【アップ】2024年10月6日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】2024年10月6日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=3-yK0BFwHuE


【ブログ】

ブログを見て下さると、聖書や讃美歌の歌詞などもご覧になれます。

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12871553059.html



前奏

招詞 哀歌3章22〜25節

詩 編 歌 65編 3節

聖なる主の宮のよきものもて

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

スコットランド教会新カテキズム

「堕落のきっかけ」

こどもさんびか

あいのしゅイエスは[改 124(1,2 節)]

牧 会 祈祷

讃美歌 326番

聖書

詩編101編1〜8節

エフェソの信徒への手紙5章6〜20節

説教 「清い心をもって

〜王でいますキリストの支配する教会」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 235番

使 徒 信条

聖 餐 式 配餐(パン・杯)

感謝のささげものと執り成しの祈祷

祝 祷 《歓迎礼拝準備祈祷》

報 告



讃美歌~♬


「光に歩めよ」讃美歌326番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=UgWe5KaAtfI


1

ひかり に あゆめ よ, さらば ふかき

みたま の まじわり たえず ぞ あらん.

2

ひかり に あゆめ よ, さらば また と

この よ の けがれ に そまず ぞ あらん.

3

ひかり に あゆめ よ, さらば くらき

たにま を ゆく とも, やすく ぞ あらん.

4

ひかり に あゆめ よ, さらば はか も

くちざる さかえ の かど と ぞ ならん.

5

ひかり に あゆめ よ, さらば きえぬ

ひかり の みかみ は こころ に まさん.


讃美歌235番「主のみたみよ」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=M89o1OARZts

(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)



2024年10月6日 礼拝説教 中心聖句


いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。

詩編101編2節


しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。

エフェソの信徒への手紙5章,14節 


はじめに

「神の国」を求めるとは、神の王的支配を求めること。主キリストの支配を学ぶ。

1

「慈しみと裁きをわたしは歌い」との「わたし」とは、ダビデ(表題のとおり)。イスラエル王国の二代目の王であった、ダビデはもともと羊飼いであった(詩編23編)。エッサイの八人の息子の末の子であったが、サムエルにより油を注がれる(サムエル上16章)。しかし、最初の王サウルから命を狙われ、荒野を逃亡した時にも、主が油を注がれた王として尊敬し、サウルの上着の端をひそかに切り取った時にも後悔した(同上24,26章)。また、サウルの死の時にも尊重し、サウルとその子ヨナタンを悼む歌を詠んだ(同下1章)。ダビデは全イスラエルの王として統治した時、都をヘブロンからエルサレムへ移す(同下5章)。この詩編は、ダビデが、都へ「主(神)の箱」[契約の箱]を迎えた時(同下6章)、その備えの歌。ここで、「慈しみと裁きをわたしは歌う」とは、主の臨在の中で、治める者は「公平を求め、正義を速やかにもたらす」(イザヤ16章5節)ものであることを個人的に証しする。それは、神の怒りと苦悩(憤り)が静められ、民の罪が赦され、救われる道を歌う(詩編85編)。「主よ、あなたに向かって、ほめ歌います」と、ただ、王の職務が、主の任命であることを告白する。

「完全な道について解き明かします」とは、王の職務の実行は、「完全な道」を求める用心にあることを証しする。「いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。」と問う。それは王の職務を果たす時まで、「わたしは家にあって 無垢な心(直き、清い心)をもって行き来します。卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み まつわりつくことを許さず 曲がった心を退け 悪を知ることはありません。 隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません」と決意することに通じる。「完全な道」とは、主の憎まれる道を捨てること。「あらゆる悪徳から身を守るため努力する」(カルヴァン)道。

「わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め」とは、王の職務が共同的に果たされる時、そこでは、まず、「信頼のおける人々」、つまりは、「真実な者」を求めること。彼らこそ、「わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。」「わたしの家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。」「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」使徒パウロはコリントの教会に「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」(コリント一4章7節)と問いかけた。また、主イエスは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20章25~28節)と言われた。「耐え忍ぶなら、キリスト共に支配するようになる」(テモテ二2章12節)との真実は、今、わたしたちのどこに見られるであろうか。

おわりに

「明らかにされるものはみな、光となる」とは、「実を結ばない暗闇の業」が消えて光となる事。それは、まことの王にして祭司でいます主キリストのもとに来る者たちの栄光。「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」。試練の中「光の子として歩」もう。



(Mynote)


二〇二四年一〇月六日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を、神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『スコットランド教会新カテキズム』

「人間が堕落したきっかけは何でしたか。」

「悪魔が蛇の姿でエバを誘惑し、エバとアダムは、主(しゅ)なる神様から『取って食べるな』と命じられた木から取って食べた事です。」

エデンの園でのエピソード。アダムとエバはそこに永遠に住まわされ、不自由無い生活を約束されて居たが、神様から言われて居た「一つの約束」(木の実を取って食べるなと言われた事)を守れなかった為に堕落した(これが原罪である)。

人はこの様に、神様から言われた一つの事も守れないほど脆(よわ)く、その内に欲望・罪を具えて居た事により、悪魔(蛇)の誘惑に勝てず、神様から離れる事を自ら欲した。しかしこの事も神様の御計画の内と捉える事が出来、神様は、その脆く愚かな罪人の人間さえ愛し、その後の人の生活を続けられ、今日まで恵みと慈しみを以て人を生かして下さって居る。人は先ず、己を知らねば成らない。そして悔い改め、神様の愛が無くては一秒でも生きられない事を知る上、神様にいつでも喜ばれる息子・娘に成らねばならない。

(公同礼拝)

『詩篇』(第一〇一篇一〜八節)

『エペソ人への手紙』(第五章六〜二〇節)

この両箇所には、現代人が聴き知って、厳しい事が書かれてある。あれをしてはいけない・これをしてはならないと言った禁止事項と、信仰に歩む上で「完璧なクリスチャン」を突き付けられ、それに習う様に生きなければ救われない…等。

「こんなの人には絶対無理だ!」

「だったら、神様が初めに人間をその様に(そう出来る様に)男女(人間)を創っておいてくれてたら良かったじゃないか!」

「まるで出来もしない事(無理難題)を全ての人間に吹っ掛けて、出来ないのを知りつつ見て楽しんでるだけなんじゃないのか!?」

こんな声が、現代人・古代人を問わず、聞こえて来る様である。その延長で又、腹立たしい感情が同時に湧く様な箇所にあろうか。

しかしこの両箇所では、先ず信仰の理想が述べられて居り、「誰しもこの様に生きねば(生かされねば)天国に行けず、絶対に救われない!」…と豪語して居るのではない。「信仰の理想」とは、何時(いつ)でもその信仰に近付こうと努力し続ける事に先ず在り、その上で、その人の信仰が神様との間で成長させられる事を指す。詰り、信仰に於ける成長の為の励まし・訓戒に在る。

神様は初めから、人が完璧に信仰に沿って歩めない事をご存知である。アダムとエバの時に既に証明されて居り、その後もノアの時やロトの時、それ以上に唯一誠の生ける救い主、イエス様を多くの国民が蹂躙し、十字架に付けて葬った時の事を憶え、人の不信仰・不品行、欲深さ、罪にしか生きられない程の人が多勢居て、どんな救いの契機を以ても中々救われない、改心しない(悔い改めない)その人の内実をご存知である。人が自分で自分の事を知る以上に、神様はその人をご存知である。その人に何が必要で、どの様な救いが必要か、その事も全てご存知である(その上で、この両箇所の御言葉が在る)。

この両箇所の内容全てが、神様から全ての人に与えられた励ましに在り、生き方の見本を示し、どうすれば信仰に依り救われるか。それを全ての人が夫々の生涯を以て学ぶ為、そう在る事を努めて継続する為・維持する為に、御言葉の一つ一つが示される。これは全ての人に語られる(全ての人を教える)御言葉であり、その一つ一つを守る心を少しでも心に留め信仰に寄れば、人の世は神様の恵みに近付く事が出来、人の罪、延いては悪魔の誘惑・攻撃から逃れる事が出来ると教える。「そうではないか?」…と心に留める事が、信仰への一歩に成ろうか。

教会は、キリストの正義が支配する場所である。この世は今「悪い時代」と在る様に、人の欲望・罪、詰り悪魔が横行する時代に在り、その悪魔の猛りがまざまざ目に付き、勢いを以て襲う時代にも在る。即ち、まるで神様の側と悪魔の側に明暗が分かれる様に分けられ、神様と悪魔のどちらに付くか?この選択を(自由の内に)突き付けられる感覚に在ろう。争いが絶えず、善悪の争いに在りながらも互いに正義(生義)を以て居り、対峙して居る。人は生まれながら善悪が具えられ、その一方に在る者ではない。その時に於いてどちらかに立ち、その際の気分・心の姿勢により善悪の立場に分かれて居る。詰りその時々に於いて、何時(いつ)でも正義に立てる途(みち)を選ぶ必要がある。その為に信仰に寄り、神様が全ての人に教えたこの(両箇所の)御言葉が必要と成る。

「僕(しもべ)たる者よ、キリストに従うように、恐れ慄きつつ、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのではなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。あなた方が知って居る通り、誰でも良い事を行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。脅す事を、してはならない。あなた方が知って居る通り、彼らとあなた方との主は天に居ますのであり、且つ人を偏り見る事をなさらないのです。」(『エペソ人への手紙』第六章五〜九節)

「あなた方は、よく知っておかねば成らない。全て不品行な者、汚れた事をする者、貪欲な者、即ち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国を継ぐ事が出来ない。あなた方は、誰にも不誠実な言葉で騙されてはいけない。これ等の事から、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間に成ってはいけない。あなた方は、以前は闇であったが、今は主にあって光と成って居る。光の子らしく歩きなさいー光は凡ゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものであるー主に喜ばれるものが何であるかを、弁え知りなさい。実を結ばない闇の業に加わらないで、寧ろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行って居る事は、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光に晒される時、全てのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光と成るのである。だから、こう書いてある、『眠って居る者よ、起きなさい。死人の中から、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう』。そこで、あなた方の歩き方によく注意して、賢くない者の様にではなく、賢い者の様に歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨が何であるかを悟りなさい。酒に酔ってはいけない。それは乱行の元である。寧ろ御霊に満たされて、詩(し)と讃美と霊の歌とを以て語り合い、主に向かって心から讃美の歌を歌いなさい。そして全ての事に就き、いつも、私達の主イエス・キリストの御名に依って、父なる神に感謝し、キリストに対する恐れの心を以て、互いに仕え合うべきである。」(『エペソ人への手紙』第五章五〜二〇節口語訳聖書では二一節

「私は慈みと公義に就いて歌います。主よ、私はあなたに向かって歌います。私は全き道に心を留めます。あなたはいつ、私に来られるでしょうか。私は直き心を以て、我が家(いえ)の内を歩みます。私は目の前に卑しい事を置きません。私は背く者の行いを憎みます。それは私に付き纏いません。僻(ひが)んだ心は私を離れるでしょう。私は悪い事を知りません。密かに、その隣り人を謗(そし)る者を私は滅ぼします。高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事は出来ません。私は国の内の忠信な者に好意を寄せ、私と共に住まわせます。全き道を歩む者は私に仕えるでしょう。欺く事をする者は我が家の内に住む事が出来ません。偽りを言う者は我が目の前に立つ事が出来ません。私は朝毎に国の悪しき者を悉く滅ぼし、不義を行う者を悉く主の都から断ち除きます。」(『詩篇』第一〇一篇一〜八節)

全ての人はこの人の世に生かされる上、光と闇、正義と悪、善と悪とをはっきり区別して、必ず正義の側(即ち神様の側)に立たねば成らない。その法を憶える上で、実行せねば成らない。これは光と闇とをはっきり区別する目を先ず信仰に依り養い、光の子(神様の側に立つ子)として歩みなさい…と言われるその事に通ずると信じる。

「あなた方は、以前は闇であったが」と在る事から、こう言われる信仰のエリートの様な人達でも以前は闇を歩く罪人で、救われる事に依り「光の子と成った事」が分かる。この両箇所は、救われる人・救われない人を差別し、それに終始する様に見えるがそうでなく、皆が救われる為に励ます箇所である。イエス様が人を区別し差別して、それに終始する事があろうか?そう考えるだけでも、その本意が見えるだろうか。

両箇所の内容・御言葉の一つ一つは、今の世界の全ての人に語られる。クリスチャン・ノンクリスチャン(自由人や異邦人)の区別無く、全ての人に語られ問われ、常に「信仰に生きよ」と強く励ましを以て語られて居る。詰りこの御言葉の一つ一つを忘れず、守る心を常に留めようとする努力が必要となる。

「エペソ人への手紙」と在る事から、この御言葉は、当時のエペソ人への戒め・励ましとも取れる。エペソの教会に集う信仰厚いとされる人達でさえ、この御言葉が与えられる必要があるほど生き方に迷い、不信仰・不品行に陥り、神様の前で「語るにさえ恥ずかしい行為」を働いて居たとも取れる。此処ではクリスチャンにこそ強く問われる内容として在り、ノンクリスチャンの見本とも成れる様な信仰の持ち主として、改めて教育され正されて居る様である。

聖書に在る厳しさは、全ての人を信仰に依り救う励ましである。人は窮地に陥った時、生きる為に体内から元気を出す様に、歌う程の喜びと気力を取り戻そうとする。その歌が、神様を讃美する歌(詩)に成る様に。その行為の向こうに救いを見て居り、この世では(人の常識では)考えられない程の安らぎを知り、その安らぎが永遠に変わらず続く事を祈り願う。この両箇所に在る全ての御言葉は、その一つ一つが、人が窮地に陥った時に歌う心の糧、讃美の詩(歌)に在る。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw


"DEDICATION" 「献身」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MxKFmcXqI4Y


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%86/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)



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