長寿す/八尺様、蒼天を穿つ

「妙だと思っておったんじゃよ、昨晩からのぉ」



 宇嘉野さんは既に沼代さんから腕を放し、冷たい目のまま彼女を見つめていた。

 その視線の先に居るのは、坪倉さん。

 ペットボトルに入っていたはずのミネラルウォーターを操り、まるで蛇のような形状のまま、宇嘉野さんへとその頭を向けていた。


「“形代式神”の位置は術者に伝わる……つまり、式神が尾行しておる相手の位置も筒抜けじゃ」

「……だから、宇嘉野さんなら犯人がわかっていたんですよね?」

「じゃが、式神を付けておいた小童どもの動きに異常はなかったのじゃ」


 そうか、やっと彼女の意図を理解した。

 

 宇嘉野さんが言った「小童ども」というのは、「MerMaid-Mate」のメンバーのことだ。

 僕たちは、これ以上ファンが被害者にならないように、そして疑いのかかったメンバーたちの同行を監視するために、“形代式神”の運用を決断した。

 そのため、マネージャーであった坪倉さんはノーマークだったし、式神を付けてもいなかった。


 昨晩、湊愛結が木乃伊化した際、式神の動きに異常はなかったと言う。

 ライブに来ていたファンもメンバーも、犯行には及んでいないということだ。

 となれば、警戒網から外してしまった坪倉さんに疑いの目がかかるというわけか。



「でもそれなら、ライブハウスのスタッフとか、ライブに参加していない人間が犯人である可能性もあったと思うんですけど……」

「––––––いや、昨晩に限っていうのであれば、坪倉さん以外には有り得ません」


 八恵さんの考えもごもっともだ。

 しかし、その点に関しては僕にも説明できるほどの確信がある。

 ファンを木乃伊化させた原因はわからなくとも、湊さんを木乃伊化させて殺そうとする動機なら、心当たりが無いでもない。


 僕は坪倉さんと一緒に、昨日の控室の一件を盗み聞きしていた。

 ファンも知らないグループ内の不和も、沼代さんが酷い扱いを受けていたことも、坪倉さんは以前から知っていたはずなのだ。


 彼女はそれでも五人を支え続けていた。

 喧嘩を経てもなお活動できたのは、おそらく彼女の努力があったからこそ。

 同時に、坪倉さんは沼代さんのことを大切に思っている節があった。

 カメラの画角に入るよう声をかけたり、ライブ前に勇気付けてあげたり……傍から見ていても沼代さんにより熱心に世話を焼いているような印象があった。



「一番の推しを守るために、あなたは邪魔者を排除するようになってしまった」



 坪倉さんは黙ったままだ。肯定もしなければ、否定もしてこない。

 しかし、彼女が操作しているであろう水流はまだ空中に浮いている。

 僕の予想の真偽がどうであろうと、彼女が武器を持っていることには変わらない。


「坪倉さん……」

「…………渚沙、目を瞑っていてくれないかしら?」


 沼代さんの呼びかけに、坪倉さんが応える。

 消え入りそうなほど静かな言葉は、僕たちへの抵抗を意図するものだった。


「抵抗しないでください! 貴方はもう––––––」

「––––––私は……!! この子の側にいたいだけなのよ!!!」



 彼女がペットボトルを手放し、宇嘉野さんと僕へと両の掌を向ける。

 それに呼応して、うねる水の塊は二つに裂けて僕に襲い掛かって来た。

 明らかに容器に入っていた時よりも肥大化している。恐らく空気中の水分を吸収しているのか、あるいは水分子そのものを増加させられるのかもしれない。

 どちらにせよ、そんな科学的な考え方では怪異を理解しきれるはずがないのだ。


 それに僕の刀を介した技は、攻撃を受ける側の認識に一存しているものだ。

 だから、襲い掛かる液体を斬ったところでダメージなんて与えられないし、そもそも流動体を刃物で斬るというのが荒唐無稽な話である。

 これでは《幻現刺痛げんげんしつう》すら通用しないかもしれない。


 そんなことを考えている間にも、奇怪な挙動をする水流は近づいて来る。

 その先端が僕の顔面へと突っ込む––––––その直前。



「––––––《燃焼:魔祟火またたび》!」


 水蒸気が音と共に立ちこみ、僕の下へは極めて微細な雫がかかるだけだった。

 視界の中で蠢いていたはずの水流は消滅している。

 それは宇嘉野さんに向かっていたものも同じようで、彼女は耳をピコピコ動かしながらも上機嫌そうな顔を見せた。



「にゃぁぁ……ダーリンがウチを呼んだ理由がわかったにゃあん」


 いや、僕のアイデアで呼んだわけではないんだけどね。

 しかし彼女が居てくれなければ、僕は町のど真ん中で溺死していたのだろう。


 ハナビの正体である“火車”は、炎を伴って現れる猫の妖怪だとされている。

 そのため、彼女は炎や熱を自在に操ることが可能なのだ。

 先ほどの水流の蒸発も、彼女が発動した《魔祟火またたび》という技の賜物。

 猛る炎熱を球状に形成して、それを水流と対消滅させたということである。


「……アンタたちも、私と同じで変なモノを喰ったの?」

「んにゃあ、そっちじゃなくてオリジニャルにゃん♪」

「おりじにゃる?」


 肝心なところで噛む子だなぁ。イマイチ恰好がつかない。

 だが水を扱う相手であれば、それを蒸発させてしまうほどの火炎を駆る彼女の敵ではない。

 宇嘉野さんは、そのことも見越してハナビの招集を求めたのだろう。

 本当に、澄ました顔で何でも見透かすような人だ。人ではないけど。



「何だっていいわ……邪魔しないで!!」


 しかし、尚も彼女の激情は収まらないようだ。

 飛び散った水分をかき集め、それが増幅されて新たな水流を形成している。

 その水流が寄り集まって束になり、太さと大きさを増して、より巨大な奔流が出来上がっていく。

 先ほどのがだとするなら、今目の前に現れたのはだ。

 僕たち全員を簡単に飲み込めるであろう規模の水が、真上に広がっている。


「おいおい……マジかよ!?」

「お主、霊力を消耗し過ぎると命が縮むぞ……?」


 確かに、あまりにも強大すぎる力だ。

 本物の“人魚”であるならまだしも、その肉を食べただけの人間がここまでの芸当をするのに、身体への負荷が軽いわけがない。


「––––––勝手なこと言わないで! 私の命なんか、とっくに捧げてるのよ!!」


 見れば苦痛を浮かべた表情をしており、額から浮かび上がった脂汗すらも鯨の中へと組み込まれていく。

 明らかに、自らの許容限界を越えた能力の行使だ。

 一体、何がここまで彼女を追い立ててしまうのだろうか。

 一人の女性を推すにしたって、これほどまでに命を懸ける意味はあるのだろうか。


「ダーリン流石にヤバいにゃ! 水流はよくても、池の水を全部蒸発させるのは––––––」

「せ、せめて沼代さんだけでも……!!」

「ふむん……!」


「私のの……邪魔をするなあああああッッッ!!!」




 バケツでは済まない、プールをひっくり返したかのような量の液体が迫りくる。

 豪雨でもここまでの圧迫感はないだろう。言うなれば津波か洪水だ。




 だが、降ってはこなかった。

 額を刺すのは、細く小さな雨粒だけ。


 恐る恐る見上げれば鯨の姿は無く、建物に囲まれた空が広がっていた。

 そして、高くそびえ立つ人影がある。



「––––––ぼ、ぼぼ、ぼぼぼ、ぼぼぼぼ、ぼぼぼぼぼ、ぼぼぼぼぼぼ……!!!」



 八尺というのは、メートル換算で2.424という値になるらしい。

 それだけでも現代日本社会の中では、文字通り頭一つ抜けているサイズ感だ。


 だが、今僕たちを護った彼女は、ゆうに6メートルは越えている。

 どこからか現れた純白のワンピースを羽織り、顔が見えなくなるほど長い漆黒の髪を無造作に伸ばしている。

 そして、蒼天に穴を開けんとするかのように、骨ばった拳を突き上げていた。



「や、八恵さん…………!?」

「ほぉ、これほどまでとはのぉ……」


 僕もハナビも呆然とし、沼代さんを尻尾で庇おうとしていた宇嘉野さんも流石に驚いている。

 八恵さんは自身の怪異性を引き出し、人間に準じた姿から変容した。

 そして、その拳をアッパーカットの要領で振り上げ、その挙動だけであの洪水を弾き飛ばしたんだ。


 余りにも出鱈目だ。

 腕一本で、鯨サイズの水流を打ち砕いた。

 これが、現代における“八尺様”の猛威。怪異としてのポテンシャル。


「ぼ、ぼぼ、ぼぼぼ……ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ」


 濡れた黒髪の見据える先は、その顔が隠れているために確認できない。

 だが、振り上げた腕は胸部前方で構えられ、両手の拳を固く握っている。

 殴打と防御を供えたボクシングスタイルだ。


 いつだったか、尾上さんが愚痴っていた。

 ネットが発達した現代において“八尺様”は余りにも広く知られ過ぎており、その影響で彼女のフィジカルや存在力は過剰なまでに丈夫になってしまっているらしい。

 ただでさえ想い人を取り殺す恐ろしい特急指定怪異譚であるというのに、僕が異譚課に所属してからというもの怪異を殴り飛ばす姿しか見れていないのだ。


 しかし、まさかプールの水を弾き飛ばすほどの膂力を有していたなんて。

 究極の脳筋とは、八恵さんのことだったのか。



「……ま、まだよ、まだ水は––––––」

「水が、にゃんだって?」


 遅れて、僕も気付く。

 肌がヒリヒリとして、喉の渇きが堪えられないほどになっている。

 あの歪な姿を見ても戦意を失わなかった坪倉さんは称賛に値するが、どうやら僕の仲間の方が一枚上手であったようだ。


「《燃焼:勾撫火まなつび》……だにゃん♪」


 ハナビがこっそりと編んだ術の効果は、広範囲における温暖と渇水。

 坪倉さんがもう二度と、先ほどのような大規模攻撃ができないようにするための布石だ。

 これをアドリブで実行できるのだから、やっぱり優秀な子である。


 いくら水分を増幅できるとしても、その元となる水が少なければ再チャージには時間がかかるだろう。

 その時間さえあれば、八恵さんの脳筋パンチが叩き込まれる。

 そうでなくとも、既に坪倉さんは体力を大幅に消耗し過ぎている。

 諦めの悪い彼女でも、流石に状況を飲み込まざるを得ないはずだ。


「ま、まだ、私は……わた、し…………」

「もう諦めるんじゃな。ただでさえ“人魚”の階級は低いのじゃから、その肉を喰っただけの人間如きに出来ることなど毛頭無いわい」


 宇嘉野さんの言葉がトドメとなったか、彼女はようやくその場にへたり込んだ。

 尻尾の傘に隠れていた沼代さんが顔を覗かせ、坪倉さんへと視線を向ける。


 その瞳に浮かぶのは、恐怖でも驚愕でもない。

 ただ純粋に、自身のマネージャーへの心配だけを抱いているようだった。



「つ、坪倉さん……」

「––––––私、どこで間違えちゃったのかなぁ……?」

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