呪縛ぐ/巨頭オがやって来る

 母が倒れ、病院に救急搬送された。

 僕も救急車に乗り込み、病院内の待合室にて検査結果を待つことになった。


 どうやら数週間にわたって入院し、継続的な検査が必要な状態らしい。


 それはつまり、僕が一人で家に居なくてはならないということ。

 病院の先生から親族との同居を勧められ、そのアイデアに乗る運びとなった。


 連絡を試みた結果、母方の祖父母が家に来てくれる運びになったのだが、到着するまでに三日ほど時間を要するらしい。

 たしか、長野県にある巨頭きょとう山の麓の村に住んでいるんだったか。

 だが仕方ない。ワガママを言う資格は僕には無い。

 高校生一人で暮らすことに対する不安もあるし、何より祖父母の親切心を無下にはしたくない。

 それに、あの人たちだって実の娘のことが心配なのだろう。



 ––––––正直、僕は揺れていた。


 父が殺され、母も倒れた。

 どちらも、僕を監視していた“何か”の影響だと考えている。

 両親がいなくなった状態で、あの家に留まるのは正しい判断なのだろうか。

 次こそ僕の命が狙われるかもしれないのに、一人になってしまって本当にいいのだろうか。


 一方で、僕と関われば祖父母まで巻き込んでしまう可能性だってあり得る。

 もしあの二人までいなくなってしまえば、僕の心は耐えられる自信がない。

 むしろ、僕の命一つで済むのと、親族が皆殺しにされるのでは、後者の方が損失は大きいかもしれない。


 少なくとも僕は三日間、あの家に一人きりなのだ。




 帰宅した頃合いには、既に夕日も沈んでいた。

 誰も居ない自宅の部屋で、誰のかもわからない視線を浴びながら、夕飯のコンビニ弁当を咀嚼する。

 味がしない。

 電子レンジで温めたのに、温度も感じない。

 恐怖で感覚が覚束ない。

 部屋の電気は付けているのに、微塵も安堵が湧いてこない。


 あの老婆の目的は何だろう。

 父の左脚を斬ったのは間違いなくアイツだ。

 母の意識を奪ったのも奴かもしれない。

 もしかすると、今も僕の全身を包む視線の正体すら奴なのだろうか。


 いくら考えても、僕には何もできない。

 およそ十年近い間、僕はこの視線を浴びることしか出来なかったんだから。


 神社やら占い師やらに駆け込むべきだとも、本当にいるかもわからない霊媒師とやらを探した方が賢明だとも考えた。

 でも、とっくに他人に対して冷めきっていた僕は、如何せん行動に移れなかった。

 相談したところで、学校の人間たちみたく気味悪がられて終わりかもしれない。

 最悪の場合、金をふんだくられるかもしれない。


 結局のところ、僕は他人に裏切られるのが怖いだけなんだ。

 クラスメートから避けられているのと同様で、僕の心が弱いばっかりに、他人のせいにして自分が傷つかないようにすることしか出来ない。


 僕はもう、他人に助けを求められないんだ。


 ……ダメだな、どうしてもネガティブな考えばかり湧いてくる。

 僕一人じゃ何もできないんだ。もうすべきことなんて無い。

 今日はもう寝よう。

 寝ている間に死ねたら、多少は気が楽かも––––––––––––






 コンコン、コンコン。


『…………す、数年前、ふと、ある村の事を、を、思い出した』




 カーテンで隠された窓ガラスが、外側から叩かれた。

 直後、壊れたラジオのような音質で、何かが聞こえる。

 ノイズがあまりにもひどい。

 しゃがれた老人にも、圧のある男性にも聞こえる声だ。



 コンコン、コンコン。


『旅行したと、時に、行っ、逝った、小さ、な旅館のある村、ら』



 冷や汗が止まらない。

 呼吸がままならない。

 窓の外に、“何か”が待ち構えている。

 薄いガラス板一枚向こうに、得体の知れないものが居る。


 嫌でも、父さんが殺された状況が頭に浮き上がる。

 来訪者の正体を確認するために玄関扉を開けた父は、脚を奪われて殺された。

 ならば、この窓を開けてしまったらどうなるだろう。



 コンコン、コンコン。


『こ、心のこもった、もてなしが印象的だったが、がが……』



 逃げなきゃ。

 ついさっきまで真逆のことを考えていたような気もするが、やっぱり僕は弱い人間のままらしい。

 怖くて堪らない。

 この恐怖から離れたくて、逃げたくてたまらない。

 だから、逃げ出すべきだ。


 この窓を叩いているのだから、僕の自室の位置は把握しているのだろう。

 なら、僕がこの部屋にいることもわかっているはず。

 それを逆手にとって、裏の勝手口から逃げよう。

 玄関扉は部屋の窓と同じ方角に向いているから、真反対の出口であれば虚を突ける可能性がある。



 コンコン、コンコン。


『な、何故か……急に、行きたくなっ、た、た』



 奴はまだ窓を叩いて、よくわからない言葉を吐き続けている。

 この場から動く様子はない。

 ならば、僕は音を立てないように部屋から出て、階段を降り、勝手口の扉を開ければいい。


 いける。逃げれる。生き延びれる。

 大丈夫だ。音を立てなきゃいい。

 幸運にも、奴は喋り続けている。無機質なラジオ音声のように聞こえるから、人間らしい発音とは断言出来ないけれど。




 部屋を出た。

 まだ窓を叩く音が聞こえる。

 部屋の電気は消さないし、廊下の電気は点けない。

 光が灯ってしまえば、僕が移動している証明になりかねない。




 階段を降りた。一階に到着する。

 ここまでくると、注意深く耳をそばだてないと音が聞こえてこない。

 だが、まだ窓ガラスを小突く軽快な音を感じ取れる。

 あまり時間をかけると、窓ガラスを割って部屋に飛び込んでくるかもしれない。

 そうすれば、ここまでの努力もすべて台無しだ。

 全身を覆う悪寒に身悶えつつ、僕は忍び足で勝手口へと急ぐ。




 辿り着いた。

 勝手口の扉に備え付けられた曇りガラスからは、屋内の暗がりとは違った薄明るい闇が差し込んでいる。

 音はもう聴こえない。僕の部屋とこの場所では距離がある。

 奴が気付いていないことを願うしかない。


 怖い。だが、ここで逃げなきゃ死ぬだけだ。

 僕はまだ死にたくない。

 母はまだ生きている。父が殺されて以降、女手一つで僕を支えてくれたあの人に、ろくに恩返しもできていない。

 祖父母だって来てくれる。記憶はおぼろげだが、子供の頃からあの人たちにも世話になりっぱなしだった。


 死にたくても、死にきれない。

 あのよくわからない存在に、状況もよくわからないまま、勝手に殺されるなんてまっぴら御免だ。

 逃げてやる。逃げきってやる。

 近所の神社に逃げ込むべきか、交番に駆け込んだ方が良いのだろうか。

 いや、今ここで悩んでいる暇はない。

 まずは、この家から離れるべきだ。



 ドアノブに手をかける。

 夜の低い気温に晒された金属は、思わず顔をしかめてしまうほどの冷たさだ。

 だが、これを乗り越えれば、この扉さえ開ければ、大丈夫だ。

 僕は逃げる。逃げおおせてやる。



 握ったドアノブをゆっくりと捻り、音を立てないように扉へと体重をかける。

 野外の冷たい空気が吹き込んで来た。

 外だ。この澱んだ空気が密閉した空間から、ようやく出れる。


 どんどんと、外の景色が広がっていく。

 視界の左側から始まって、右方向へと拡大されていく。




 そこで、気が緩んでしまった。

 気が緩んだ結果、今まで忘れていたことに気付く。


 僕を取り囲む視線が、消えていない。

 外への扉を開きかけた今もなお、全身に視線を感じる。


 いや、今だけじゃなかった。

 部屋を出た時も、階段を降りている時も、一階をゆっくりと歩いていた時も、ずっと見られていた。


 この視線は何だ?

 窓の外の奴と何か関係があるのか?

 だったら、僕が裏手から逃げようとしているのも把握されているのか?



 しかし、一度体重をかけてしまった扉は、そう簡単に戻らない。

 一瞬の気の迷いでは、既に開いた外界の景色が消えるわけではない。


 扉が90度近くまで開き、僕の視界を家の外が埋める。

 星一つ見えない漆黒の天井が、どこまでも広がっている。

 住宅街らしさのある、コンクリートの外壁やら電柱がひしめき合っている。

 その中央には––––––––––––






「……脚、いるかぁい? いらないかぁい?」





 老婆がいた。

 父が死んだ日、インターホンに映っていた、あの老婆だった。

 カビ臭い古着をまとい、右手のノコギリは街灯の光を鈍く反射している。

 僕の顔を凝視して、下卑た笑みを絶やさない。

 きっと今の僕の顔は、それほど無様な顔をしているのだろう。



「––––––だ、だれか」

「……んぁ? なんだってぇ……?」


 無意識に、唇が開いて、喉が鳴って、舌が動いていた。

 それは、僕がいつからか言えなくなった、あの言葉だった。

 誰もどうにもしてくれないだろう、この状況で、やっと僕は––––––




「誰か、助けてくれ…………」


 やっと僕は、誰かに助けを求めることが出来た。












 最大の誤算は、その言葉に応えてくれる存在が居たことだった。

 僕と老婆の間に割り込むように、巨大な頭を持った人間らしきものが現れる。



『く、苦、車を、苦ル魔を降りようとする、すると––––––』

『20メートルく、喰らい、くらい先の草むらから––––––』

『頭がやたらと大き、大きい人間、ん、が出てきた––––––』



 しかも、複数。

 一つは老婆の胴体に咬みつき、一つはノコギリを歯で受け止め、もう一つはそれらに付随するように飛びかかる。

 全員の目が真っ黒になっていて、まるで眼球を有していないかのようだった。

 でも何故か、あの老婆に対する敵意だけは、傍からでも感じ取ることができる。


 僕は呆然と見ていることしか出来なかった。

 あの頭でっかち人間たちの喋り方は、僕の部屋の外に現れた奴と一緒だった。

 でもまるで、この状況だと、老婆から僕を守ったような––––––




「––––––なんだてめぇらあぁっっっ!!!」



 老婆が狼狽し、疑問を叫ぶ。

 その言葉に答えたわけではないのだろうけど、頭でっかちの一人が口を開いた。

 ラジオ越しに聞いているかのような、ノイズがかった、しゃがれた声色だった。




『……な、なっていたと、思うのが、が、“”、に、成って居た』

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