愛流録――自由に憧れる探偵――

夢見歩人

page1「誕生日」


   〇


 その日の夜は、ひどい雨だった。

 男は娘にと買ってきたショートケーキを、日に焼けた手で皿に移しながら、天井を見上げた。雨粒が屋根を打ち付ける音が響き、テレビのニュースから流れるアナウンサーの声を邪魔している。高齢男性が電車にはねられ、死亡したそうだ。ただ男が住む夢見市(ゆめみし)で起こったことではなく、他県での事故らしい。

「ニュースを見るか、ケーキを並べるか、どっちかにしなよ」

 娘が丸っこい頬をさらに膨らませながら見上げてきた。灰色のパーカーとジーンズを身にまとい、やや茶色がかった髪の毛先を指で弄んでいる。毎年のように言っている「またホールケーキじゃなくて、ショートなの」という不満は、娘の口からは出てきていない。今日で十二歳になるのだ。その辺りの分別はできるようになったのだろう。

 そう、今日十二月七日は、娘の誕生日だ。

 妻が亡くなって既に六年と半年以上が経過しているという事実に、いつも驚かされる。気付けば娘も、来年から地元の中学校に通う歳だ。

 ――まるで自分だけが、過去に置いてけぼりにされたままのようだ。

 そのようなことを思いながら、男は額に触れる。あまり考えたくはないが、昔と比べると、髪の位置がやや後退してきたような気がする。仕事終わりなのでスーツを着たままだが、シャツはアイロンをかけていなかったので、よく見ると皺がいくつもある。自分ももう歳なのだと、しみじみと感じた。

 などと考えている間に、いつの間にかニュースの音が消えていることに気が付いた。顔を上げて周囲を見回すと、娘がちょうどリモコンを置いたところだった。にやつきながらデザート用のフォークを二本手に持ち、片方の取っ手部分を男に向けて突き出す。

「さ、食べよ。早く食べたくて、さっきからウズウズしてるんだから」

 言いながら娘は椅子に座り、手を合わせて男に目をやった。男は吹き出すと「そうだな」と自分も席につく。

「じゃあ、誕生日おめでとう」

「うん、ありがとう!」

 そういって娘は「いただきます」という掛け声と共にフォークの先端でケーキの上に乗ったいちごを刺そうとした。その時だった。

 家の中に、インターホンの軽快な音が鳴り響く。それから数秒間は、まるで時が停まったかのように、二人とも身動きが取れなかった。

 夜中の九時を時計の針が示そうとしている。そのような時間帯に、一体誰が訪ねてきたというのだろう。

 男は疑問に思いながらも、席を立とうとした。しかし娘が「あ、私出るよ。お父さんは座っていて」と言って、いち早くテレビモニター付きのインターホンに駆けて行く。

「はい、どちら様でしょう?」

 しかしスピーカーからは誰の声も聞こえない。流れてくるのは雨音ばかりだ。男はチラリと後ろに付いたインターホンを見た。

 画質が荒い映像に映るのは、向かいの家と街灯の明かり。人の姿は見当たらない。

「もしもし?」

 再度娘が呼びかける。やはり返事はない。

 じれったくなったのか、娘は電気も点けずに暗い玄関へと向かった。その間、男は静止したかのように動かない映像を眺め続ける。

 違和感があった。具体的にどこが妙と言い切れるわけではない。ただ漠然とした不安が、この時の男の心には存在していた。

 ガチャッという金属が回る音が鼓膜を震わせる。娘がドアの鍵を解錠した音だと認識した瞬間「待て!」と慌てて廊下に向かって叫んだ。

しかし遅かった。娘はドアを開けながら振り返る。その瞬間、娘の体制がぐらつき、その場で膝をついた。

 男は娘の名前を叫び、慌てて娘の元へ向かおうとした。

「くるな!」

 玄関から飛んできた叫び声に男は戸惑い、思わず足を止めた。

 叫ばれて怯えたのではない。しかし声そのものに驚かされたのは確かだ。

 その声は、男性によくある野太い声でも、女性のものでもない。

 トーンが高い、子供のような声だった。

 男は目を凝らして暗闇を見つめる。入り込んだ街灯の光が照らした顔は、少年というにはあまりにも幼い、子供のものだった。

 見た目から判断するに、小学校に上がったかどうかも怪しい年齢だろう。雨に濡れて重くなった前髪が目にかかっており、肌は今まで外に出たことがあるのだろうかと疑いたくなるほど白い。逆三角形の輪郭と鼻筋が通った顔立ちから、将来は美形になりそうだという印象を受ける。左腕にはミミズのように腫れあがった傷痕が何ヶ所もあった。しかし何より男が引き寄せられたのは、その目だった。

 幼い子供によくある、キラキラとした輝きが、この子供の目にはなかった。まるで影がおおいかぶさっているかのように暗い。

 そんな子供が、膝立ちする娘の背後から首に腕を回していた。よく見ると手にはサバイバルナイフが握られており、暗闇で妖しく光る。

「お父さん、助けて!」

 娘の涙交じりの声が廊下に反響した。恐怖と混乱で、その声はヒステリックなものになっている。

「だまってろ!」

 子供の怒声には、男ですら怯ませるだけの迫力があった。よくある癇癪などではない。現に娘は顔を引きつらせ、目を大きく見開いている。呼吸を荒くしながらも、言われた通り声を出すことはない。

 それでいいと、男は思った。例え相手が子供でも、下手に刺激してしまうのは得策とは言えない。

「君の要件は、何だ?」

 男はなるべく視線を合わせるべく、廊下の床に膝をついた。まずはこちらに攻撃する意志がないことを伝えなければならない。

 相手は子供だ。このような聞き方は本来なら適当とは言えないかもしれないし「要件」の意味もわかるかどうかハッキリとしない。しかしその気遣いは無用だろうと、男は感じていた。

 何か確信があるわけではない。相手をただの子供とは思えないだけだ。

 子供は鋭い目つきを男に向け、すぐに質問に答えようとはしなかった。

 どれくらいの間があっただろう。やがて子供はゆっくりと口を開き、その幼い声を出した。

「おれを、ここにすまわせろ」

 あまりにも予想外の言葉に、男の思考は一瞬だが停止した。

 雨の音が、先ほどよりも大きくなったような気がした。


                                   (続)

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