第1章 中学時代 出会い

 電車で5駅、自転車なら20分位のところにあるスイミングクラブに、小学二年生のころから通っている。親にとって「泳ぐ」は必要なことだったのだろう。自分自身でも嫌いではないし、地区大会で表彰台に上がったり上がれなかったり程度の才能はあったので、優越感や喜びもあった。

 

 このスイミングクラブが、僕の全てをかける存在になったのは、中二の夏の事だった。7月生まれの僕が14歳になった夏、赤に近い茶色の髪をポニーテールにした、薄茶色い瞳を持った20歳の彼女がコーチとしてやってきた。

 この時に僕の世界でビッグバンが起こり、一瞬でこのクラブを中心にした世界が生まれて広がり、何より大切なものに変わった。そしてそれを取り巻く僕の人生を、より具体的で意味のある道へと変えていった。

 僕の意思とは関係なく、押し付けるように流れて来る「毎日」は、僕自身が手足を動かし「なにか」に向かって泳ぎ続けていく日々に変わった。そんな日々は時に苦しかったり、強い流れに「もみくちゃ」にされたりしながらも、あの日に出逢えた20歳の彼女は、僕の全てに理由を生み出す存在となった。

 

 それなりに泳ぐのが速かった僕は、コーチの推薦により選手コースに属していた。「水泳教室」の生徒の中から、大会などで活躍できそうな生徒に「競泳」を教えるコースといえる。そうはいっても毎日泳ぐのは嫌だったので、クラブには週3回通っていた。そんなある日、いつものようにクラブの受付に行くと、初めて見る女の人が受付カウンターの中にいた。20代後半だけど149センチと、人より小さい身体に人一倍の元気を詰め込んだ高田晴美たかだ はるみコーチの隣に立ち、受付のやり方を教えてもらっていた。

 僕は高田コーチに対しては、いつも元気さで負けないように意識をして声をかける。「おはようございます!!!」

 高田コーチもいつものように、明るく元気な優しい笑顔で「おはよう!!」と返してくれた。

「高田コーチ、今月の月謝」お金が入った封筒を高田コーチに渡した。

「ありがとうね。今封筒にハンコ押すね。林葉はやしばさん、生徒さんによっては現金で月謝を持ってくるので、封筒にこのハンコを押してあげるの。やってみてくれる?」

「はい。ここでいいですか?」

「そうそう」

 そこにいる背が高くて、茶色い髪の毛をポニーテールにしている林葉さんという名前の女性は、少したどたどしく僕が持ってきた封筒にハンコを押した。

 髪の毛と同じような薄茶色の眼をした林葉さんは僕に聞いた。「じゃあこれ、返していいのかな?」

「うん、ありがとう」

「選手コースの安田やすだくんだね。私は林葉はやしばと言います。よろしくね」八重歯の林葉さんの笑った顔に、何だかドキッとした。

「みんな悠太ゆうたって言ってるから、林葉さんも悠太ゆうたでいいよ。」僕はなんだか恥ずかしくって、カウンターテーブルに目線を下げて言った。林葉さんから受け取った封筒をカバンに入れて顔を上げると、林葉さんの茶色く透き通った眼と僕の目が合った。なんか胸の辺りがギュッてなった。

 

 隣から知ってる声が聞こえた。「悠太、響子きょうこコーチ初めてじゃん?ってか――お前顔赤いよ。大丈夫?」

 気が付くと僕の並びには僕と同じく平均的な身長のあつしがいた。その後ろには僕らより背が低い真理雄まりおもいた。みんな同じ歳だけど学校はそれぞれ違う。

「悠太は週3回だから初めてか?バタフライがヤバい響子きょうこコーチだよ。そして怖いぞぉ、響子きょうこコーチは」

 林葉コーチは顔を少し赤くして頬を膨らませながら言った。「ちょっと篤君、やめなさいよね。誰が怖いのよ」

 僕の中で篤が林葉コーチの事を響子コーチと呼んだ事が、何かモヤモヤさせている。

「林葉コーチ、僕も響子って呼んでいいの?」それを聞いた林葉コーチは八重歯の笑顔で言った。

「私を響子って呼ぶにはまだ早いかな?響子コーチならいいけどね」響子コーチは笑顔で言った。響子コーチを呼び捨てしたことに気付いて、顔がカーッと熱くなった。みんなに笑われた。


 ロッカールームに三人で行くと、同じ歳で僕らよりも背が高い健治けんじが着替え終わってスマホを見ていた。

「健治おはよう」声をかけると、健治はニヤッと笑いながら言った。

「これ見てみろよ。盗撮大成功だぜ」健治が差し出したスマホの画面には、向上紗耶香こうがみ さやかコーチが「四つん這い」でサウナのタオルを交換する様子を、お尻の方から撮影した画像が映っていた。向上コーチは20代中盤で艶のある黒髪のストレートヘアーで、お嬢様っぽい上品なイメージの綺麗な女性コーチだ。

「やっぱ向上コーチ、いいよなぁ。3発コイたぜ!」健治が自慢げに言った。


 4人とも着替え終わりプールに出ると、向上コーチと坊主頭で一番若い男性コーチの三橋みはしコーチが何か話し合っていた。僕は向上コーチを見た時に、健治に見せられた向上コーチのお尻の画像のせいで妙にドキドキした。スタッフ通路から響子コーチが出てくるのが見えると、何とも言えない申し訳ないような気持ちになった。

「集合~」三橋コーチが声を上げると選手コースの全員が集まった。

 響子コーチが三橋コーチの隣に移動して声を出した。「はじめましての人は初めまして。これからよろしくお願いします。大学2年生でバタフライを担当する林葉響子です。どちらかといえば長距離のほうが得意です」

 さっと頭を下げて挨拶をする響子コーチを見ながら、篤がコソッとつぶやいた。

「響子コーチって三橋コーチと同じ大学なんだってさ」何故だか知らないが、僕は響子コーチの事になると心がザワザワする。

「ふーん」気がないように答えた。

 

 僕は自分の希望で平泳ぎの選手をしているが、タイムが良いのは自由形、つまりクロールだ。バタフライは少し苦手で、溺れていると勘違いされて助けられたこともある。背泳ぎもタイムは良い。選手コースは自分の希望とコーチの意見で、自分の泳ぎ方や距離を決める。僕は短距離のほうが速い。長距離はちょっと苦手だ。


 「じゃあいつも通り、まずは準備運動から、前半は自分のメイン泳いで、後半は個別メニューに沿って進めてください」三橋コーチが言うとみんなは距離をとって準備運動を始めた。

 このスイミングクラブは7コースの25メートルプールで、選手コースの時間は種目ごとに泳ぐコースが決められている。

 僕は平泳ぎなので、短い髪とあご髭がある古岡ふるおかコーチというおっさん主任コーチが僕のコーチだ。古岡コーチから自由形に切り替えるつもりはないか?と何度も言われているけれど、平泳ぎが好きだ。両手でギューンと伸びる感じが好き。自由形はなんか忙しくて好きじゃない。

 僕は前半を平泳ぎで泳いだ後、自由形と背泳ぎを日替わりで泳ぐ。後半はそれぞれのスケジュールで決められたメニューに沿って練習をする。

 だから平泳ぎの古岡コーチ以外では、自由形のコーチである坊主頭の三橋コーチと元気でちっちゃい高田コーチ、背泳ぎコーチの背が高い男性で20代後半の百瀬ももせコーチ、全部の泳ぎ方を教えてくれる綺麗な向上コーチが僕の関係するコーチだ。バタフライの響子コーチは僕に関係ない存在となってしまう。


 後半も終わり、終了を知らせるブザーが鳴り響き、今日の練習が終わった。練習後はサウナ室で体を温めて、シャワーを浴びて着替えをして帰る。いつものようにサウナ室に向かって歩いていると、プールの中の響子コーチがプールサイドに両肘をついた姿勢で声をかけてきた。「悠太君!」

 とてもドキッとしながら「はい」と応えた声が少し裏返った。

「悠太君は才能あるねぇ。毎日は泳がないの?」

「え?いや、水泳じゃ食べていけないし、まあ楽しく泳ぐくらいがいいのかなって思っていて」

 笑いながら響子コーチが言った。「食べていくってなぁに?食べられそうな他のスポーツもしているの?」

「日曜日に野球もやっていますけど、そっちもプロ目指すとかじゃないです」

「じゃあ他の日は遊んでいるの?」

「いえ勉強しています」これは嘘だ。実際にはキャッチボールしたり、漫画を読んだりゲームをしたりしている。

「勉強かぁ。それじゃあ仕方ないですね。ごめんね。引き止めちゃって」

 僕が呼び止めた。「あの」

「ん?」

「なんで僕にそんなこと聞くんですか?」

 響子コーチは、両手でクロールの動きをしながら言った。「自由形見ていてさ、すっごいなって思ったんだよね。ブレスト(平泳ぎ)も悪くないけれど、悠太君の自由形は惚れちゃうレベルだよ。もったいないなって思っただけ」

「惚れちゃうって、僕の自由形にですか?」

「う~ん、悠太君にかな」響子コーチはニヤッと笑った。

「え?」

「ごめんごめん。冗談冗談。忘れて。勉強しっかりね」

 そういうと響子コーチはプールの中からザバァッと勢いよくプールサイドに上がり、スイミングキャップを脱ぎながら僕の隣まで歩いてきた。僕の背中を右手で押しながらサウナへと向かう響子コーチ。背中に感じる響子コーチの手の温もりで、僕の心臓がクロールを息継ぎなしで200メートル泳いだくらいに速くなっていた。

 

 ドキドキしたままでサウナ室に入り、1人で入り口近くに座ると、このクラブで1人だけ同じ学校の同級生女子、外岡雅とのおか みやびが話しかけてきた。

「安田君、おつかれ」

「あ、うん、おつかれさま」

「安田君、自由形にすればいいのに。私バタフライだから響子コーチが付いてくれているけど、安田君の自由形見てすごいって何度も言ってたよ」

「う~ん……」

「前から古岡コーチだって言ってるじゃん。安田君は自由形のほうがいいって。タイムだってそうだし」

「う~ん……」

「なんか元気ないね。調子悪い?」

「いや、今日後半自由形だったから疲れたのかな?」

 そう言ってごまかしたけれど、本当は僕の後からサウナに入ってきて、一番奥に座っている響子コーチに、僕が外岡と話しているのを見られたくない気持ちになっていた。なんか絶対僕は変だ。僕から外岡に話しかけたわけじゃなくて、外岡が話しかけてきただけだと、響子コーチに知ってほしい気持ちになっていた。


 ロッカールームに戻り着替えをしていると、篤と健治が騒がしく戻ってきた。

 篤が興奮気味に健治に話しかけた。「健治のおかげで向上コーチのお尻しか目に入らない一日だったぜ」

 着替えている僕のそばに、篤が来て言った。

「悠太もお願いしてくれよ。健治先生に。リクエストは誰だよ」

 響子コーチの写真は欲しいけど、それを健治が撮影するのは嫌だ。でも響子コーチの写真は欲しい。モヤモヤ悩んでいると篤が僕の両肩を手でつかみ、揺り起こすように前後に振りながら言った。

「悠太がエロ過ぎて妄想の世界から帰ってこないよ」

「別に妄想なんかしていないよ。響子コーチの……普通の……写真が欲しい」僕は小さめな声で言った。

 篤と健治はしばらく見合った後で、笑い始め健治が言った。

「普通って何だよ?悠太がわかんね〜。どうやって抜くんだよ!俺にその技を教えてくれよ〜!」健治が僕の背中を叩きながら笑った。

 そんな騒ぎを遠くで着替えながら見ていた真理雄が言った。

「からかうのはやめにして、マックでも寄らない?」

「いいね~」篤と健治は声をそろえて、自分のロッカーに走り出した。


 ロッカールームを出ると、外岡雅と違う学校で同じ歳の佐久間花恵さくま はなえが話をしていた。篤がこれからマック行かないか?と2人に聞くと、行くと答えた。

 ジャージを羽織った響子コーチが、受付カウンターに出てきた。僕たちの様子を見ながら微笑んでいる。

 響子コーチに気が付いた僕は、女子とマックには行かないと伝えたくなった。その時に、真理雄が受付カウンターに向かって歩いて行った。

「響子コーチ。親が新しいコーチってどんな人なのか聞いてくるので、一緒に写真撮ってもらえますか?」

「え?写真?わかった。いいよ」そう言うとカウンターの脇から外に出てきた。それを見て真理雄は僕に手招きした。突然でビックリしたけれど、気が付いたら走り出していた。それを見て響子コーチが言った。

「じゃあ3人で撮ろうか?」こうして真理雄の身長に合わせて腰を曲げた響子コーチを挟んで、僕と真理雄の3人が並んだところを真理雄が自撮りした。

「ありがとうございます」真理雄は丁寧に頭を下げると、篤たちのそばに向かった。

 僕より背が高い響子コーチは、少し僕を見下げるような目線で言った。「悠太君も行くんでしょ?気を付けてね」

「僕は行かないです」僕は女子とマックに行かないと響子コーチに伝えたかった。

「せっかくだから行けばいいのに。若いうちだけだぞ」そう言うと響子コーチは笑いながら、カウンターの奥に戻っていった。

 僕は思わず大きな声で言った。「行かないって言ってるじゃないですか!」周りにいた人たちが、ちょっと驚いたような顔で僕を見た。

 響子コーチも驚いたように振り返り言った。「うん。わかったよ。どうした?」

 僕は恥ずかしくなり、駆け足でクラブを出て自転車の方に向かった。


 家に戻った僕は、なんであんな大きな声で、みんなとマックに行かないと言ったのかわからなかったけど、その行動がとても恥ずかしい事だと感じていた。次にクラブに行くのが気まずくて、逃げ出したいような気持ちでいると、真理雄からSNSでさっき3人で撮った写真が送られてきた。その写真を見たら、逃げ出したい気持ちが消えて幸せな気持ちになった。しばらくニヤニヤしながら写真を見ていると、今度はSNSで健治がメッセージを送ってきた。

「コキ過ぎ注意!」というメッセージと、さっきの向上コーチが四つん這いでサウナ室のタオルを交換している画像だ。

 幸せな気持ちはどこかに飛んでいき、さっきよりもひどいモヤモヤした気持ちになった。綺麗な向上コーチの画像を見るのは嫌ではないし、むしろ見たい気持ちになっちゃうけど、響子コーチの顔が頭に浮かぶと、とても変な罪悪感に襲われる。それなのに向上コーチの画像を見てしまう。バカ健治と同じことをやっている自分がとても嫌になった。


 次のスイミングクラブの日の僕は、なぜか朝からうれしい気持ちになっている。本当は昨日の夜からうれしい気持ちになっている。これは遠足とかそういう時に感じる気持ちに近い。学校に行くのも少しウキウキしているし、学校の友達との会話も昨日より楽しい。勉強すら楽しく感じる。いつもと同じ学校なのに、いつもより楽しい学校が終わり、いつもより少し自転車のスピードを上げて、スイミングクラブに向かった。クラブに行くのがこんなに楽しみと感じるのは初めてだ。クラブに着いて入り口の前に立つと、途端に心臓がドキドキ早くなり始めた。本当に僕はどうしてしまったのだろう。入り口から入れない。

 入り口の前で立ち止まっていると後ろから三橋コーチが、いつものようにぶっきらぼうぶな言い方で僕に言った。

「悠太どうしたんだ?忘れ物か?」

「いや、いえ、大丈夫です。なんでもないです」

「具合悪ければ帰った方がいいんじゃないか?無理してもしょうがないぞ」

「本当に大丈夫です。すみませんでした」そう言うと慌てて中に入った。後ろから三橋コーチもついてきた。

 うつむきながら入ると、視界の端っこの方に受付の響子コーチが映った。ドキドキするのがわかる。でも気持ちが良いドキドキだ。表彰台に立ったのともちょっと違う。なんだこれ。うれしいドキドキを感じながら顔を響子コーチに向けると、響子コーチの目線は僕の後ろにいる三橋コーチに向いていた。僕じゃなくて三橋コーチを見てると思ったとたん、気持ちの良くない嫌なドキドキに変わった。

 僕より背が高い三橋コーチは、僕の頭の上から響子コーチに言った。「悠太、何でもないって言っているけど、なんか調子悪いみたい」

 それを聞いた響子コーチが、少し心配そうに言った。「悠太君、大丈夫?」

「なんでもないです。大丈夫です」急いでカバンから会員証を出して響子コーチに渡す。響子コーチは会員証を機械で読み取って僕に返してきた。僕はそれをひったくるように受け取り、ロッカールームに向かった。響子コーチの顔は見られなかった。さっきまでは響子コーチの顔が見たくて仕方なかったのに、なぜか今は響子コーチの事を考えると苦しい。考えたくない気持ちになる。クソ!どうなってるんだ?!


 プールに出ると他の生徒も半分くらい出てきていて、プールサイドから直結しているコーチ室の入り口の方で、響子コーチと三橋コーチが何か話している。僕の目にはとても近い距離に感じた。体がくっつきそうな近い距離で話している。三橋コーチは響子コーチの腕を強くつかんでいる。それなのに響子コーチは笑っている。

 

 ――バーン

 

 そこにいた皆が振り返った。僕の脇の壁沿いに設置されたビート板置きの棚が倒れた。

「どうした!?」大きな音に驚き、コーチ室から古岡コーチが飛び出してきた。

 棚のそばにいた僕のところまで走ってきた古岡コーチに、両肩をつかまれている。「悠太!ケガはないか!?」

「悠太君調子悪いみたいで、つまずいて転びそうになって、棚につかまろうとして倒してしまったみたいです」

 振り向くと真理雄が説明をしてる。自分でも何が何だかわからない。

「だって真理雄、悠太のこの顔……」古岡コーチは真理雄に目をやった。古岡コーチはひざを折って僕と同じ顔の高さに顔を持ってきた。

「悠太、今日はさ、休もう。もしよければだけど、コーチ室で俺と話さないか?調子が落ち着くまでさ」

 自分では気が付かなかったけれど、僕は涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていた。


 見える範囲がとても狭くなっている感じがしたし、音も良く聞こえていなかった。気が付いたらコーチ室の椅子に座っていた。目の前には古岡コーチが座っている。

「こんなもんしかないけど飲むか?」古岡コーチは缶コーヒーを出してきた。僕は首を振って断った。涙と鼻水は止まった。何が起きたんだろう?

「真理雄が見ていたから、まあ、つまずいただけなんだと思うんだけど。なんかちょっと、悠太の顔を見たら心配になってさ。心配って言い方も違うかな。気になった?こっちが正しいかな」

 古岡コーチは自分の缶コーヒーを開けて、一口飲んで話しをつづけた。

「学校で何かあったり、ここで何かあったり、家族と何かあったり、例えば誰かに、そう……暴力を受けていたり。何か……この……心配になるような何かが有ったり。自分がそんな辛い事に飲み込まれちゃう時ってさ、人間はあるんだよね。悠太が何かこう……嫌な感じのことに巻き込まれているのであればさ、俺にできる事はないかな?と思ってさ、まあ、呼んでみたんだよね」古岡コーチは缶コーヒーをもう一口飲んだ。

 

「……なんだかわからないけど、うれしい気持ちになったり、いやな気持になったり、今まで感じたことない気持ちになってしまいました。調子が悪かったのに、泳ぎたくて無理したのがダメだったのかもしれないです。迷惑かけてごめんなさい」僕は小さい声で言った。

「いやいや、謝ることは何もないよ。こっちこそ悠太の調子の悪さに気が付いてあげられずにごめんな。主任コーチ失格だな。このまま帰ってもいいし、もう少しここで休んでから帰ってもいいし。どうする?」

「少しだけ休んだらサウナに入って、体温めてから帰ります。本当にごめんなさい」

「わかったよ。でも悠太、悪いことしていないんだからさ、謝らなくていいよ。お互いさまって言葉があってさ、調子悪い時もうまくいかない時も、お互い様だからさ。俺に言いにくければ、ほかのコーチでもいいしさ。お互い様。それだけさ」そう言うと古岡コーチは、自分の缶コーヒーを一気に飲み干して、プールに出ていった。

 ガラス越しに外を見ていると、古岡コーチがプールサイドに出ていた百瀬コーチと言葉を交わし、百瀬コーチがちらっとこちらを見て古岡コーチに何かを言って、古岡コーチはプールに入った。


 もう帰ろうかと思った時に、上半身にジャージを羽織った百瀬コーチが、コーチ室に入ってきた。百瀬コーチが歩く音は特殊だ。百瀬コーチには左脚が無い。本来百瀬コーチの左脚があるところには、金属の棒とその先に「足のようなもの」が付いている。左脚が義足の百瀬コーチがプールサイドを歩くと、金属っぽい独特の音がする。

「大丈夫?」百瀬コーチは独特の音で歩きながら声をかけてきた。

「はい、すみません」

「ふ~ん」百瀬コーチは気のないような返事を返して、デスクに座って事務仕事を始めた。静かなコーチ室に百瀬コーチがボールペンを走らせる音と、ゆっくりと静かな百瀬コーチの呼吸する音だけがしていた。何かとても心地よい時間。百瀬コーチの呼吸と比べると、僕の呼吸はずいぶん速くて浅い事に気が付いた。百瀬コーチと同じくらいのペースで呼吸をしてみた。もっと落ち着いてきた。百瀬コーチはちらっとこちらを見て、小さな笑顔を浮かべたが何も言わずに仕事をつづけた。10分くらいしたら本当に楽になったので、帰ろうと思い席を立った。

「百瀬コーチ。だいぶ落ち着いたので帰ります。すみませんでした」頭を下げると百瀬コーチはボールペンを持ったままこちらを見て言った。

「はい、お疲れさん、また今度な」

 僕はコーチ室を出て、サウナルームに向かった。何人かが僕に気が付いてこっちを見たけど、みんなプールの中だったので、声をかけられる事はなかった。何か聞かれるのは嫌だったのでホッとした。

 

 サウナ室に入ると、ガラス越しに外から見えない一番奥に座った。普段はあまり好きじゃないサウナ室だけど、今日はこの静けさが心地よい。遠くで水をかく音や、飛び込む音。コーチたちの声やコーチが吹く笛の音が小さく聞こえている。この場所は何か、守られている場所みたいに感じる。

 目を閉じて、最近のおかしな自分、今日の特別におかしな自分を思い返してみても、よく思い出せない。霧がかかっているような感じがする。ただ胸のあたりが苦しい。そんなぼんやりとした考え事をしていると、突然ドアが開いた。小さかったいろいろな音が大きくなり、現実に戻る感じがして目を開けると、そこには響子コーチがいた。

 響子コーチはサウナに入りながら言った。「大丈夫?」

 誰とも会いたくない気持ちを、一気に何かが追い越して胸がホカホカし始めた。

「受付で止めればよかったね。ちょっと様子変だったもんね。せめて熱計るとか。ほんとゴメンね」入り口から僕が座る奥の方に歩きながら話している響子コーチ。僕の呼吸が深くなり、体中に酸素が充満してくる感じがする。

「僕の方こそごめんなさい。迷惑かけちゃって。ビート板の棚、壊れませんでしたか?」

「ぜんぜんぜんぜん。問題ないよ。顔色良くなったね、良かった」響子コーチは僕の横に座り、チラっとこちらを見る以外は入り口の方を見ている。僕は横に座る響子コーチの横顔を見続けていた。

 入り口の方を見たままで、軽くうなずきながら響子コーチは話した。「なんか私、こないだ悠太君の気持ちも考えないで、自由形の方が良いとか、毎日泳げとか言っちゃってたからさ。なんか嫌な気持ちにさせていないかと思って。無理強いするつもりはないからね」

「いや、全然嫌だとかは――」僕が話し出すと、また突然ドアが開いた。


 「響子!」三橋コーチが、響子コーチを呼び捨てにしながら入ってきた。

 三橋コーチが強い口調で続けた。「悠太、いたのか。ごめんごめん。響子コーチ、抜けが長いだろお前。何やってんだよ。早く戻れよ」

 響子コーチは僕が知らない声で三橋コーチに言い返した。「だからさあ、スクールで呼び捨てやめてって言ってるでしょ。ちゃんと場をわきまえてよ」

「悠太しかいないだろうが。なあ悠太」

「悠太君でも他の人でも、プライベートと仕事はきちんと切り分けてよ。私だってあんたの事、三橋コーチって呼んでるでしょ?プライベートじゃないんだからさ、ルール守ろうよ」

「グダグダうるせえな。とにかく早く戻れよ。それと悠太も、早く帰って体休めろよ」そういうと三橋コーチはプールに戻っていった。僕は何が何だか頭の中がグチャグチャになっている。

「ちょ、どうした?怖かった?三橋コーチ、声が大きかったもんね。ごめんね」気が付くとまた、僕は涙と鼻水まみれになっていた。

 響子コーチは僕の顔を見て話し始めた。「本当にごめんね。あんまり他の生徒さんには話してほしくないんだけれど、幸雄……三橋コーチとは大学が一緒でさ。じつはその、付き合ってるんだよね。だから私がここで働くのはまずいんじゃないか?って思ったんだけど、彼がここで働けってうるさく言うからここで働かせてもらう事になったんだけど」

 僕はなんだか大事にしていたコップを割ってしまったような気分というか、仲が良かった友達が転校していくときの気分というか。似てるけどもっと違う――胸のあたりに、大きな穴が開いてスカスカになった感じがした。

「響子コーチ、大丈夫なんで、早くプール戻ってください。僕ももう帰るんで。すみませんでした。いろいろと」

「いやいやいや、全然大丈夫じゃないでしょ。悠太君顔色が……」

「ホントもういいです。もういいんで」僕はサウナ室を出てロッカー室に向かった。

 

 家に戻って初めに思ったことは、もうスイミングクラブはやめようということ。なんだか疲れた。野球の方が楽しい。だからもうスイミングはやめよう。お父さんが帰ってきたら、言おう。そう思っているうちに寝てしまった。

 次の日学校から戻ると真理雄からSNSが届いた。「今日これから悠太君の家に行っていい?」真理雄は何度か遊びに来たことはあるけれど、こんなに突然は初めてだ。「いいよ」と返すと、30分後くらいに真理雄が来た。

「真理雄、突然どうしたの?」

「いや昨日の悠太君の事がさ、やっぱり気になって」

「あ、昨日言い訳してくれてありがとうね。なんかよく覚えていないけど」

 驚いた顔で真理雄が言った。「マジで言ってる?」

「え?なにが」真理雄の驚いた顔を不思議に思いながら聞いた。

「悠太君、昨日突然棚を蹴って倒したんだよ。それで棚が倒れた。つまずいたとかじゃなくてさ、悠太君が蹴り倒したの」真理雄に言われて驚いた。僕が?蹴り倒した?でも覚えていない。

 真理雄は続けた。「悠太君を見ていてさ、ちょっと様子がおかしくて。僕は悠太君の友達のつもりだからさ、ちゃんと悠太君の話しを聞いた方が良いと思って、今日は泳ぐのやめてここに来たんだ」

「あ、そうか。真理雄は今日もクラブだよね。そんな心配してくれなくても良かったのに」

「あれを見て心配するなって方が無理でしょ?!ズバリ聞くけどさ、悠太君。響子コーチの事どう思ってる?」真理雄が響子コーチといった瞬間から、ドキドキが始まった。またおかしい自分になっていくのがわかる。

 荒い口調で真理雄に返した。「どうってなに?何が言いたいの真理雄は?」

「悠太君は多分さ、響子コーチが好きなんじゃないかな?もう態度が今までの悠太君と全然違うもん」

「好きってなに?そりゃコーチだもん。好きに決まってるじゃん。種目は違うけど」

「そういうこと言ってるんじゃなくってさ、中二の僕が言う事じゃないれど、悠太君は多分……響子コーチに恋をしたんじゃない?僕の目にはそう映っている。僕はまだ誰かに恋したことは無いし、当然誰かと付き合ったこともないけどさ。でも大人だって好きな相手が浮気したとか、好きな人がこっちを向いてくれないなんてことで、相手を刺し殺したりするじゃん。大人がだよ?多分それくらい恋ってのは、気持ちが「わけわかんなく」なるんじゃないかと予想するんだ。自分の恋した人が他の男の人と仲良さそうにしていたら、嫉妬とかそういう気持ちでおかしくなるんじゃないかな。昨日悠太君が帰ってから、コーチ室で百瀬コーチと三橋コーチと響子コーチが話しているのちょっと聞こえちゃったんだよ。響子コーチが三橋コーチにここでは関係を持ち出すなって言っていて、俺は持ち出してないって三橋コーチが言っていて、百瀬コーチが三橋コーチはプライベートを持ち込んでいるし、選手コースは年齢的に微妙な時期だから、あんまり男女関係を持ち込むのはよろしくないよ。そんな風に言っていたんだ。だから三橋コーチと響子コーチが付き合ってることはなんとなくわかったんだけど。悠太君はさ、響子コーチに恋しているから、そういう2人の関係みたいなの、なんかわかっちゃったんじゃないかな。だけどさ、僕らまだ中二じゃん。大学生の人から見たら全然子供じゃん。だからもうしょうがないって今は考えるしかないんじゃないかな。無理なものは無理なんだから、気持ち切り替えていかないとダメなんじゃん?」

 僕は黙って床を見ていた。真理雄は続けた。


 「悠太君、昨日のこと覚えてないってのも、みんなの前であんな風に泣いちゃうのも、どうしようもなく恋してるからなんじゃないかな?僕にはわかんないけれど、中二だってさ、運命の人と出逢ってしまったら、もうどうしようもなく好きを止められないのかもしれない。それでも今は、今だけはだよ、僕らが子供過ぎてどうにもならないんだったらさ、悠太君が最終的にどうしたいのか、ターゲットを決めようよ」

 僕は視線を床から真理雄に移して言った。「ターゲットを決めるって……いったい何?」

「誰にも言っていない事だけど、悠太君には言うね。僕のターゲットは交通事故にあった人を全員救うことなんだ。ガキっぽいって言われちゃうかもしれないけれど、悠太君も知っている通り、僕のお父さん交通事故で死んでるじゃん。交通事故を僕が無くすことはできないんだけど、僕のところに運び込まれた被害者は全員助かるってことは可能だと思っているんだ。そのために脳も内臓も骨も肉も、コンプリートした医者が僕のターゲットだ」

 僕は真理雄の顔を少しの間じっと見て、軽く息を吐いてから言った。「なんか自分がちっちゃくて、どうしようもないバカに感じてきた。真理雄が友達と思ってくれる自分でいたい。でも僕のターゲットは真理雄みたいに人を助けたりしないし、自己満足っぽい。それでもいいのかな?」

「悠太君がターゲットをロックしたならば、それを僕に宣言する必要もないよ。決めたんなら絶対にキャッチしようよ。僕は絶対に命をつなげる全科目コンプリートドクターになるから」

「真理雄だけ秘密をバラしたのはフェアじゃないよ。僕ズルい感じになっちゃう。まだよくわかんないけど、響子コーチが笑っているのを守りたい。乱暴に腕を握られたり、響子コーチが泣かされたりするのは絶対に嫌だ。だから僕は響子コーチの幸せをターゲットにする」

 この後、真理雄と自分の夢についていろいろと話した。真理雄の夢の話は強く大きくしかも具体的でまぶしかった。それに比べて僕の夢は響子コーチを守るためにケンカに強くなるとか、本当にガキっぽくて、ちっぽけで嫌になる。それでも僕が響子コーチの幸せを守れるならば、響子コーチを悲しくさせるものから守れるのであれば、なんにでもなってやるって、心に決めた。僕の将来の夢は、響子コーチの守護者になる事。これからは絶対に何があっても響子コーチを守れるようになりたい。僕の命に代えても。 


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