第3話 妃の詭弁と無慈悲な剣仙
――――北異族。北部に暮らすものたちはかつてその名を聞いて震え上がったという。彼らを敵に回してはならない。
それほどまでに恐れられ、そして北部ではなくてはならない存在であった。
彼らが味方であるうちは、襲い来る北部の厳しい自然からも、狂暴な獣からも守られる。
だからこそ帝国も代々私たちに北部の自治を認め、北部の人間の領域を守らせた。
長らく私たちは北部の守りを務め、中央である帝都に誘われたとしても靡くことはなく。北部の戦士たちの強さは未知数であり、時の皇帝がどれだけ望んだとしても首を立てに振ることはない。そしてそれだけの武力を持っていた。
それでも北部にとどまったのは……その力を存分にふるえる場所でもなければ、ひとは……私たちをひどく恐れるからよ。北部の民が私たちを怒らせないことで、私たちの力で守られた平穏を手に入れられる。そうでもなきゃ……単に強いだけの恐ろしいものだ。
でもそんな中、ある日突然北部を出ていってしまったのが、恐らく今この帝国でほかにかなうものは誰もいないのではと言われる皇帝陛下の懐刀。
「ふっはははははっ!これはまた愉快だねぇ」
パチパチと手を叩きながらおどけた調子でやって来たその姿を見て、思わず『げっ』と声を出しそうになった。
しかしその隣にほかにも腰に双剣を挿した武官がいたことでぐっと言葉を呑み込む。
「お久しぶりです、グイ兄さま」
史上最狂恐怖の大魔王とはこの兄のことを言うのではなかろうか。苛烈な赤い髪に翡翠の瞳。エイダの髪が少し色素薄めになっただけで、本来のうちの系譜によくある赤である。
そしてこんな恐怖の大魔王お兄さまの隣にしれっと立つのは黒髪に茶色の瞳を持つ青年だ。この兄の横に普通に立つ時点で……ただ者ではない……?し、失礼のないようにしないと……!ことと場合によってはグイお兄さまによる被害者の会会員になってくれるかもしれない人材よ……!気張れ、私!
「やぁ、久しぶりだねぇ。我が愛しの妹よ」
機嫌損ねることしたら平気で妹の首を刈ろうとするくせによく言うわ!ほんと……エイダが駆け落ちしてくれて良かったのかもね。この兄とエイダの相性は最悪だ。むしろだから逃げたのかもしれないが。
「それで……?もう仲良くなったのかな?先帝の残り物なんぞと」
ひぃっ!?目が笑ってないっ!!
しかも先帝陛下の残り物……?この兄が皇帝陛下の妃に関して【間違い】を言うはずもない。そんなことを言えばこの兄が大好きな皇帝陛下の沽券に関わるもの。
つまり
先帝治世の晩年ならともかく、そうじゃなかったら彼女は一体何歳の頃に……?
ともかくエイダが成人するまで待ってくれた現帝陛下は良心的だと言うことだ。
そして彼女は現帝の妃として下げ渡しされたわけではない。現帝の妃にはなっていない。
さらに現帝陛下大好きなグイ兄さまが【何でこんなのと仲良くしてんの?死にたいの?】見たいな恐怖の笑みを向けてくるってことは……!
それが今の
「へぇ……?お前これ飲んだの?」
そして兄もまた北異族に変わりはない。私が気が付いたそれに目ざとく気付き、蓋を開けて湯呑みの中を確かめる。
「まぁ、出されましたので。せっかく出してくれたお茶を飲まないと言うのも失礼ですから。それに私たちには効かないでしょ?」
「はははははっ。確かにそうだ」
丈夫すぎるこの肉体は中まで丈夫だった。ちょっとやそっとの毒くらい平気で消化するのが私たちよ。まぁ冬食べるものの少ない北部では普通の民も毒草だろうと構わず食べるけど、その際毒を中和するものを共にとる。その知恵を与えるのも私たち。
そしてそんな私たちの丈夫さと知識の深さを知っていた
一方でそれすら知らないのが……。
「うぅ……私にこんなことをして……っ」
ま、本気で蹴り飛ばしてはいないから、何とか復活したようね。
しかし腫れた頬で私を見上げた女官が兄の姿を見て固まる。まるで恐ろしいものを見たとでも言わんばかりの顔だ。やれやれ、どうやらこの兄を恐ろしいものだと分かるだけの本能は残っていたようだ。
兄は北異族と言うここでは珍しい存在だし、さらには帝国の剣仙と恐れられる存在だ。まぁ【仙】とは【達人】と言うような意味である。しかし私としては……魔王である。
その上、現帝陛下のためなら何でもやりやがるサイコよ。まさかとは思うが、後宮でのお掃除にも参加していたのかしらね?いや、確実にしてるか。今もこうして来たのは……。
「そ……そこの無礼な蛮族が……!帝国の貴族の私を……っ」
あ……。あ――――……。まさかここまでバカだとは。やはり先ほど訂正しておくべきだったかしら?でも先に喧嘩を売ってきたのはそっちよ?
私には責任はないわよ。やっぱり人間としての本能、残ってなかったのかしら。
「蛮族……?それってセナのことかな?」
兄が私の名を呼び捨てで呼んだことに、女官が首を傾げる。
兄が宮に入ってきた時にはまだ意識が戻っていなかったから、聞こえてなかったのね。でも大事なのはそこではない。
「センも俺と同じ北異族だからねぇ……」
兄がすたすたと女官に足を向ける。そして女官の顔すれすれに壁にドンと靴を押し当てる。
「北異族を蛮族呼ばわりするなら、お前殺すよ?」
このサイコ兄を怒らせないコツ。
・北異族を悪く言わない
・現帝陛下の悪口を言わない
・この兄の食事に手を出さない
の、3点である。
この3つを破ったら最後、本気で殺意向けてくる。特に真ん中のやつは確実に首をはねてくる。まぁ女官に教えてやる義理はないけど。
「それで……?」
しかし先ほどの恐怖の殺意をけろっと消し去り、兄がにっこりと笑んで私を振り返る。
いや、違う。
兄が向かったのは……
「先帝の残り物が、陛下が迎えた妃に手を出すとは」
「……ひっ」
「自分が捨て置かれた理由を知らないとは言わせないけれど?」
出家や粛清対象にならず、皇子もいないのに未だにこの後宮に残されている彼女。
現帝陛下は彼女を妃として受け入れることもしていない。
彼女は……処分を待たされていた。そしてボロを出したその時、粛清が始まるのだ。
しかしどうしてそこまで彼女を……?彼女が何をした……?いや違う、彼女を後宮に入れるように手配したものが、何をした……?
理由は明白だ。主民族を臣民として優遇し、西異族を賤民として不当に扱った。だからこそウーウェイたちもその不当な扱いに耐えられず北部に逃れてきたのだ。
現帝陛下は彼女をこの後宮に入れるように手配した大元の有力者を失脚させるために、彼女にボロを出させたのだ。
しかし彼女が後宮に入ったのは多分……西異族たちを押さえ付けるための人質だ。彼女の名を奪い自由を奪い、人生を奪った。
その見張りがあの女官である。
「おめでとう。お前は見事に役に立ってくれた。最期はせめて苦しまずにひとたちで首をはねてあげようか」
兄がそう述べ剣を抜きさる。
「……ひぅっ」
ガクガクと震えて涙をこぼす彼女が……一体何をしたと言うのか。何故彼女がそうならなくてはならなかった?
「グイ兄さま!」
気が付いた時には足が動いていた。ウーウェイがあちらであちゃーと頭を抱えている。分かるわよ、ウーウェイだって兄さまの恐ろしさをよく知ってるはずだもの。
「セナ……あぁ残念だ。俺の邪魔をするならお前ごと殺すよ?」
口元は弧を描いていると言うのに、目はどこまでも冷酷な色を映す。本当に、本気で妹の首をはねようとする時までサイコスマイルなのはどうかと思うわよ。けど……この場で動けるのは私だけだもの。彼女は……ここで死ぬべきじゃない。だって……名前も自由も人生も奪われて最期はって……そんなの悔しいじゃない……!
「兄さま。ひとつ確認させて欲しいのですが」
「何かな?最愛の妹だ。兄として死ぬ前の我が儘のひとつやふたつは聞いてあげよう」
なーにが最愛の妹だ……よ!本気で首をはねようとしてるくせに!
「彼女は
「そうだが?それが何かな?」
「それなら……っ」
震える彼女の手首を掴む。
「……っ!?」
驚く彼女だが、私がガシッと兄の剣の刃を掴んだことでさらに目を剥く。
「何をするつもりかなぁ?」
「やだわ、兄さまったら。先ほど我が儘のひとつやふたつ聞いてくれるって仰ったじゃないですか!」
ギシギシと血が滴るが気にも留めず剣の刃をガッと彼女の手の甲に押し当てる。
「……は?」
さすがの兄さまも驚きで目を見張っている。
この際どちらの血か……なんてのはどうでもいいのよ。形式的なものなのだから。
「先帝妃範梅花は死んだわ」
「……はぁ?」
ふふふっ、グイ兄さまの貴重な表情がたくさんね……!これは後で一番上の兄さまに自慢しなくてはね。
「彼女は
私が問いかければ、彼女は驚きつつもゆっくりと名を紡ぐ。
「……リーミア」
主民族の音には存在しない音が紡がれる。
「ここにいるのは
にこりと笑んでやった。
どうだ……!見たか!
「……ふふっ、ハハハハハッ」
兄さまが思わず吹き出す。
「何をやり出すかと思えば……お前も考えたねぇ……?」
兄さまが冷酷に嗤う。そんな……ダメ、だった……?運が悪けりゃこの場で2人まとめておじゃんである。せめてウーウェイくらいは逃がして欲しいのだけど……この兄はそんなに甘くない。マジの魔王だから。
「後宮に入った時点でそれは
あぁ……やっぱりこの魔王兄を攻略するなんて……無理だったんだ……。
「だが死んだのだろう?お前の剣に付いた血がそれを証明している」
しかしそこに冷静に響いた声にハッとする。
この場にずっといた……恐ろしいほどに静観を決め込んでいたその声の主に。彼は……ただ兄の下す処刑を傍観していたのではないのだ。
「ならば処刑の必要もない」
「……っ」
彼の言葉に兄さまが剣の刃を鞘に納めたのだ。え……っと……こんなのって……。兄さまを従わせることのできるひとなんて……?そんなお方なんてひとりしかいない。でも彼の瞳は……皇族のそれではない。
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