クッキー

すずのすけ

第1話 プルメリア

 満天の星空。どこか涼しげな風に、プルメリアの香りが運ばれてくる。


 ゆっくりと腕を前に置き、筋が伸びるのを確かめるように指先を広げ、背中が自然と反り返り、重たかった体が少しずつほどけていく。ふぁ…っとあくびをしながら舌を出したところで、私は周りに誰もいないことに気づいた。


「…ママ?」


 今度は、海の奥底から届くような、しっとりとした塩気。


 私は何かに引っ張られるように、ゆっくりと前へ。

 遠くに波の音と鳥の羽ばたきが聞こえる。異常なし。

 なにかが、薄ぼんやりと周りを照らす。

 頭の中は空っぽになり、小走りでさらに前へ。

 近くで何かがポトンと落ちた気がして、息を止め、じっと耳を澄ませる。

 重なり合う虫の声。気のせいかもしれない。それよりも、大事なことがあった。

 相手は動いていない。あと十歩くらいの距離だろうか。

 足先に微かな凹凸を感じながら、切り離された闇の中へ。


 無風地帯にたどり着いたその瞬間、背後にカーテンが降りた。

「ママ?」


 ふわりと宙に浮いた後、何度か鋭い音が全身に響きわたり、小刻みな振動が背筋を繰り返し貫く。止まらない揺れに心臓が押し潰されそうになって、うまく口が開かない。

「…」


 時折、前後左右に飛ばされそうになりながら、揺れは続く。

 私の頭と体は繋がっているのだろうか?体がいうことを聞かない。

「……マ」


 冷たい音が軽やかに、絶え間なく鳴り響く。

 まるで全方位から追い詰められている気分だ。

「マ…」


 時折、轟音が横を過ぎ去っていく。

 揺れる光と、ふいに消えては現れる影が、猛スピードでダンスする。

「ママ…」


 どんなに全身に力を込めても、震えは止まらない。

 そして、永遠とも思える時間の後に、急に静寂が訪れた。

「ママ?」


 ここは少し冷たくて、全てが整ったような匂いがする。その奥にほんのりと、全てが混ざり合い散らかった気配を感じる。こんな状況でなければ全身を投げ出したくなるような柔らかい包みに、私は半分だけ体を寄せた。

「ママ…」

 やがてゆっくりした動きの人が現れ、そして鋭い何かを持つ人がそれに続く。二人がいくつか言葉を交わした後、私を押さえつけ、顔の周りで明るい光がチカチカして、あっという間に目の前は真っ白になった。驚くまもないうちに何かで口をそっと開かれ、思わず強く息が漏れる。

「マ…」

 そして、ほんの少しの間、背中にちくりと痛みがあって、それはふとどこかへ潜って消えてしまった。 


 その後、私はまた別の小さな空間に入れられた。ここがどこなのかはわからない。

 新しくて整った匂いに、自分の匂いが邪魔者扱いされているような気がして、どうしても落ち着かない。柔らかい包みに身を委ねながらも、まるで自分はここにいてはいけないと言われているように感じた。

 ゆっくりした動きの人が現れては、何かを呟き、心配そうに外から私を見つめ、ごはんや水を置いていく。昨夜から何も食べていないことを思い出したが、周りに注意を払うのも面倒になった私は、そのまま目を閉じることにした。


 水の音で、目が覚める。いつものように体を伸ばし、見たこともない不思議な場所にいたのを思い出す。どうやら夢ではないらしい。

 どこか近くでほんのりとごはんの香りがする。そして、聞き覚えのあるハタハタ、無機質なカチャカチャ、かすかな低い唸り声、壁の向こうのいくつかの足音。

 今日もゆっくりした動きの人が現れ、昨日と同じごはんを運んできた。「クッキー」と聞こえたような気がしたが、定かではない。ゆっくり動く手からはごはんの匂いがして、その温かさが手のまとう空気ごしに伝わってくる。

 誰かが動くたびに、柔らかいものが擦れる音がわずかに響いて、それはどこか寂しそうに空気の中に溶けていく。

「ママ…」


 いったいどれくらいの時間が経っただろうか。

 知らない場所なのに、この手の香りだけはしっかりと覚えた気がする。それに、私たちには秘密のおまじない、「クッキー」があるのだ。

 ゆっくりとした人は、私のことをどれだけ知っているのだろうか。肩を上下に伸ばしながら、聞いてみた。「ママはどこ?」

 ゆっくりした動きの人は、それには答えず、代わりに「いい子、いい子」と穏やかに唱えた。さらに、私を優しく持ち上げると、ごはんの香りで包み込み、「クッキー…」と何度も何度もゆっくり繰り返した。私は、その寄り添う音色に、どこか遠い場所で何か温かなものが待っているような気がして、お決まりの合言葉を返した。


「…クッキー!」

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