憐れみの獣

畦道 伊椀

憐れみの獣

 つらい記憶を引きずったまま、気がつけばこんなところに来てしまった。森の中なのだろうか。もはやどうやってここに来たのかも覚えていない。どうすればここから帰れるのかさえも。


 夜だった。見えもしない闇に手をのばす枝々の影が、夜に消失して出来た虚空を、霧がゆったりと行き来する。どこからか聞こえてくるのは清水の流れる音。胸に空いた渇きを掻きむしり続けて、もう久しい。清らかな潤いを求めて、その水音に追いすがる。見つけたのは、黒々と泡を立てた川。夜が移ろうような水面。


口づけするようにして、その深い淵に身を投げた。

 

 漆黒の水の激流。子供に振り回されるヒモつり人形のように、もみくしゃになる私。しまっておいたはずの思い出が、一緒にこぼれ出てしまう。

 

 それは、いつかの夏の日の思い出。暑い昼下がりの1LDK。かいた汗と一緒に溶けてしまいそうになる、そんな熱い交わり。涼しい夕方を迎えると、いつも決まって、自分の夢を嘯きはじめる彼。まだ熱いその胸板に頬を埋めたまま、私はそんな夢物語をきくのがなにより好きだった。夏の夕暮れは束の間なのに、このまま永遠に彼と一緒にいられそうな気がしたいつものこと。


 だけど、それは私の中だけの物語。

 

 バンドマンとして売れるようになった彼は、気がつけば私を捨てて、他の女と一緒になった。結局、売れるまでの食い扶持と性欲処理に使われただけなのが私。いつもお金を無心してくる彼の愚痴を、親友によく聞いてもらっていた。彼を私から奪ったのは、その親友だと思ってた女。


 流した涙が払われる激流の最中の、死にかけの走馬灯。弾丸のようにかすめたり、太陽のように昇ったり、靄のように佇んだり、星々のように巡ったり、ビーズのようにこぼれたりする記憶たち。悲しい、嬉しい、辛い、楽しい、憎い、虚しい、一緒にいたい、殺したい。そんな思い出を眺める私の隣に、気がつけば『誰か』がいた。かくいう私は、私自身の記憶について、今までにないぐらい素直になれていた。それはその『彼女』がいたからだ。隣に、その彼女がいたからこそ、私はこんなにも思い出に素直になることができたのだ。


 「辛い思い出だっただね。」気がつけば『彼女』は『彼』になっていた。隣にいたはずが、今度は私とむかいあって。彼の腕は私の目の前に明け開かれている。気がつけばその腕に身を投げていた私の思い出は、もっと色濃く鮮やかに、その彼の憐れみと一つになった。私が胸に投げ打つ記憶を、ただ感じてくれるだけの彼。彼に癒されて、絆されて、温かくなり、熱くなり、もう彼と一つになって、全てを終えてしまいそうになる。


 その時、鳴り響いたのは、一発の銃声。



「『憐れみ』の獣に魅入られてしまったな、お前。」

 倒木の根方に座るっているのは、軍服姿の青年。その広い肩には軍用ライフルがかかっている。人を殺せる黒々とした銃身が堂々そこでくつろいでいた。森の底で生い茂る苔。そこに寝そべっているの私を、まぶかに被った軍帽から深い目で見下げていた。

「まあ、いいさ。ここに迷い込んだものは、みんな同じようなものだ。」

青年は根方から立ち上がり、何かをこちらに投げた。

「拳銃?」それを見た私。

「そうだ。もとの世界に戻りたいならば、お前は『憐れみ』を殺さなければならない。」



 湖畔、いや、それにしてはあまりにも広い水辺。海だろうか?分からない。

「『憐れみ』はこの森に住む美しい獣だ。」

もやいだともを解いて、無限にも思えた海原に彼の舟は漕ぎ出していく。永遠の水面が静かに割れる。みよしに和らいで波立つ。その様子を、私は、湖畔から突っ立って眺めつづける。青年は、ただ一人舟に乗って、水上の深い霧に消えいった。


 私と、ただ一つ『憐れみ』にまつわる言葉を残して。


「それは、美しい少年、あるいは美しい少女の姿をしている。憐れみは人間への共感を糧にして生き、そして死にいたる獣だ。憐れみに魅入られてしまった人間が、本当は感じていたかった自分の気持ち。楽しさでも、嬉しさでも、怒りでも、悲しみでもいい。それらの感情を、持ち主であるその人間以上に受けとめて、感じ入ってくれる。人間様が後生大事に生きるために捨てた感情を、代わりに引き受けて感じてくれるというわけだな。

 

 人間の方では、自分が捨てたはずの感情を、憐れみがともに享受してくれることに歓喜する。憐れみと一つになりたいとねがい、また実際、最後には一つになってしまう。本当に憐れみと一つになってしまえば、もう憐れみと一つになれた全能感以外は何も感じない。此彼の境を通り越したすえに、憐れみとともに死にいたる。


 だがそんなもののために、憐れみという雅な獣を殺してしまっていいのだろうか?そんなことで憐れみを殺すぐらいなら、いっそ憐れみのことは、人間の方で、銃で撃ち殺してしまった方がいい。そうすることが、正しい答えなのかと言えば、俺にはよく分からない。だが、この森の管理を任されているのは俺だ。俺が思うようにしていいし、半ば俺が思うようにするしかない。だから、お前は俺の言う通り、憐れみを殺せ。たとえそれによって、お前が安らぎから永遠に切り離されて生きていくしかなかったとしても、お前は俺のいうことを聞いて、憐れみを殺さなければならない。

 

 そうしなければ、お前をもとの世界に返すことはできない。そう決めたのは俺だが、これは一度決められた決めごとだ。一度決めたのならば、その決め事は、簡単に覆してはならない。たとえ、そう決めた本人であってもだ。」



 意味深いだけでよく分からない言葉が、湖畔にとり残されただけだった。あとのことは何も分からない。

 一方で、取り残された私は、もとの世界に帰りたいというわけではない。かといって死にたいのかと聞かれれば、そうでもないと答えるだろう。だが、生きるという言葉からは、もうずいぶんと遠くへ来てしまった。もちろん、自分の死に方に、他人を巻き込む気はさらさらなかったのだが、この美しい森のどこかで死ねるならば、私なんかが、もとの世界で生きていくよりも、ずっとましな死に方が出来るだろう。

「もとの世界でマシな死に方ができるかよ。」

それは私の独りごと。

「生きていけというのなら、せめてマシな死に方ぐらい用意しておけよ。」


 湖畔から翻り、森の中をさまよう。私とは違う時を生きてきた森がそこにはある。何者も鳴かない。ただ木々の息継ぎする音だけが深い。私や、私の歴史とはなんの関わりのない森。人間であることを尊重したり、あるいは何かの理由でしなかったり。そんな人間的な営みとは関係のない世界がそこにはある。この非人情な森に全て身を委ねることができれば、一体どれほどの救いか。だか、いっそそんな世界に身を委ねたくなるのも、人情と世間に由来するような、瑣事なすったもんだでしかないだろう。人間には自我がある。だから結局、何かを勝手に巻き込まずに死ぬことはできない。だがそれを言えば、何かを勝手に巻き込まずに生きることもできなかった。この裂け目を目の前にして、私はどうすればいいのだろうか。


(結論は出ている。)

誰かとともに歩めばいい。それは男でも女でも恋人でも敵でもいい。決して見つめ合うことはしないが、一定の距離を保ちつつ、なんとなく同じ方を見ながら、進む誰かが。

(そんな関係を、誰しもが持てれば、誰も苦労しない。)

そんな関係を自分に対しても作れないから、みんな人生というものに苦戦しているのだ。


 だだどこかへ行きたい。自分を取り巻く景色を変えたい。だが、新しい景色に出会っても、また次の景色が欲しくなるだけ。そんな風にして、景色を無限に重ねても、その彼方にあるのは、死。それが墓場の顎門を開けて待っている。死が向こうからやってくるのを待つぐらいなら、自分から、死に向かった方がいい。せっかくこんな美しい森に出会えたんだ。せっかくなら、ここで死にたい。


 森を彷徨う深い霧。それは木々の間を取り巻いている。まずはこの幹、次はあそこの幹に移ろう。そんなふうにして、森の中を進んでいく。どこかに向かっているようで、どこにも向かっていない感触が心地いい。いつも過ごしているあの一方行の時間から、解放されたような気がした。


 幹につかまるたびに、霧は何かを映し出す。私でさえ覚えていない、私の記憶。この霧は、私が前に進むために忘れた記憶を、私の代わりに覚えているようだった。


 最初は飴玉のような、愉快だが、ごくつまらない思い出が映し出されるだけ。だが彷徨えば彷徨うほど、映し出される記憶は、退屈で、必ずしも愉快な気分にはならないものになっていく


 不愉快なのに、見るのを止めなかったのはなぜだろうか。動画共有サイトなら、あっという間に飛ばしてしまうような退屈さと不愉快にまみれているのに、幹から幹へと映ることをやめられない。この森の時間がそうさせているのだろうか。いずれ自分が見ている記憶と、記憶を見ている自分の区別もおぼつかなくなってくる。そんな時から、とうとう彼に関わる記憶がはじまった


 ホテルから彼と親友が出てきたのを見かけたのは、たまたまだった。本当は、後ろかつけてやりたかったし、そこから、彼らの関係を調べ上げて、決定的な証拠を抑えて、それを彼女たちに突きつけて、「どうだ、参ったか」と言ってやりたかった。いい加減、定職につこうとしない彼を、見限ろうと思っていた頃だったし、親友に裏切られたことだけはショックだったが、彼氏のいいお払い箱ができるなら、二人の中を祝福してやることもできただろう。だが、到底そんな風にはことは運ばなかった。見かけたというよりも、鉢合わせしてしまったのだから。近道をしようとして、角を曲がったところをばったりと。早朝のことだった。丁度残業明けの職場からの帰り道。


 お互い、咄嗟の驚きの後には、長い沈黙。どちらかが何かを言わなければ済まない雰囲気。私は彼らに負けたくはなかった。だから先手を打ったのだ。

「ああ、久しぶりだね二人とも。二人って、そういう仲だったんだね、知らなかった。」

と、

「私も最近は仕事ばかりで、ヨウスケのことかまってあげられなかったからね。ヨウスケも、寂しい思いしてたよね。ごめんね、そんな心のスキマを、ナツコが埋めていてくれたんだね。バカだね、私。ナツコにヨウスケのこと話してる間に、ナツコもヨウスケのことが好きになっちゃったんだね。ヨウスケのことを好きになってもらえるような話でもなかったはずなんだけどなあ、私がナツコにした話って。」

二人とも幸せそうだね。

「でも、二人が幸せなら、私がとがめる理由もないね。最近じゃ、私もヨウスケに関われなかったし、ヨウスケも私に関わることなんてなかったよね。多分、いずれ自然消滅する雰囲気だったからさ、いっそこういう幕切れの方が、きまりが良くていいよね。」と私は満面の笑みを作っていた。

「俺、お前のそういうところ、心底嫌いだったよ。」

彼は吐き捨てるように言った。

もう、行こう、という彼の言葉とともに、私は追い越された。それからしばらくは、道端の石ころと並んで突っ立ったまま。


 彼はいつまでも売れないバンドマンだったはず。だが、私を捨てて親友とともに歩み出した途端、世間から脚光を浴びるようになっていった。私だけが愛しているつもりでいた、どうしようもない彼が、このうえのない魅力的なスターとして、世間に受け止められていく。彼が光輝く一方で、私は石ころの隣にしか立ち位置を見つけられないまま。あの日以来、彼と親友とは一切連絡を取っていない。それから、より一層打ち込んだ仕事。打ち込めば打ち込むほど、鍛え上げられていく自分の無力と無価値感。深夜のオフィスでただ一人残業する私。これは、私だけが知っているはず風景。森の最中に、まるで映画館の一番後ろの席から眺めているように見ていた。それはまるで人ごとのように流れていく

退屈な映像だったが、ただ一人、美しい少年が、最前列で食い入るように、それを眺めていた。



 彼と親友の幸せが、スクリーンいっぱいに映し出される。これは私の記憶ではない。こんなものまでこの森は知っているのか。幸せそうに、肩を寄せ合って、同じ景色を一緒に見ている。次の瞬間、彼らは目を合わせた。その表情は、真剣そのものだった。私の知らない顔をした彼と見つめ合う親友。彼の眼差しを真っ直ぐに受けとめる、彼女のあられも無い表情がそこにはあった。彼の前で、あんな裸の顔ができたことは私にはない。場面は暗い部屋に切り替わる。じんとするような彼の悲しみを、彼の下で受け止めつづける彼女。また翻って、彼一人の記憶。彼は母親に大切に育てられた。シングルマザー。貧しいが愛に溢れた暖かな電灯の下。そこで結ばれた指切りげんまん。「ママはね、ヨウスケのためだったら、いくらでも自分の時間を投げ捨てられるわ。だけど、その代わり、ヨウスケには、自分が本当に楽しいことにヨウスケに人生を使って欲しいの。」という母との約束。母の言葉。それ、いつしか彼の呪いになってしまったのだ。

 

 そこから初まる、彼の『本当に楽しいこと』探し。それに疲れ切った頃に流れてきた街中のメロディ。高校生の頃だった。初めて人前で披露した曲。既存曲のフレーズの間を縫うように抜け出てきた、オリジナルソングの泣かず飛ばずのリフレインを、熱心に歌い上げる彼の姿。それを涙を浮かべて見つめていた苦労人の母に、ステージの上の彼は気がついてしまった。涙まみれの母の笑顔に、彼は、やっと母が楽しんでくれることを見つけられた気がした。「いつか、満員のドームの観客を、俺の曲と俺の歌で沸かせるんだ。」と、あの嘘きはこのステージの上の台詞から生まれたものだったらしい。私は気にせずに、彼の胸板のうえで、その言葉に酔いしれるだけだったが、彼は人知れず、その言葉の重みにしゃがみ込んでしまうことがあったらしい。


 私のいない夜の部屋。カーテンを全て閉じ切って、じっとうづくまるだけの長い時間を彼は過ごしていた。見つめたフローリングすらコード進行に見えてしまう。泣かず飛ばずのリフレインが綴られていくのが止まらない。硬い冷たいコード譜の前で、苦しみ痛みつづける彼。そんな彼を救ってくれたのは、他ならぬ私の親友だった。彼らの出会いまでは分からない。だが、その滑らかに起伏する彼女の腹の上に迸った精を見た時、初めて彼は自分を包み込んでくれる、柔らかいコード譜の存在を知ったのだ。それからは雲を指さして、コードを綴れるようになった。夢のようなリフレインが空に立ち現れるのを見て、彼は初めて創造することを知った。長い研鑽だった。彼が楽しそうにフレーズを描く空を、親友は一緒に見上げていた。


 ああ、この光景は。あれから、残業続きで嫉妬に塗れた私は、こっそりと彼のライブを見に行ったことがある。今までよりずっと大きい建物。今までよりずっとたくさんのお客さん。私といた時よりも、ずっと輝いている彼の姿。彼はステージの上で夢中になって歌っている。私と付き合っていたときに私が愛した、どこかオドオドした彼の姿はそこにはなかった。

 私が知ろうともしなかった彼の魅力が、そこにはあった。引き出したのは親友だ。私ではない。結局、私はまた一人ぼっちのまま。子供時代の記憶が蘇る。「あんたのせいで、私は人生を諦めなければならなかった」「毎日毎日、くだらない男と酒を飲むが私の仕事だよ。だけど、お前もいずれ、こうなるんだ。」そう飲んだくれる母を尻目に、ひたすら勉強に打ち込んだ。いい大学、いい会社に入れば、きっと私の人生だって、明るい空に開かれる。「お前、優秀なんだから、これぐらいやっておけよ。」とまた上司に無駄な仕事を押し付けられる日常風景。「どうせ女は結婚したらいなくなるんだろ。女は楽でいいよな、家で子守りしてればいいんだから。」残業から帰れば、暗い部屋。壁に寄りかかった彼が子供のように眠っている。すぐそばには、フローリングに直置きになった安い酒缶。どうやら最近、ラベルが新しくなったみたいだ。古いラベルの時は、昔、母が飲んでいた。込み上げるものをグッと腑に抑えて、空の缶を拾ったのを覚えている。


 また場面は切り替わって、私の知らない彼たちの物語。彼らの幸福、不幸、幸福、不幸・・・・・・


 私の知らない彼らの物語。彼らを憎んでいた私の世界は、なんと浅はかだったのだろうか。ならば、彼らを許して前に進もう。今まで、そうやって私は前に進んできた。そうやって血肉を削いできたから、今こんなところに行き着いてしまったのだ。私の知らない、私の幸福、不幸、幸福、不幸・・・・

 クソみたいな気持ちなんて、我慢せずに吐き出してしまえば良かった。だが怯えた亀の頭のように、私の激情はいつも引っ込んでしまう。それは染み付いた幼少期からの習性だった。それは今になっても変わらない。だけど今、私のそばには、私にようには首を引っ込めたりはせずに、感情の激流に私の代わりに頭をさらしている存在がいる。『憐れみ』だった。今は美しい『少女』の姿をしている。色んな洋服をきた姿に、次々と変わっていく憐れみの姿。

 ああ、私はこんな洋服が来たかったんだ。体型や値段、社会的イメージ。その他諸々の理由で諦めていた私の姿。私以上に、存分に私を味わう彼女の姿がそこにはあった。こんなふうに、私が自分を味わえる日は来るのだろうか?いや、きっとそんな日はやってこないだろう。私は自分を決して味わえない。彼女のようには。だからいっそ、私のことは、もう彼女にあげてしまおう。そう思って、手にしていた拳銃の銃口を自分の頭に向けた。私はにっこり笑っていた。実際、今までになかったぐらい、私は幸せだったのだ。ようやく私は自分を捨てられる。あんなにしがみついていた私から、ようやく降りることができるのだ。

 そんな姿を見て、憐れみはとても悲しそうな目をした。その瞳に映った私の本当の姿。本来なら、ここに来る前に向き合わなければならなかった私の『影』。醜く角ばりながら肥大した骸骨。しゃれこうべに空いた眼窩がんかには、漆黒の夜天とそこをめぐる星々だけが映っていた。それが、あんな綺麗な憐れみの瞳に収まっている。そのせいでみるみる衰弱していく彼女は、骸骨のように痩せていく。瞳の中には、まだあの肥大した骸骨が入っている。そしてその目が徐々に変貌していく。そこには憎しみが映り始める。それは本当は私が背負わねばならない憎しみ。生き残るために私が捨てた、私自身のの生きた血と肉。削ぎ切ってしまったはずの、その肉が、ぷよぷよの脂肪となって、彼女の目から飛び出てくる。その肉は嗚咽する。彼や親友を羨ましがって、おいおいめそめそ泣いている。


 こんなのが、彼女の目に映った私なのか。

 こんなのが、私が、私に降りかかる感情を弔わずにいた顛末なのか。


 私は必死に生き抜いてきたのに。そんな必死に生き抜いてきた私の姿なのに、よりにもよって目の前の彼女にはこんな姿しか見せられないのか。ああ、なんて無為な人生だったんだろう。その虚しさに心底打ちのめされた。だが、そこでなら確かに虚しさに出会えたのだ。まるで樹木の木目を見つめるように、虚しさを捕まえることができた。この虚しさは真実だ。だが、真実は去来するものだ。真実はその一瞬しかつかめない。

お前は曲がりなりにも、今まで生きてきたじゃないか。だったら、その歴史を尊敬しろ。それは、その命が生きていきた過去を綴れるお前にしかできないことじゃないのか。それを決して憐れみに委ねるな。憐れみに汚い尻まで拭わせるつもりか。

私はこめかみに向けていた銃口を解いた。それをそのまま憐れみに向ける。その時、憐れみは微笑んでいた。悲しそうになきながら、微笑んでいた。


ああ、思い出した。

これが悲しいという気持ちだったな。


そして響いた、一発の銃声。



「この森は、『憐れみ』の獣の住むたった一つの森だ。」

軍服姿の青年の跡を追う。あの後、森の中まで、迎えにきてくれたのだ。今二人で向かっているのは、あの果てしない湖畔だった。

「ここに棲まう憐れみは、たくさんの夢を見る。それはもとの世界にいる人間たちが、生きるために捨てた感情の集積だ。いつ果てるともわからない、そんな堆積を、憐れみたちは夢を通して、ゆっくりと咀嚼し、飲み下していく。この営みが、一体いつまで続くのかも分からない。」

さあ、今度はお前がこのこの舟を漕ぐ番だ。

「漕ぎ出せば、早いうちに、気がつけば、もとの世界にいるだろう。」

それだけ言って、青年は私を船に舵に促した。


 ゆったりと水面が割れる。一つ、また一つとオールを漕いでいく。まっすぐと、自分が進む方だけを見ていた。森の方を振り返ることもない。


 この森が、教えてくれた多様な物語。楽しかった思い出、辛かった思い出、苦しかった思い出、憎かった思い出。人間が人間である限り、自分の思い出の全てを弔えるようになる日など、決してやってくることはないだろう。だが、そのようにしか生きられない人間の代わりに、『憐れみの獣』は、ここでたくさんの夢を見る。私の旅はまだ始まったばかり。どこに行き着くかも、どこで終わるのかも分からない。

 だが、まずは漕ぎ出して見ようではないか。この森のおかげか、憐れみの獣のおかげか、はたまた軍服の青年のおかげか、今日のところは、そう思えている。


終わり



【作者による解説】

 『紐に捨てられた女が、新たに寄ってきた紐のことはちゃんとちぎって捨てて、自らのあるべき尊厳を取り戻す話』ですね、ざっくりいうと。

二、三ぐらい前に書いた作品ですかね。いや、もっと前かな?覚えてない。思い出させてくれ、憐れみの獣。

 今までの人生で唯一出版物にして出した本ですね。正確には、組んだデータをネットの印刷屋さんに送って、できた冊子を送り返してもらっただけですけど。表紙と裏表紙はキャンバで作りました。とある仲間内のイベントでブースを借りて無料配布しました。ええ、赤字ですとも。冊子も大量に余りが出て、後で全部捨ててやりました。

 翌日、年上のマダムたちが「読んでないけど」と言いながら、小銭をカンパしてくれました。俺もあんまり言わなかったけど、赤字になるぐらいだったら、もっと恵んでくれっていえばよかった。

 赤字でしたが、身銭を切って出版物にて配布したのは良い思いです。小説執筆は金がかからないのが良いところですが、実際はかかっており、それが身銭で体験できたのはとてもよかった。カクヨムのシステム保守などもそうですからね。

 今回、また公開するに当たって、ほとんど手は加えませんでしたけど、『影』という言葉ははっきりと入れるようにしました。自分の『過去』と向かい合う必要はどこまであるかわかりませんが、自分の『影』とは向かい合う必要はやはりあるでしょうから。

 余談ですが、そのイベントでブースの売り込みもしました。オープンマイクに向かって、この小説の冒頭をみんなに聞こえる声で朗読しました。トラウマです。


お読みくださって、ありがとうございました。

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憐れみの獣 畦道 伊椀 @kakuyomenai30

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