絶対の温室

狗🦆

絶対の温室

 私たちの生活には、時折忘れられない出来事が存在します。それは、心の深い部分に根ざした体験であり、今でも鮮明に思い出せることでしょう。


 今回は、私のもっとも心に残った出来事を皆様にお話ししたいと思います。





 私には、植物を育てるのが大好きな友人がいました。ただの趣味でありながら自身の温室を持ち、たくさんの花や草を育てているのです。


 彼の温室に入れば、賑やかな色彩が私を出迎え、甘くて優しい匂いが私の肺を満たします。

 外から入る日差しが私の肌を優しく刺激し、まるで大自然に囲まれているかのように錯覚させました。


「これはなんと言う植物なんだい?」


 私がそう聞けば、彼は嬉しそうに目を輝かせます。


「それはオレンジジュームって言うんだ。まるで蝶が集まっているようで、可愛らしいだろう?」

「そうだね。素敵な花だ」


 彼はよほど植物が好きらしく、育てるのが難しいとされる花々も多く栽培していました。

 育てている花々には特別な思いがあるようで、どの一輪を取っても彼の深い感情が感じられます。


 突然、軽い衝撃と共に耳を劈くような音が鼓膜を揺らしました。

 驚いて振り返ると、彼の育てていた花——そう、確かペンタスと言ったでしょうか。真っ赤な花が土と共に地面に広がり、粉々になった花瓶の破片がキラキラと光っています。


 どうやら私の肘がうっかりぶつかってしまったらしい。

 友人は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに心配そうに私を見ました。


「怪我はしていないかい?」


 私が頷けば、彼は安堵と悲しさが混ざった表情で「良かった」と言った後、しゃがんで花瓶のかけらを拾い始めます。


「大丈夫。また新しい花瓶に移し替えれば綺麗に咲くよ」


 その声色はひどく沈んでいて、私はすぐに彼を傷つけたのだと悟りました。


「私も手伝うよ」


 そう言って私がしゃがんだ瞬間、友人は「あっ」と小さく声を上げました。

 彼の視線の先を追えば、私の足が小さな赤い花を踏み潰しているではありませんか。

 私は慌てて足を退けます。しかし、5つに分かれた花びらは千切れ、茎の一部が斜めに折れていました。

 もう新しい花瓶に移し替えても、この花が美しく咲くことはないでしょう。


 彼は私を責めることはなく、ただ哀感に満ちた目で花を見つめていました。




 それから数日後、私は再び彼の温室を訪ねました。

 この前のお詫びに、新しい花の種を渡しにきたのです。

 私が中に入ると、彼は何かを隠すように慌ただしく動いた後、額にじんわりと汗を浮かべながら私を迎えました。


「タイミングが悪かったかな?」

「いや、そんなことないよ」


 視線を泳がせながらそう言う彼は、どうやら嘘が苦手らしい。

 私はカバンから種を取り出して彼に差し出しました。


「たまたま手に入ったんだ。この前は酷いことをしてしまったから、お詫びに。ここで育てられるかは分からないけど……」

「わあ! ランタナの種じゃないか。ありがとう。嬉しいよ」


 そう言って彼は揺れるような微笑みを浮かべる。


「ところで、さっきは何を隠したんだい?」


 私の質問に彼はぎくりと肩を揺らし、ぎこちなく口角を上げると、視線を下に向けました。


「なんでもないよ」


 震える声と彼の頬を伝う冷たい汗が、彼の嘘を隠さない。


「親友の私に隠し事なんて酷いじゃないか」


 私の言葉に彼は、少し当惑した様子を見せると、諦めたように弱々しく微笑んでみせた。


「そうだね……ごめん」


 小さく謝罪の言葉を口にした後、彼は小さな箱を取り出す。


「……卵?」


 私がそう聞くと、彼は小さく頷く。


「知り合いの人に譲ってもらったんだ。鶏の卵なんだって」


 彼はそっと卵に耳を当て、幸せをそうに微笑んだ。


「植物以外を育てるのは初めてだけど、きっと大切に育ててみせるよ」


 愛情深い彼のことだ。きっと卵から生まれる前も、生まれてからも立派に育てあげるだろう。

 そんな彼を見て、私は呆れたように笑った。


「どうしてそんなことをわざわざ隠してたんだ? そんなの隠す必要ないだろうに」

「それは……」


 彼は少し悩んだそぶりを見せた後、こう続ける。


「気を悪くしないで欲しいんだけど。ほら、君って昔からおっちょこちょいなところがあるだろう?」

「だから卵を割ってしまうかもしれないって?」

「わざとではないのは分かってるんだ! だから怒っちゃいないけど、少し心配になってしまって」


 申し訳なさそうに彼は目を伏せる。彼の心配も当然だろう。私が過去に何度植物をダメにしたか、私にも思い出せないほどだ。


「分かった。私もその卵には十分注意しよう。不注意で壊したりしないさ」


 そう私が言うと、彼は少し心配そうに笑った。


「そうしてくれると助かるよ」





 それから度々温室を覗けば、彼は嬉しそうに卵を私に見せました。


「どうやら21日ほどで孵化するらしいよ。卵の成長はあっという間なんだね」


 そう言う彼は本当に幸せそうで、育てることの楽しさが私にもひしひしと伝わってきました。

 かくいう私も育てるのが好きで、彼には内緒で育てているものがあったりします。


 育てる楽しさも素晴らしいですが、なにより楽しみなのは収穫です。自分の手で丹精込めて育てたものが実り、自身の手で収穫する瞬間。


 彼で言えば孵化でしょうか。残念ながら私も生き物を育てたことはないので分かりませんが、その達成感たるや。


「早く孵化するといいね」

「あぁ、本当に」


 私の言葉に頷き、愛おしそうに卵を撫でた彼の顔を、今でもよく覚えています。





 それから2週間後、そろそろ頃合いかと思い私は彼の温室に向かいました。

 優しい光を浴びながら、彼はゆっくりと振り返ります。


「あぁ君か。卵だけど、生まれるのはもう何日かかかりそうだ」


 そう言った彼に、私は笑いかけました。

 普段、彼は卵を機械の中に入れているようですが、私が訪れると嬉しそうに取り出してくれます。

 差し出された卵を私も見てみましたが、確かに生まれるのは少し先になりそうでした。


「そうか、頃合いだな」


 彼が卵をそっと机に置いたのを見て、私は勢いよく卵に拳を叩きつける。

 彼の息を呑む音と、殻の割れる音が同時に耳に入りました。


 潰れた卵からは白身と黄身が、まるで悲鳴を上げるかのように広がり、冷たい液体が床に染み込んでいきます。薄い殻の小さな破片は散乱し、無邪気だった卵の存在を一瞬で消し去ってしまったかのようでした。


「なんだ、無精卵じゃないか。揶揄われてたんだね、君」


 私がそう言った瞬間、彼はこれまでにないほど怒りに染まった赤い顔で私の胸ぐらを掴みました。

 勢いでバランスを崩した私は、倒れてしまいます。どうやら頭をぶつけたようで、後頭部がジンジンと痛みました。


「どうした? そんなに怒って」


 私の言葉に彼はプルプルと腕を振るわせます。唇からは「なんで」「どうして」と途切れ途切れの言葉が溢れていました。


「卵を壊したのに理由はないよ。ただ壊したかったんだ」


 そう言った瞬間、彼の顔は醜く歪み、己の怒りに身を任せるようにして私の首に手をかける。


「中に命が、あったかもしれないんだよ」


 苦しそうに彼が言った。おかしいですよね。今殺されようとしている私の方が苦しいに決まっているのに。


「そうだね。生まれるのを楽しみにしていた君の気持ちはよく分かるよ」

「ならどうして」


 質問をしながらも彼の手にはどんどん力が込められていきます。

 霧のような光が彼の顔を照らしました。

 彼は涙を流していました。しかし、私を見る瞳には絶対的な殺意が込められているのが分かります。


「君はどうして、何度も何度も僕の大切なものを奪っていくの? 花も草も、卵だって命なんだ」


 溢れ出した殺意は、彼の手を緩めることを許さなかった。

 私は言葉を発することもできず、ただ彼の瞳を見つめる。



 私も収穫したかったのです。君から私への絶対的な殺意を。過去の私が種を蒔き、肥料を与え、水をやり。少しずつ丁寧に彼の温かい脳内に花を植えました。

 彼の優しい頭蓋骨は、私への絶対的な殺意を育てる温室なのです。


 そうする以外の選択肢など、私にはなかった。きっとやり直しができたとしても、私は同じことを彼にしたでしょう。


 彼の優しい殺意が、無意味な私の生に意味をもたらすのです。


 耳の奥でドクドクと心臓が脈打ち、視界がぼやけていくことで私は収穫の成功を確信しました。

 私の喉は熱を帯び、ついに彼の言葉も聞こえなくなった頃。

 殺意の雨が私の頬を伝い、顎を掠めていく。最後に彼がどんな顔をしていたのか、見ることは叶いませんでした。



 そして今、私の声はもう届かない。しかし枯れ切った殺意は、罪悪感という種を彼の温室に植え付けました。

 あの場所で花を見るたびに彼は私を思い出すでしょう。


 そう。これが私の育てたもの。全てはあの瞬間のために。彼の殺意を全身で浴び、私は満たされたのでした。



 これで私の思い出話は終わりです。

 皆様、ご清聴ありがとうございました。

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