Turn The Line
ながねぎくん
Never Catch Me ~春~
満開の桜の花は、昨夜に吹き荒れた暴風雨の影響で大半が散ってしまった。そうして地面に落ちた花びらは、通行人の靴底に口惜しそうにくっついていた。
時刻は午後五時。下校中の真田ひかる(仮名:さなだひかる)はタマ川に架かったホウオウ橋を渡る途中、ある人物の背中を見かけた。夕闇に溶け込んだ深緑のブレザーは、彼女の視界の中で燦然と輝いている。
「……藤乃ちゃんっ!」
「ひ、ひかるっ?」
露玉藤乃(仮名:つゆたまふじの)は、気の抜けた声を出してひかるのほうを振り向いた。地平線の彼方を眺めてぼんやりと歩き続けていた藤乃は、心臓が飛び出そうなほど驚いていた。
「藤乃ちゃんっ!藤乃ちゃんっ!!びっくりさせちゃった……?」
「大丈夫。もうっ……なんでそんなに元気なの?」
「何でって……嬉しいからに決まってるよ!藤乃ちゃんと一緒に居るのが、一番好きなんだもん!」
「はぁ……分かった、ありがとう。私も嬉しいよ」
水の音と車のエンジン音をかき分けて、少女たちの楽しげな声が薄暗闇を照らしていた。雲一つ無い群青色の空は遥か高く広がって、地平線の際まで続いている。燻り続ける残火のように、ほんの僅かな陽の光がずっと向こうに輝いていた。夜の気配が薄いヴェールのように二人の身体を覆っている。藤乃の横顔は今にも消え入りそうな西日を浴びて、儚い美しさを讃えていた。
*
ひかると藤乃は従姉妹同士で、お互いに物心着いた頃には既に仲良く遊んでいた。読み書きを覚えるのが早かった藤乃は、首が座ったばかりのひかるによく絵本を読み聞かせていた。当時の記憶はすっかり二人の中から消えてしまったものの、箪笥の奥に眠るフォトアルバムを見返せば、写真の中にいる幼い自分の記憶がくっきりと蘇ってくるような気がした。
その当時から、藤乃には父親がいなかった。藤乃の父は彼女が生まれる前に死んでしまったのだ。これにはひかるの父親も関わった様々な事情が絡んでいた。
彼女たちの両親が共に若かった頃、当時二人の父親は藤乃の母を巡って互いに競い合っていた。太陽のように情熱的な性格と深い教養に富んだ美男子、ひかるの父と、凪いだ水面のように理知的で月夜のように艶やかな美男子、藤乃の父、彼ら兄弟は周囲の若者たちにとって憧れの的だった。
ひかるの父は恋多き男だったが、そんな彼であっても彼女の美貌を前にすれば少年のように頬を赤くした。繊細ながらも包容力に溢れた彼女に、二人は幼少期に亡くした母の面影を見出していたのだろう。
当初、藤乃の母と結ばれたのは、ひかるの父だった。しかし、何事にも決して動じなかった筈の彼の弟は、兄が留学している間に強引に彼女と関係を持った。その際に彼女が懐妊した子こそが、藤乃である。
兄を裏切ったことで自失の底へと落ちていった彼は次第に食事を取らなくなり、そのまま肺を患って若くして亡くなった。涙ながらに許しを乞いながら腹の子を頼むと弟にせがまれたひかるの父は、苦悩の末二人を日本に残して再び留学先へと姿を消した。
そうして彼らの青春は幕を下ろした。ひかるの父は別の女性と結婚し、それからすぐにひかるを設けた。
*
「ねぇ、このあと時間ある?ダニーズ行かない?」
「ごめん、塾があるからまた今度ね……」
「そっか……」
橋を渡り駅へと向かう途中で、ひかるは藤乃を食事へ誘った。ひかるからの誘いを藤乃はいつも断っていた。母子家庭の藤乃には、放課後に外食をするだけの余裕が無かったのだ。
時刻は五時十五分。とはいえ、塾で授業が始まるまで時間は幾らか空いている。先に教室で予習をすることも出来るが、今の学習範囲で藤乃がつまづきそうな箇所は特に無い。左手首に巻き付けた腕時計を確認し、彼女は一筋のため息をついた。
「ファミレスじゃなくて喫茶店なら……」
「ほんとっ!?」
「一杯だけ……時間が無いからね」
「やった!藤乃ちゃん大好き〜!!」
「はいはい……」
無邪気な彼女の笑顔を見ると、藤乃の表情も次第に綻んでいった。憂鬱な気持ちになりやすい彼女も、ひかるの笑顔を見ればたちまちに明るい気分に変わっていった。彼女の脇腹に抱きついているひかるの表情は、これ以上無いほどに穏やかだった。放課後を満喫する学生や、仕事を終えた勤め人でごった返している駅前の繁華街を二人は軽やかな足取りで進んでいった。
「旬のフルーツを使ったカスタードデニッシュと、いちごのティラミスアイスと……ホットのカフェ・オ・レを一つください!」
「私は……ブラックコーヒーを一つ。ホットでお願いします」
カウンターで注文を済ませた二人は、各々が頼んだメニューをトレーの上に乗せ、二階の客席へと向かった。窓際のカウンター席から一番近くにあるテーブル席に着き、椅子の近くにある籠の中へバッグを仕舞ってゆっくりと飲み物に口を付けた。
二人は印を付けるようにして、飲み物を一口飲んだ。その自然な所作と美しい佇まいは大衆向けの喫茶店ではかえって人目を引くほど優雅だった。特に藤乃は、こういったカジュアルな飲食店であってもマナーを徹底している。後ろ盾の少ない生い立ちだからこそ他人から侮られないようにと、藤乃の母は彼女に厳しく礼儀作法を身に着けさせた。母親の言いつけを守り常に美しい佇まいを実践している藤乃は、一方でその態度からか同年代の人間から距離を置かれてしまっている。藤乃と同様、余所に出しても恥をかかないように両親から一通りのマナーを仕込まれたひかるは、彼女にならって美しい所作を取っていた。
テーブルの上には二人がそれぞれ注文した飲み物と、ひかるが選んだスイーツが並んでいる。ひかるがスプーンでティラミスを取り始めたので、藤乃はさっと視線を反らしテーブルの木目をじっと見つめていた。
──私も何か、頼めば良かったな……。
そんなことをぼんやり思い浮かべ、彼女は心のなかでぐっと頭を振る。口の中に熱いブラックコーヒーの後味が広がり、彼女の口内は無意識に甘味を欲していた。自身の卑しい欲望に嫌悪感を覚え、藤乃の唇の端は徐々に歪んでいった。
「……はいっ、あーんっ!」
「……えっ?」
「藤乃ちゃんも、食べよう?」
「い、要らないっ……」
「いいからいいからっ、ほらっ」
「っっ……」
己の意思に反して、藤乃の口の中にはみるみるうちに唾液が広がっていった。目を丸く開いてココアパウダーとクリームの綺麗なコントラストを、文字通り食い入るように見つめている。自分の間抜けな表情に気づいた彼女はきゅっと目を閉じて、前のめりになっていた身体をさっと元に戻した。
「大丈夫、ダイエット中だから」
「そっか……」
ひかるは差し出していたスプーンをゆっくりと戻していった。彼女のしょんぼりとした表情を見て、藤乃は思わず罪悪感に苛まれていった。意地を張らずに彼女に合わせてやれば良かったと思い、藤乃は再び身体を乗り出してひかるに話しかける。
「ごめん、やっぱり私も欲しい。だめ……?」
「ううんっ、はいどうぞ!あ〜んっ!」
「い、いただきます……」
藤乃はさっと辺りを見回して、申し訳無さそうに口を開けた。途中でおもむろにひかると目が合ったので、彼女は気まずそうに目を伏せていた。
「やっぱりだめで〜す!!」
「……っ……えっ!?」
「にひひっ、引っかかったね藤乃ちゃんっ!……ん〜っ、甘〜い♡」
「……ば、ばかっ!」
自分の厚意を弄ばれた藤乃は、顔を真っ赤にしてひかるを非難した。すぐに我に返った彼女は、辺りを見渡して周囲の様子を恐る恐る伺う。自分では大きな声を上げてしまったつもりだったが、その実、彼女の凛とした小さな声音は殆どの人の耳に入っていなかったようである。
「……うそうそ、怒んないでってばぁ」
「しらないっ……もうひかると一緒に来てあげないからっ……」
「ねぇほら、機嫌直してよ〜、はいっ、あ〜ん♡」
「あっ……んむっ……」
「どう?」
「……甘い」
「ふふふっ、良かった」
彼女の口の中に予想通りの甘い味が広がっていった。これと言って特筆すべき点もない、至って普通のスイーツだった。市販品の砂糖の味と仄かに香り付けされた味気ないココアパウダー、そして、べったりと舌を覆っていくカスタードクリームのなんとも言えない生っぽさ、つまりはそれが、ありきたりな幸福の味だった。羞恥心を紛らわせる為に、彼女は一口のティラミスを必要以上に咀嚼していた。
「ほら、こっちも食べよ?」
「……うん」
「にひひ、お上品な藤乃ちゃんにはちょっと物足りないかもしれないけど?」
「ううん……でもやっぱり、私の焼いたケーキのほうが美味しいから、今度の週末、部活が終わったら家においでよ。今日のお礼にごちそうさせて?」
「ひひほ……?やっはぁ〜!!」
「こら、食べながら喋らない」
「んむっ、ごめんごめんっ……楽しみにしてるね……」
「うん……私も……」
やや上目遣いで藤乃を見つめるひかるの表情には、僅かな寂寥感が漂っていた。ひかるはころころと表情の変わりやすい少女だったが、彼女が時折見せる憂いを帯びたその目つきが、長いまつ毛に縁取られた印象的な二重瞼と、陽光を透かしたような黄金色の瞳に独特の魅力を与えている。ずっと彼女と視線を交わしていると、そのまま吸い込まれて自分が消えてしまいそうな気がしたので、藤乃はおもむろに視線を窓の外へと向けた。きらびやかな照明に彩られた繁華街は、夜の訪れとともにゆっくりと活動を始めていた。
*
「じゃあね、気を付けて」
「うん……ばいばい、藤乃ちゃん」
ひかるは名残惜しそうに藤乃の袖に触れていた。藤乃はゆっくりと彼女の頭を撫でて笑顔のままひかるからゆっくりと離れていく。
「藤乃ちゃんっ……」
「……?」
「ううん、何でもない……」
「またね……」
「ふ、藤乃ちゃんっ!……本当は、私より同級生の子と遊びたいんじゃないの……?」
「ううん、私、ひかるしか仲いい子居ないもん……」
「……にひひっ、それじゃあ仕方ないね……」
「うん……私ともまた遊んでね……ばいばい、ひかる……」
──違うの……私が、ひかるに甘えていちゃだめなのに……あの子はもっと、広くて明るい世界で羽ばたいて欲しい……だから、もうひかると会わないって思っているのに……。
──どうして、どうしてあの子の暖かさが、もう一度欲しくなってしまうんだろう……。
二人は踵を返して別々の方向を目指して進む。雑踏に紛れ、二人の姿は次第に見えなくなっていった。
道路脇の水たまりが色とりどりの照明を反射してゆらゆらと輝いている。靴の裏から剥がれた、汚れた桜の花びらが、夜を写した水面に僅かばかりの彩りを添えていた。
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