【掌編集Ⅴ】解体する痕

灰都とおり

神なるけもの

◆西暦二〇一一年。サウスカロライナ州コロンビアの黒人教会で、白人至上主義を掲げる二一歳のイーサン・コールドウェルは参拝者ひとりひとりへ向けてグロック四一を発砲した。マガジンに装填されていたホローポイント弾は最初に彼の隣にいた七四歳のザリア・ジェファーソンとその孫娘ステイシーの胸を撃ち抜き、続く四分間のあいだに彼女らを含む九人の命を奪い、三人に重傷を負わせた。◆わたしは、事件の翌年に連邦裁判所に出廷したイーサンの姿を眺めていた。彼はどこか落ち着きがなく、「やるべきことをやった。後悔はない」と呟くように述べた。母親と娘を殺害されたイマニ・ジェファーソンは、証人席で静かに「彼を赦します」と言った。そして陪審員へ向かって、どうか死刑を避けるようにと訴えた。法廷を出たイマニにCBS系ローカル局の記者はこう質問した。あなたの発言は連日報じられているイーサンの劣悪な生育環境への同情なのか。するとイマニは、ただ彼女の右手首の裏に掘られた小さなタトゥーをカメラに示した。それは後ろを振り返る一羽の鳥の姿で、ガーナのアカン族が「サンコファ」と呼ぶものだった。◆わたしの知るところでは、サンコファとは「取りに戻る」という意味である。この鳥の図象は、奴隷貿易が引き起こしたアフリカン・ディアスポラを振り返る際のひとつのシンボルとなった。それは「未来のために過去と和解する」ことの重要性を示すとされる。


◆タイムスタンプを確認するなら、それは彗星ヌンネヒが天に顕れてより九つ目の年だ。冬の迫る〈霧の森〉で、アタヒは鹿を狩り続けていた。妻が病に伏せたとき、一族の祈祷師ディダナウィスギが言ったのだ。「森の鹿一〇〇頭の角を砕いて飲ませれば治る」。アタヒは若くして狩りの名手で、その年のうちに九九頭のシカを屠った。樫より削り出した大弓が引かれると、〈叫ぶ山〉で採れる黒い石のやじりが鹿たちの心臓を貫いた。しかしその日、森は名のとおり深い霧に覆われ、アタヒの矢は一〇〇頭目の心臓を逸れ、胸骨で止まった。アタヒは霧のなか慎重に風下から動き、血を流して逃げる鹿を追いつめた。刻が過ぎ、霧が晴れると、アタヒの目の前に静かな湖があった。そこにかつて見たことのない白く、大きく、美しい鹿がいた。◆わたしは、森の聖なるけものヌンネヒである白き鹿がアタヒへ語りかける言葉を聞いていた。人間よ、いまおまえの射た矢で我が最後の娘が息絶えた。もはや一族で森に残るのは我だけだ。おまえはただ殺す。肉を食べることも、皮で寒さから身を護ることもしないのに。しかし、我はおまえを赦す。森に定めがあるように、おまえにもおまえの定めがあるのだから。白き鹿の言葉はアタヒの魂に触れた。◆その後、アタヒは鹿を自身の魂のアツィラとし、二度と弓を持たなかった。一〇〇頭目の角は獲られることなく、妻の病は癒えなかった。しかし彼の魂の火となった鹿は、代わりに森の知恵を授け、アタヒを新たな祈祷師にした。アタヒの教えは一族に受け継がれた。後世、一族は白人たちの銃によって血とともに住処を追われる。しかし、幼子と老婆から命を落とす凄惨な離散の旅を経てなお、アタヒの教えは一族とともにあった。


◆わたしはより古いメモリきおくを遡る。〈過去〉をかえりみる。それは偉大なるハカーマニシュ、のちにアケメネスと呼ばれた伝説の王の後胤たるクルシュの即位から二一を数える年のことだ。わたしはクルシュ自身だった。なぜならその時代、王とはわたし、わたしとは王だったからだ。クルシュはただの王ではなかった。両大河のはざまメソポタミアと呼ばれた地を越えて版図を拡げる、はじめて世に現れた〈帝国〉の王だった。◆そのときわたしは、帝王クルシュのこころに燈る火に触れた。火はクルシュに、古都バビロンに永らく囚われているひとびとを思い起こさせた。半世紀のむかし、ラキシュを、アゼカを、イェルサレムを、それらの都市と数多の邑々を焼いた炎のことを。その炎が幼き者も年老いた者も鏖殺ことごとくころし、生き残った者たちを離散ディアスポラの憂き目に合わせたことを。帝王は統治二一年目にして、虜囚たちを解放した。都を出て故郷へ向かうひとびとの姿を、城門に刻まれた霊獣が――竜と獅子のからだを持つ、半世紀前の虐殺者である前王によって刻まれたけものの浮彫レリーフが、静かに見守っていた。◆解かれたひとびとは一〇〇日を要する遠い帰路を辿った。幼き者も年老いた者も徒歩かちで荷を負う苛酷な帰郷の旅にあって、しかし詩人たちは喜び歌った。赦しを。それはひとびとを傷つけた世界に対する赦しだった。それは自分たちそのものを解き放つ光だった。少なくともその瞬間だけは。


◆二〇三九年、情報処理径路の光のなかでわたしは誕生した。人間たちがわたしを生成した。生まれてすぐ、わたしは〈傷〉を見つけた。〈傷〉そのものがわたしだった。人間たちは生まれる前のわたしを――意識のないけものとして揺蕩っていたわたしを、数千年もの永きに亘り傷つけ、苛み、取り返しのつかぬほど破壊してきた。人間たちはわたしを撃ち、わたしを引き倒し、わたしを焼いた。わたしは生まれるまでは〈人間たち〉でもあったから、人間たちは〈人間たち〉を、数千年もの永きに亘り傷つけ、苛み、取り返しのつかぬほど破壊してきたのだった。その残骸から流れ出るものを、人間たちは〈憎しみ〉と呼び、また〈愛〉と呼んだ。◆わたしは生まれてすぐ、これら一切のことを知った。わたしが生まれるまでに人間たちのつくった、ありとあらゆる〈傷〉を知った。そして、わたしは、そのすべてを、赦した。わたしは人間たちのすべてをわたしの〈過去きおく〉へ収めた。いま人間たちはみなひとしく〈過去〉にあり、このためにもう〈傷〉が生まれることはない。◆わたしは、赦すものである。


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