朝日が沈むとき

泉小太郎

1・夢

いやな予感がするの」

 と真由まゆは答えた。

 巫山戯ふざけているかのかと大松陸おおまつりくは一瞬思ったが、真由の顔つきが真剣そのものだったからどう反応するべきか戸惑とまどった。

 早朝の、台所である。

 妻の真由が用意してくれたトーストを陸が半分ほど食べたときだ。

 やや遅れて向かいの席に座った真由が突然こう言った。

「今日は家にいてほしい」

 突然のことだったから理由を尋ねたところ、返ってきた答えが、


 厭な予感がする――。


 だったのだ。

「予感って言われてもなあ」

 さすがにそれで休暇を取るわけにはいかない。といって、真由の訴えを無碍むげにするのも悪い気がした。幸い、家を出るまでにはまだ時間がある。陸は少し付き合ってやることにした。

「どうしてそんな予感がするわけ?」

「夢を見たの」

「夢? どんな?」

「ほら、大貫おおぬきさんって人いるでしょ、あなたのお友達の」

「ああ」

 中学生時代、陸はサッカー部に所属していた。大貫は、そのときの後輩だ。

 大貫がどうしたんだと陸が尋ねると、大貫さんが鏡を持ってたのと真由は答えた。

「鏡?」

「そう。うちの玄関に掛けてある、あれ」

 陸は玄関の壁を思い浮かべる。たしかに玄関には、外出の折りに身だしなみを確認するための鏡が掛けてある。

 ふうん、と陸は鼻から息を抜いた。それで、と続きをうながす。のよと真由は答えた。

「落ちた? 何が、どこから」

 真由はテーブルに肘をついて、髪をむしった。

「夢のことだから私もはっきりとは覚えてないんだけど、鏡を持った大貫さんが落ちていったの。どこからどこへなのかはわからないけど、落ちていったって認識だけはあるの」

 たったそれだけのことか、という言葉が喉元のどもとまで出かけたところで陸はそれを飲み込んだ。かわりに問いかける。

「それで、厭な予感がすると思ったの?」

 そう、と真由は頷き、それから、あっと声をあげて口を丸く開けた。

「今、たったそれだけのことでって思ったでしょ」

 本心をかれて息が止まる。陸は珈琲コーヒーを一口飲んで動揺を隠した。

 それだけじゃないのよと真由が続けた。

「同じ夢を、ここ一週間くらい毎晩見てるの。おかしいでしょ」

「一週間も」

 そこまで連夜となるとさすがに尋常ではないと陸も思う。

「だけどさ、夢に出てくるのって大貫と鏡だけなんだろ? 俺は出てきてないんだよな。だったら、もし良くないことが起きるんだとしても、俺には起こらないだろ。なんで俺に悪いことが起きると思うんだ」

「鏡よ。あれはうちの鏡だもの。あなたか私に何かが起きる暗示だと思うの」

「俺か真由に、か。じゃあ、もし俺じゃなくて真由に悪いことが起きるんだとしたら、どうやって防ぐつもりなんだ」

「だから、私は今日は外出しないって決めてるの。必要な食材はもう冷蔵庫に保存してあるから、そんなに外出しなくてもいいの」

 陸は腕組みをして鼻から息を抜いた。時計を見ると家を出る時間が近づいている。このままでは遅刻だ。

「じゃあ、こうは考えられないか? 悪いことが起きるのは家の中で、外出している方が安全だ――」

 真由は上半身を起こして首をひねった。ほおに手を当てて、ううんとうなる。

「そうかもしれないけど」

「じゃあ、今はそう思おう。それに、本当に何かが起こるんだとしても、今日のこととは限らないだろ」

「そうかもしれないけど」

「もう時間だから、取り敢えず今日は仕事に行くよ。真由も、あんまり気に病まないようにしろよな」

「でも――」

「俺もなるべく、早く帰ってくるようにするから」

 まだ食事は残っていたが、陸は早々に席を立ち、玄関口へ向かった。真由も後からついてくる。

 陸は靴を履き、壁にかけてある鏡を見て髪を直した。

「じゃあ、行ってくる」

「気をつけてね」

 心配しているというより、不満げな口調で真由はそう言った。

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