日輪の予兆

明森

第1話 エピローグ(改)

 「ゼイゼイ」と息を切らせて足を進め「こんなに苦しいのに登山なんか何でするんだろう」と独り言ちる。

 そのくせ悩みや迷いに惑わされることが無い状況に感謝する矛盾だらけの自分にほっとする。

 ここ最近、言い知れぬ不安と喪失感があり、疲れと焦燥感に囚われていたので、思い立って登山の準備をし、列車に飛び乗り一人北アルプスの槍ヶ岳に来てしまった。

 そしてハイペースで一気に槍ヶ岳山荘に到着。


 夜に外に出て満天の星々を見上げて天の川の雄大さに圧倒され、静寂の煌めきに癒される。

「ああ・・・来てよかった」と思わず言葉が出た。勝手なものである。

 心が洗われた至高の余韻を胸にとどめ、明日はご来光を仰ぐので早めに就寝することにした。


 まだ暗いうちに起きて小槍を目指し、ヘッドライトを頼りに登攀を開始する。

 岩登りの基本である三点支持で鎖場を超えて、小槍頂上に到着、ご来光を待つ。

 何度も来ているので感慨はないが、意外に狭い頂上の先人が積み上げたケルンや道標を漫然と見渡しながら、脳内に流れる<アルプス一万尺>に子供ではあるまいにと苦笑を浮かべた。

 やがて黎明からの光の訪れを肌で感じて、ご来光を迎え生きている実感と至福の時間を過ごした。

 名残惜しいが、長くは留まるのはマナー違反なのでしかたなく下山を開始する。


 稜線まで下りて目にした奇跡に心を奪われた。

 眼下の雲海の霧のスクリーンに朝日を後ろから受けた自分の影が投影されているのだが、その影にはまるで虹のような光輪が見えた。

 阿弥陀仏が光背を背負って来迎の様子「ご来迎」とも言われている、いわゆるブロッケン現象だった。

 回析などの波動光学におけるMie散乱が起こるためと言えばそれまでなのだが、自分にとって何かが始まる予兆のように思えた。


 ふと我に返ると何故か周囲に人が少ないという状況を訝しげに感じながら、横を見ると女性が同じようにブロッケン現象お食い入るように見つめているのが目に入った。

「それ以上前に出るとキレているので危ないですよ」

 と声を掛けたところ、こちらにその美しい顔を向けたが、暗い表情でその目からは涙が溢れていた。

 そして唐突に脳内に直接悲しみの波動と慟哭の言葉が届いた。

 もともと俺は他人の視線や想念を感じる事が多いのだが、直感的に彼女の思念とわかった。

 思わず反射的に駆け寄ったが、既に彼女は虚空に片足を踏み出していた。

 慌てて片手を掴んだが、駆け寄った勢いもあって二人とも稜線から投げ出されてしまった。

 ものの見事に落下する羽目に。

「これではまるで心中ではないか・・」という呟きがいみじくも口から出た。

 それに呼応するかのように彼女の「ごめんなさい」という言葉が聞こえた気がする。

 このために山に来て、死ぬのが自分の運命だったのかと悟った。


 一方、よく死の直前にはこれまでの人生が走馬灯のように高速で脳裏にフラッシュバックするという噂がある。確かにそれらしき感覚はあった気がした。

 しかし、落下途中という状況は逼迫しているにもかかわらず他人事のように感じられ、「落下距離は?」、「自由落下の経過時間は?」、「落下速度は?」、「墜落時の運動エネルギーは?」としょうもないことが頭に浮かんだ。

 人生最後の足掻きなのだろう、脳が活性化していて高速暗算が作動し、距離を30mとした場合、時間は約1.2秒、時速約88km/h、衝撃エネルギーは約21kN程度という結果が瞬時に浮かんだ。(計算あってるのか?珠算式暗算が得意だから多分大丈夫・・のはず)

 人体が耐えうる限界は12kNとされていると記憶があったので、死が確定しており、まさに詰んでいる。


 そして、榊 晃(さかき あきら)という理系大学2年生の20歳の人生はあっけなく終焉を迎え、ついに意識が飛び、視界が暗転した。

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