第5話 スイセン

 しとしと降る雨音が、すっかりお馴染みのBGMになってきた。朝ごはんを食べた私は、広場に出て円形ロボットの活躍を横目で眺めた後、雨粒のついた窓の外に目をやった。遠くの山脈には雪がまだ残り、空は灰色で、木の芽にはわずかな膨らみが見てとれる。


 異常なし。


 次は丸目玉の巣穴に向かい、寝ている体の上に登る。全く起きる気配がないので、顔を何度か押してやる。


 しょうがないなぁ。


 ママと鳥声とヒゲが早起きなのに対して、丸目玉はいつもなかなか起きてこない。逆に夜はうまく寝付けないらしく、何度もエサ場に水を飲みにくる。まるでフクロウみたいな奴だ。そんなに眠いなら朝はゆっくりすればいいものを、複雑な事情があって、そういう訳にもいかないらしい。毎日のように、「ガッコウ」なるものに向かって慌てて家を飛び出していく。なんとも気の毒だと思ったところで、そっと手が伸びてきた。


「クキ、おはよ。」


 丸目玉を起こした後は、ママを探しにいく。今日はエサ場におらず、既に鳥声が一人でパンケーキを食べていた。鳥声は私と目が合った瞬間にサッと立ち上がり、頭を軽く撫でる。

 いま君と遊んでいる時間はないのだ。

 私はぷいと体の向きを変えて、来た道を素早く戻る。


 ママは一体どこだろう、地下だろうか。階段を降りて左手に曲がると、ママは四角く大きい箱に今日もせっせと洋服を詰めていた。ガタガタという強い揺れの後に、勢いよく流れる水の音。時折高速で何かが動くような気配もあり、この大箱は私にとって不気味な存在だ。服入れ競争に夢中で全然気づいてくれないママの注意を引くため、私は手でトントンと知らせた。

「あ、クッキー、そこにいたの。タクを起こしてくれた?」


 作業を終えたママについて階段を登ったら、私はエサ場でミルクの支給を受ける。いつものように小皿に数滴の分け前…この一杯のために生きているのだ。私はおやつと同じくらいに、朝のミルクが好きだった。


 ここまでは、いつもの朝だったのだ。


 フラフラとエサ場を出ると、いつもと様子が違うことにすぐ気がついた。ミルクの余韻に浸っていた心地よい空気が、すぐさま硬く凍りつく。全身に電気のような緊張が走り、私は足を止め、耳に全神経を集中させる。


 異常あり。


 全く気配はない。

 一歩、そしてまた一歩と近づく。永遠のように感じる一瞬。体の軸を一定に保ち、腰を低く落とし、首輪の鈴を微動だにさせず、また一歩近づく。

 ついに目の前まで来た。


 鳥声の巣穴が、ぽかんと大きく口を開けて私を待っている。


 鳥声が五匹くらいは入れそうな広さで、入り口の横には私が飛び乗れそうな高さの本棚があり、足元には大量のちぎられた小さく白い紙や、乾いた香りのするさまざまな植物の種が雑然と置いてあった。部屋の奥には、程よい高さに鳥声の寝床がある。あたりはシーンと静まり返り、自分の心臓の鼓動が次第に速まるのがやけに大きく響く。脳内には情報が大きな渦を巻き始め、うまく匂いを消化できない。


 その時だった。本棚の上から微かなカチカチという警告を発するような金属音とともに、短く速い息遣いが漏れてきた。不意を突かれて雷に打たれたように身がすくんだが、後ろ足が何かを考えるよりも先に反応し、私は鳥声の寝床の陰に素早く身を隠した。


 本棚の上にはきっと何かがいる。私の中で確信が芽生えた。


 正体が気になる。好奇心に煽られて思わず匂いを嗅ぎたくなるが、不安に押しつぶされて息を潜める。しばらく気配を殺しているが、今のところ何かが向かってくる気配は微塵もない。その瞬間、再び漏れ聞こえてくる短く速い息遣い。私よりずっと速いテンポ。それは、未だ本棚の上に君臨しているように思えた。


 再び訪れる、何事もなかったかのような静寂。この「何か」によって、まるで自分の存在が浮き上げられているようだ。


 耳をできるだけ高く張り、必死に音を探す。一切の思考を停止し、私は来るべき時に全力で備える。そして、地下からガタガタと大箱の喚きが響いた瞬間、足は音もなくパッと地面を蹴り、私はいつの間にか鳥声の巣穴から追い出されていた。


 足を止めて後ろを振り返りたい私をよそに、私の足は一気に広場まで体を連れてきた。窓辺に腰を落とし、大きく肺を膨らませると、しばらく呼吸を忘れていたような気がした。蜘蛛の巣がひとつ、ふたつ…

 気持ちを落ち着かせようと、目を閉じて雨音に耳を澄ませるが、「カチカチ、フッフッ」という音が幾度となく頭の中を駆け巡るだけだった。


 この家には、鳥声の巣穴には、何かがいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る