第17話 料亭梅乃

 思わぬことから意外な展開となった。

豊川みなは養女親子の将来を案じて相模守に、佐柄木の屋敷地三百坪のうち、後ろ百十八坪を料亭として使用することの許可を願い出たのである。

『諸屋敷帳』なる台帳上は飽くまでも明地と記帳されていて居住者名の記載はない。

新地奉行方の調べによる記載であるので、特に問題はなかった。

 そこで後ろ側に奥行九間の幅十三間の敷地を取り、左端に一間幅の通路を設けて料亭への入路とした。

 建屋は二階建てとして、客室は一階に十畳の部屋が四部屋と北側に五畳の個室が三部屋あり、二階には十畳八畳の続きの間が中廊下で分けられて左右に配置した。

 開業は二年後で料亭の名は梅乃と付けた。開業当初、女房のお仙も手伝いに来ていたが、飽くまでも髪結に三味線の指南が本業なので、花房町の飯屋は政吉・登米夫婦に任せっ切りであった。


 葎の次子豊川慶七郎は七歳の時から調理の伊呂波を教えたので、十一歳となった現在では魚の捌きも一人前に出来るようになり、味付も盛り付けも中々のものであった。

使用人も女将に仲居が四人、料理人が慶七郎を入れて三人居たので十分であった。

 梅吉(敬四郎)はお得意先廻りや食材の買い出しに花房町の様子見と結構忙しかった。  

 そうした中で慶五郎と慶七郎が数え十二で元服した。

その日は梅乃は休んで、身内に招待客を入れてお祝いしたのである。

 形は豊川葎の主催であったが、事実は敬四郎の取り計らいであった。

 十畳四面の襖を取り払って四十畳の広間としてみると、四十名の列席者はゆったりと祝い膳を楽しむことが出来た。

 この祝宴の前に烏帽子の儀、詰まり元服の儀式が烏帽子親である土田相模守によって執り行われたのである。

実際には烏帽子は被らず、月代を剃って大人の髪型と服装に変えたのであった。

そして慶五郎と慶七郎は烏帽子親土田政直の一字を貰い、其々政治、政仁と名のった。

 この元服の儀式に料亭の主人として梅吉は同席を許され、親としては名乗りは上げられないものの、我が子らの元服を見届けることが出来たのである。

 それにしても葎は良くこの双子を手放すことなく育て上げたものである。

一度に二人産むことを畜生腹と言って忌み嫌ったものだが、葎は天からの授かりものを大事にしたのである。

それは敬四郎との愛の結晶であったからだ。 

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