鬼の目にも

空空

●許されないただいま

「もう帰ってこなくていいから、どっかに消えて」

 目の前で扉が閉まる。鍵が閉まり、チェーンがかけられる音までした。足の裏が冷たくて見下ろすと、靴を履き忘れているのに気づいた。

 ぜんぶ面倒くさい。セーラー服から覗く二の腕を擦りながら、ゆっくり膝を折る。しゃがみこんで、しばらく色々と考えるのをやめることにした。学校を出たときはこんな怠いことになるなんて思ってなかったのに。あのままバイトに行っとけばよかったな。作文の課題が思ったより先生から褒められたのに舞い上がって、自分の置かれた現実をいいように楽観してしまったのが敗因だな。先生は親じゃないのに。先生が褒めてくれたものを親が褒めてくれるわけじゃないし。親は私の面倒を見るのが仕事でもないから、自分の機嫌を優先させがちだし。誰かママにお金あげてよ。私の世話をするための適切な対価をあげて。そうじゃなきゃ、ほんとに私、いつもママを悲しませるだけの、卵を産まないガチョウだ。かったるいなあ。こんな風に落ちこんでたってドアが開くわけじゃない。馬鹿みたい。はやく生産的なことをしろよ。もう子供じゃないんだから。ばーか、ばーか。

 結局頭の中で言葉が堂々巡りするのを止められなかった。立ち上がる。靴もないし。スマホは鞄の中だし。

 とりあえずバイトに行かなきゃ。先輩の家でサンダル借りようかな。さすがに裸足で外うろうろするのはまずい。当面の目標が定まったので立ち上がる。と、ちょうど廊下の向こうから黒ずくめの青年がこちらへ歩いてきた。


●返事のない行ってきます

「先輩!」

 こちらから駆け寄って声をかけると、職場の先輩はへらりと笑って足を止めた。

 「あれ、セーラーちゃんだ。今日一緒のシフトだっけ。僕もそろそろ行こうかなって思ってたんだけど」

 何気ない視線の動きで、こちらが靴下のまま部屋の外へ締め出されているのがばれてしまったのに気づく。だが、先輩には以前から家の事情をちょくちょく相談していたので、あらかた察してくれたらしい。

「シンデレラだって靴を両方忘れたりしないのに、セーラーちゃんはお転婆だねえ」

 そんな君に魔法をかけてあげよう。先輩は手にさげていたビニール袋を持ち上げる。

 てっきりコンビニの袋かと思っていたそれは、近所の靴屋さんのものだった。

 しかも中の箱に印字されていたのは、よく雑誌に載っている女性に人気ブランドの文字。まさか先輩が履くものではないだろう。


●魔法使いはいても王子様はいない

「セーラーちゃんは知ってる? 素敵な靴を履くと、その靴が素敵な所へ連れて行ってくれるんだって」

 膝をついて恭しく箱を開けた先輩の手元には、革製の大人っぽいパンプスがある。

 「でもそれって、結局自分の足で歩いていかなきゃいけないんだ。靴が馬車に変身する訳じゃないし。ロマンチックなんだか、現実的なんだかわからないけど、だからこそ、ただのおまじないより信憑性があるでしょう」

 かぼちゃの馬車を待つよりも、白馬の王子様を探すよりも。素敵な靴ならお金があれば買うことができる。こんな風に誰かに貰うことだってある。

 屈んだ青年の肩へ掴まるよう促された。薄汚れた紺色のソックスがするりと魔法のように脱がされて、その下からは新品のストッキングがあらわれた。まるで、あつらえたかのように無理なく爪先から革靴にしまわれる足。もう片方も履かせてもらうと、私はもうセーラー服を着た子供なんかじゃなかった。

 淡いベージュのセレモニースーツ、汚れがつかないよう大切に使い込まれた白いハンドバッグ。肩先を桜の花びらが掠める。少し強い春風に乗って、子どもの声が聞こえた。おかあさん、どうしたの。呼びかけに振り返らなくてはと思う。今となっては年下になった先輩と、今少し向き合った後に。

 「先輩、私、まだ、ここに帰ってきてしまうの」

 放課後。冷たいコンクリートの床。頼りない靴下の感触。くたびれたセーラー服。神経質に短く切られた爪。

「結局、この呪いはとけないまま。知らない間に私だってあの子にかけてしまっているかもしれない呪い。だって、人を幸せにする魔法はなくても、人を不幸にする呪いはある」

 頭の中に染みついた呪文。うるさい。私を困らせて楽しいの。どうして良い子にできないの。消えて。消えて。消えて。ほとんど独白になっている言葉を、先輩は静かに聞き遂げている。もう、ほとんど泣き言だ。

「どんなに素敵な場所に来ることができても」

 振り切るように踵を返す。

「私は」

 夕方の過去から、朝の現実へ戻った。おかあさん。おずおずと差し出された娘の手を取る。入学式と掲げられた看板を目指して歩き出した。


●101号室の檻

 マンションの廊下に取り残された青年は立ち上がる。

 101号室の扉の向こうからすすり泣く声が聞こえてきた。

 ごめんね、ごめんね、いいお母さんになれなくてごめんね、帰ってきて、私にはあの子だけなのに、私の分まであの子を幸せにしなきゃいけないのに、一人でもなんとかやっていかなきゃ駄目なのに。

「そう、確かに呪いはある。他愛のない冗談の中に、日々向けられる習慣の挨拶の中に、愛されたかったあの人からの言葉の中に。あらゆる面で人と違う人生を歩むのは難しい。かつて自分へ向けられた言葉でしか喋ることはできないから。でも、人とまったく同じ人生を歩むこともまた、等しく難しいのも事実だ。きみはこの人ではないし、お母さん、あなたはあの子そのものではないんだから」

 扉を開ける。ドアノブを軽くひねる仕草で鍵をこじ開け、チェーンロックを引きちぎる。しかし、そんな騒音すら懺悔に夢中の亡霊は気づかなかった。青年の形をした鬼は真っ赤な舌で唇を舐めた。

「さあ時間切れだ。この場所は既に忘却区域に指定されている。忘れ去られるときが来たんだよ。……だいじょうぶ、ほねのかけらひとつのこさないさ。ぜんぶ、まるごと、のみこんであげようね」

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