寄り添う夢の覚めぬ間に 襖の奥に実らす種を 知らば後朝きぬぎぬに捨てる泪か


 ゆったりとした調子のその唄を二度続けて唄ったのである。

その歌詞の内容からすると、何だか兄者のことを言ってるような気がしてならなかった。

何重もの人垣を分け入ることも出来ず、少し離れた所から見てみたが、良くは分からなかったんだ。

急いでも居たので確認することなく帰ってきてしまったんだけどね」

 唄の内容と言い、三味線の弾き語りと来たらお仙なのかも知れないと思った。


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