第13話 魔法文学ゼミ 『小僧の神様』 贈与についてⅠ

 今日の発表者は仲村ネリさん。なんか先生が忘れていて共有LINEで募集したら手を挙げてくれたらしい。

(えらいなあ)

ミフユは発表を前回済ましているので気楽だ。

(うん。わたしもエライ)


「今回は小説の神様、志賀直哉を取り上げます。

 私は専門は英文学で、もしかすると日本文学の知識は前回の杜さん以下かも知れません(いや、謙遜でなくて)。今回の発表も実は英国留学中の友達との対話が元になっています。その子はジェーン・キムラという日本近代文学専攻の学生で、たぶん彼女とでも、私が上回っていたのは、日本語のネイティブスピーカーであるところぐらいだったと思いますが。

 ある時、その子が『小僧の神様』について質問してきました。

「なぜ、この作品が『贈与』の観点から分析されていないのか」

 

 とりあえず、留学生の方もいらっしやるので、『小僧の神様』について説明しましょう。まず小僧さんが出てきます。日本の徒弟制度について話すと長くなるので、ここでは、お店の見習いと考えておいてくれればいいでしょう。

 その小僧があるきっかけで、お寿司を食べてみたいと考えるようになります。ある日、お使いの帰りに、片道の電車賃を歩いて浮かせた四銭を握り、思い切って屋台の寿司屋に入ります。しかし、食べようと手に取った瞬間に主に言われます。『一つ六銭だよ』お金が足りません。小僧さんは寿司を元の台へ戻して出てゆきます。多分、顔から火の出るような思いをしたのでしょうが、志賀直哉は余計と思ったのか、ただこう書いています。簡潔ですが、完璧な叙述です。何度読んでもマネできる気がしません。

『小僧は何もいわなかった。小僧はいやな顔をしながら、その場がちょっと動けなくなった。しかし直ぐある勇気を振るい起こしてのれんの外へ出て行った。』

さて、この場面に出くわしたのが『若い貴族院議員A』です。Aは小僧を可哀想に

思い、のちにたまたま生じた機会をとらえて、小僧に寿司を御馳走する。

 問題はその先で起こります。そのあと、Aは何やら変な気持ちに取りつかれるの

です。小僧に同情して行った行動が自分に不快な感じを残している。

『人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、ある喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう、この変に淋しい、いやな気持は。何故だろう。何から来るのだろう。丁度それは人知れず悪い事をした後の気持ちに似通っている。』

ちょっと長い引用になりましたが、ここのところが、議論されてきたポイントの一つです。なぜ、変な気持ちになったのか。

 どうも、古い研究書などでは、この話は小僧仙吉と若い貴族院議員Aの身分の「格差」が焦点になっているというラインの解釈が多かったようです。政治家である議員が、その格差を是正するような社会的改革につながらない行為で自己満足している状況に嫌な気分になっているのだと。

 でもこれは、金持ちが貧乏人に施しをして、その欺瞞に気づき自己嫌悪に陥るという話なのでしょうか。小僧さんは修行途上の身の上ですから、自由になるお金はあまりありません。といって、貧窮しているわけではない。また、一度取った鮨を置くエピソードも、きまりが悪い話ですが、惨めな話というほどではないと思います。肥った鮨屋の主は仙吉と同じレベルの住人ですから、ほかに客がいなければ、仙吉を叱ったかもしれません。(小僧の分際で百年早い、とか。別の種類の小説になってしまいそうですが)

 志賀直哉は自分の時代をきちんと描いている。ただし、その世界を描くうえで格差は織り込み済みで、普通の意識には上がってこないようです。では『いやな気持ち』はどこからきているのか。

 

 さて、ここで少し『贈与』について考えてみましょう。

 私たちは人からプレゼントをもらうとお返しをしたくなります。でも、お返ししたらそれは交換になってしまいます。人と人のあいだでは純粋な贈り物は不可能な行為なのか?これを突き詰めていくと、絶対者=神の純粋贈与に行き着きます。これが哲学・思想分野における『贈与論』のテーマ系の、いささか乱暴な「まとめ」です。確かに普通に考えても、見返りなしの贈与を行えるのは神様だけでしょう。

では、Aの『変に淋しい、いやな気持』ちはこの「純粋贈与」に接触した結果だという解釈が成立するでしょうか?

 私たちが調べてみると、この問題への『贈与論』的アプローチは2000年代初めに中沢新一が提起していました。ここで、誤解のないように言っておくと、中沢は『小僧の神様』論を提出しているわけではありません。『愛と経済のロゴス』という本の中で、いってみれば、小説をサンプルとして使っているのです。そして、以前からこのゼミで語られているように、あらゆるテクストはサンプリング可能です。それはテクストの本質に属することです。しかしその逆は違う。そこにないものを外挿して解釈するのは作品論としては慎まなければならないでしょう。

 中沢は言います。(いいですね、どんな学者でもこういう場合は呼び捨てOK)

『Aは交換と純粋贈与の間で引き裂かれ、いわば宙ぶらりんの状態で苦しんでいるのです』

 私とジェーンはほぼ同じ印象を持ちました。

〈中沢の読みは語り過ぎている〉

 作中でAは一度も苦しんではいません。『淋しい気持ち』『不快な感じ』は〈引き裂かれ〉とは釣り合いません。それも、音楽会で『Y夫人の力強い独唱を聴いている内に殆ど直ってしまった』のです。また、志賀直哉にとって『淋しい』は生理的な反応です。『城の崎にて』でも生と死に関わる怖ろしいまでにそぎ落とされた文章の中で、何度も『淋しい』を使っています。いわく言い難い状況の時に発する言葉。それがここに転移している。

 「小僧さん」とお寿司をめぐるこの小さな出来事に『贈与』が関わっているという直感は正しいのだと思います。しかし、Aは日常生活に回帰してしまい、小僧には

小さな神様が残される。小説の着地点が違うのです。これは大きな神、一神教的な絶対神が物語なのです。

 さっき、『贈与』の不可能性という話に触れましたが、それは突き詰めた場合の話です。日常的なレベルでは「贈り物」は毎日贈られている。そして人は「神様にはなれないけれどサンタクロースにならなれる」という凡庸なストーリーが毎年生産され続けています。サンタクロースは人の名ではなく役割の名前だからです。人は贈り物をするとき神様の代理をしている。もちろん、それでも人は一時的にしかその任に堪えない。Aは言うでしょう。

『俺のような気の小さい人間は全く軽々しくそんな事をするもんじゃあ、ないよ』


 最後に題名に戻りましょう。小僧の神様はAのことではありません。普通の人にとって神様とはどういうものか。それは世界を創造したり、命を与えたり(奪ったり)するキリスト教的な絶対神( 大文字のGod)ではなく、願いをかけたり、子どもを初参りさせたりするような小さな神様(gods)ではないでしょうか。それは小僧にとっては「悲しい時、苦しい時に」「想うだけで」慰めになるような「あの客」の姿をしているかもしれない。そして、この小説では小さな神様を「小僧の神様」として残すことが重要だったのです。そんな神様について話をすれば、普通のひとであるAの細君はきっと同意するにちがいありません。

『そう云う事ありますわ』

これで発表を終わります。ありがとうございました」

 みんなから拍手が起こる。

 

 金澤先生が立ち上がる。

「たいへんよい発表でした。まず、先行研究を当たってその問題点を明らかにするところ、その問題点を新しい解釈によって解決すること。そこまでできていれば及第点なのですが、今日はさらにその先、依拠した理論的枠組みの反省にまで至っています。理系っぽいことばで言えば、『小僧の神様』についての仲村ー木村仮説といったものが提示されているわけです。なにか質問のあるひとは…。なければ今日はここまで。次回は…」

田中がそこで手を挙げる。

「先生、次は演習の反省会になるのでは?」

「あ、そうか。そうだね、ありがとう」

さっきまで、上機嫌だった金澤先生の表情が少しだけ曇ったのが、ミフユはちょっと気になる。

「じゃあ、その次の発表者はワタシでいいですか」

ロシアのエレーナさんが手を挙げている。

(今日の発表で何か思いついたのかな)

「うん。じゃあ、お願いします」

先生の表情はもう普段通りに戻っていて、ミフユもすぐそのことは忘れてしまう。


引用文 志賀直哉「小僧の神様 他十篇」岩波文庫 2002

    中沢新一「愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュⅢ」講談社 2003

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