二章 イヴとグランツ⑤

 グランツの匂いに包まれたまま、イヴは不思議な夢を見た。モノクロームの装飾が施された広い浴室にイヴはぽつんと一人佇んでいた。

 目の前にはポワポワとたくさんの泡が溢れるバブルバス。初めは見ているだけだったが浸かりたい気持ちになったイヴは思い切ってバブルバスへと飛び込んだ。

 花弁が舞い上がるように、ブワァッと溢れた泡には不思議なことにイヴの知っている人物達の顔があった。

 ポワリ……。

 バブルバスの泡の中から一つのシャボン玉が浮かんだ。そこに描かれていたのは馭者のアンバー。

 まだ幼さの残る少年で、それでも自らの責務をこなそうと邁進している姿が映っている。

「アンバー。まだたくさんお話したことないけど、これから話していきたいわ」

 思った言葉が口をついた途端、パチンと泡は弾けて消えてしまった。だが残り香に不思議なことにオレンジのような柑橘類の香りが周囲に漂った。

「いい香り……」

 頭をスッキリさせるような香りを肺腑の奥にまで吸い込む。

「あら……?」

 次にシャボン玉として浮かんだのは侍女のフローライトだった。長い髪の毛を緩く三つ編みに束ねた女性が慣れた手つきで手早く紅茶を淹れている。

「フローライトが淹れてくれた紅茶も美味しかったわ。コツか何か聞けるかしら」

 そんなことを呟いていると、シャボン玉が再びパチンと弾ける。すると今度は紅茶の香りが周囲に広がり、胸が暖かいものに包まれた。

「ファブリーゼ家の人達はみんな優しくて、いい匂いをしてるのね」

 その事実になんだか嬉しくなる。

 小さな手で泡を掻き集め、フゥと息を吹きかけるとたくさんの泡が舞い上がった。

 そこにはフォスフォフィライトやアンデシン――そしてシンシャがいる。

 優しくてしっかり者のシンシャが働いている姿を見ていた刹那、それは再びパチリと割れ――変わった香りが漂った。嗅いだことのない臭いのはずなのに、頭がそれが“何”で“どんな物”なのかを“情報”として与えてくる。

「シンシャ……?」

 その正体に気が付くと、初めは戸惑った。

 だけれど必ず意味のある物だと信じたイヴは気持ちを落ち着かせる、その意味も兼ねて大きく息を吸い込み、吐いた。

(不思議だわ……)

 それだけで、イヴだけに“伝わる情報”がごまんとある。

 匂い、感情の起伏、害意、敵意、嘘偽り、真実――それらすべてが“証拠ほんとう”のこととして頭に入ってくる。

“匂い”は……“嘘”をつかない。

 それは確信だった。

 そうだ。自分は何もないと思っていた。

 魔法一つ使えない“欠陥品”だと思っていた。

 けれどもしかしたら――あるかも知れない。

 グランツの役に立てることが……“黒豚”と呼ばれたその意味を活かせるかもしれないと、密かにそう思った。

 気付けば周囲は泡に包まれていた。

 そんな中、誰かがイヴを呼ぶ。

 誰かしら……私なんかの名前を呼んでくれるのは――。

 そう思いながら、ゆっくりとイヴは目を覚ました。

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