13 温かい懐のような一隅で

 ナオが元の世界に戻ることと残ること、その選択に迷わなかったと答えたら、嘘になる。

 三年間、ナオは暴力と金と、時に愛増の混じる世界にいた。もちろんいい奴も気安い兄貴たちもいたけれど、そこは確かに真っ当とはいえなかった。

 まだ十八歳の少女に近づく者を脅し、彼女を監禁するボスの手足となって働いた自分。

 自分は真っ当な人間だと信じていた、中学三年生だった頃の自分が見たら、今の自分を蔑んだだろう。

 そんな自分をいつも心配そうにみつめていた誠也のためにも、自分はこの世界を出て行く方がいいのだろう。

 ボスと珈涼が一緒に暮らし始めたのを見届けた日、ナオは誠也を連れ出して時計店に来ていた。

「時計は一個あればいいだろ。まだ今の使えるし」

「だめだよ、約束だったからね。この仕事が片付いたら、誠也に腕時計を買うんだって」

「……まあいいけどよ、お前が満足するなら」

 誠也は文句を言っていたが、腕時計を眺める目はまんざらでもなかった。彼はスーツや持ち物にさほど執着を持っていないが、仕事中に腕時計をつけることは信条にしている。

 ナオはボスから受け取った給金で懐も潤っていたから、弾んだ声でたずねる。

「どれがいい?」

「そうだなぁ」

 誠也は真面目な顔で腕時計を眺めていたが、ふと目の端に笑いじわを寄せてナオを見た。

「ナオ、お前が選んでくれ」

 ナオにはその言葉が意外で、ぱちりとまばたきをする。

 誠也は持ち物にこだわらないわりに、誰かに選ばせたところは見たことがなかった。そこは誠也のしっかりしたところで、自分の財布は自分で管理していた。

「わかった。じゃあ待って。考えるから」

 ナオは不思議な思いで誠也の言葉を受け止めて、ショーケースの中を覗き込んだ。

 腕時計を選びながら、誠也の別れた彼女はどうだったのだろうと思った。彼女は誠也の持ち物を選んで、誠也はそれを身に着けたのだろうか。

 ……また自分は彼女に嫉妬している。そろそろそれを自覚しているから、気持ちが落ち着かない。

 今自分が考えるべきは、この世界を出て行くかどうかなのに。それよりずっと、誠也の元カノとは違う腕時計を選ぶことに躍起になっている。

「……これ。誠也、着けてみて」

 ナオはしっかりした力強い黒の羅針盤と、一目見ただけで時刻がちゃんとわかる実用的な時計を指さした。誠也はうなずいて、店員に言って腕時計を出してもらう。

 ナオは誠也の腕に時計を巻き着けて、ぼそっと言う。

「おっきい手」

「お前がちっせぇだけだよ」

 そういえば初めて会ったときもこんなやり取りをした。そんなことを思い出して、三年間なんてあっという間だったと感じた。

「いいな。これにするか」

 選んだ腕時計は、誠也の大きくてごつい手にぴったりだった。誠也もそう感じたようで、ナオに振り向いて言う。

「……ん。なら、それで」

 ナオは可愛げのないむすっとした顔で、誠也に同意した。

 腕時計を買った後、夕暮れ時の街を二人で並んで歩いた。二人で他愛ない話をしながら足を進めていたら、誠也が何気なく言った。

「そういや、ここってお前と初めて会った辺りだな」

 誠也がそこをシマにしているから当然かもしれないが、そこは誠也と初めて会った繁華街でもあった。雨の中、野良猫のようにナオが迷い込んだ、始まりの場所だった。

 夕陽に照らされて、二人分の影が動いていく。つかみどころがない二人の距離。それをみつめていたら、ナオの胸に思いがあふれた。

 ふいにナオは立ち止まって、両手を体の横で握りしめながら口を開いた。

「誠也。……自分は、誠也の元カノって見る目なかったと思う」

 ナオは誠也をまっすぐに見上げて言う。

「誠也は優しい。頼りになる。頭だってよくて、いろんなことを教えてくれる。自分だったら、誠也を裏切るなんて考えない」

「ナオ?」

 誠也は突然のナオの言葉に驚くより、ぷっと笑って返した。

「はは、どうしたんだよ。俺に惚れたか?」

 冗談交じりの言葉に、ナオは怒るみたいにきっと誠也をにらんだ。

「好きだよ! ……最初から好きだった!」

 誠也はその言葉に立ち止まって、むずかゆいような顔で返す。

「やめとけって、ナオ。こんなおっさんヤクザのどこがいい? 世話になったからって、愛着までくれてやる必要ないんだぞ」

「じゃあこれからは世話しなくていい。でも、自分は誠也から離れないから」

 ナオは誠也のタイをぐいと引いた。

 その一言を告げるのは、やくざの事務所でバイトした三年間より勇気が必要だった。ずっと心の中に仕舞ってきた、小さな箱をこじ開けるような思いがした。

 ……でも、言うんだ。誰よりも勝気な目で誠也を見上げて、ナオは傲慢なくらいに宣言した。

「彼女なんて中途半端なもので終わるもんか! ……自分は誠也の、家族になってみせる!」

 誠也は目を見張って、まじまじとナオを見下ろした。

 ナオの心は決まっていた。この世界で生きていくかどうかさえ、今のナオには一番の問題じゃない。

 大事なのは誠也と一緒にいるかどうか。それさえ確かなら、自分はもう何も怖くはない。

 誠也はナオの本気をそのままに受け止めてくれたのだろう。観念したように息をついて、おう、と照れくさそうにつぶやいた。

「もうずっと前から……お前はたった一人の家族だよ」

 落ちていく夕陽が熱く胸を焦がすようだった。けれどナオが眼前に見たものは決して闇ではなくて、温かい懐のような夜だった。

 誠也は泣きそうに笑って、ナオの頬を両手で包む。

「側にいてくれ、ナオ。これからもずっと」

「……うん。素直にそう言えばいいんだ」

 ナオはその懐に頬を寄せて、強がりのような文句を言った。

 三年前、野良猫は家をみつけて、いつしかそこの住人になった。

 そこはいつも光が当たるわけではない、痛みも哀しみもある世界の一隅ではあったけれど。

 ナオはかけがえのない家族と共に、今もそこを歩いて、日々を生きている。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る