第3章
第19話
今は梅雨真っ盛りの六月初旬。じめじめとした空気が肌にからみつく午後。
相変わらずモテ期の来ない俺、渋谷圭太は一人寂しく教室へと続く廊下を歩いていた。
実はすでに五限目が始まっていたのだが、俺は授業に出席せず切羽詰まった苦悶の表情で、無人の廊下を一人進んでいる。だがこれは嫌な授業をボイコットしているわけではない。むしろ今日の五限目は是非とも出席したいと考えていたほどの授業――待ちに待った水泳授業なのである。
天河学院は温水プール完備で、運動場が使えなくなる梅雨のこの時期から水泳授業が開始される。それが正に今日の五限目……だったのだが、なぜ水泳好きでもない俺が、この授業を待望していたのか――それは天河学院が男女平等に厳格であることから、常に男女合同で体育をするからに他ならない。そう。水泳の授業では女子の水着が拝み放題であり、こんなビックチャンスを逃すことは許されないのだ。
だがしかし……俺はまだ廊下にいる。
そしてその理由はただ一つ。腹が痛いからだ。
昼に弁当を食べたあとから腹部に激痛が走り出し、トイレに駆け込んだ。そして便座に座って涙しながら始業のチャイムを聞くことになったのだ。
おそらくあの半熟卵が怪しい。『この時期の弁当は気をつけてくれよ』と、母親には何度も忠告したのだが、半熟卵をいれてくるとはクレイジーだ。最初は、誰かの怨みを買って一服盛られたかもと疑ったが、そんなことはあり得ない。真犯人は母親なのだから。
ああそう言えば、『怨み』という言葉から、本屋で絡まれたチョカのファンのことを思い出した。あの一件のあと、彼は病院で診てもらい奇跡的にも美琴に二度も蹴り上げられたナニは無事だったようだ。ただ、後日お礼参り的ななにかがあるかと心配していたのだが、チョカが裏で手を回してくれたようで、担任と学院長立会いのもと親子揃って俺と猫に謝罪してきた。本人はとても不服そうだったが……。
――いや、今はそんなことを思い出している場合ではなかった。
なぜなら俺は早く授業に復帰しなければならないからだ!
幸いにも、なんとか痛みは治まってきた。今ならまだ間に合う――。
そんなことを考えながら、俺は時速百メートルほどの速度で歩き続け、なんとか教室前までたどり着く。そして早く水着に着替えてプールに向かおうと、扉を開けたそのとき、俺の目に入ってきたのは教室に一人残る玲央の姿だった――。
「け、圭太?!」
「あれ? 玲央……。もしかして、待っててくれたのか?」
「え? う、うん……。そうだよ。待ってたんだ」
「なんだ、悪いな。先に行っててくれてよかったのに。もう水着着たのか?」
玲央は体操服の上だけ着ている状態で立っていた。下は上着に隠れて見えないが、すでに水着を着ていたようだ。というのもプールの更衣室は狭いため、水泳部以外は使えないことになっている。そのため授業のときは教室で水着に着替え、体操服の上だけを着た状態でプールに向かうことになっていたのだ。
「も、もしかして、圭太も授業出るの?」
「出るに決まってるだろ? 腹の調子もよくなってきたしな。それに、この二週間で鍛え上げ復活した俺のマッスルボディを女子たちに見せるチャンスでもある!」
「で、でもさ、今日はやめた方がいいよ! 体調悪いんだしさ。一緒に保健室行こうよ」
「大丈夫だって。やばくなったら途中でトイレ行くから」
「でも、もしプールで垂れ流すことになったらまずいよ! モテるどころか卒業するまで『ビチクソぶちまけ男』の二つ名で過ごすことになるよ?」
「なんだよ、それ。高校生にもなってプールで漏らすわけないだろ? 悪いけど、もうちょっとだけ待ってて。すぐに着替えるから」
俺はそう言って制服を脱ぎ終わると、パン一の状態で水着を探し始めた。
しかし、持ってきていたはずの水着がどこにもない。
「あれ? おかしいな。今日は間違いなく持ってきてたはずなのに……」
「水着ないの? 忘れたんじゃないかな……」
「いや、それは絶対あり得ないよ。だって、さっきトイレ行く前に確認したからな。おかしいな。この鞄に入れてたんだけど……」
「勘違いじゃない? もう今日は諦めよ? ね? 女子の水着が目当てなんでしょ? それなら見学してても見れるじゃん。無理しちゃ駄目だよ。ね?」
「でも、それだと俺のマッスルボディが披露できないしな」
「また、次の機会があるじゃん! 今日は体操服で行こうよ。僕も見学つき合うしさ」
「どうしたんだよ、玲央。なんだかおかしいな。まさか、俺の水着穿いてるわけじゃ――」
穿いていた。
冗談のつもりでめくり上げた体操服の下から顔を出したのは、俺の水着であった。
なぜ俺の水着だとわかるのかって? その理由は簡単だ。なぜなら玲央が穿いている水着には『SHIBUTANI』の文字があったからだ。
天河では学院指定水着を着用することになっており、昔、盗難が相次いだため、名前の刺繍が必須となっていたのだ。
――なんて、呑気に言ってる場合じゃない!
なぜだぁ! なぜ、玲央は俺の水着を穿いているんだ!
もしかして……間違えた? いや、そんなわけない!
間違えて人の鞄を開けて、水着出して穿くなんて考えられない!
とすると、もしかして自分の水着を忘れたから? いや、それもあり得ない。
いくら友達でも勝手に水着借りるなんてしないだろ! 百歩譲って借りたつもりだったとしても、サイズ全然違うだろ! 小柄な玲央だと、横からはみ出るだろ!
ということは、俺の水着を穿きたくて穿いたのか?
そんな変態みたいなこと……。変態?
玲央の二つ名は確か『変態』だった……。
いや、いや、違う、違う!
それだけは違うと信じたい! 俺は玲央を信じるぞ――。
俺がそんなことを考えている間も、玲央は両手で顔を隠したまま耳を真っ赤にして、無抵抗で立っている。
そんな玲央を、黙って見ている俺。
俺の水着を穿いている男友達が目の前にいる。
この状況はいったいなんなのだ。
しかしこのまま二人して黙っているわけにもいかない。
俺は混乱しながらも『これは玲央のボケだったことにしよう』という結論に至り、突っ込みを入れようと重い口を開く。
しかし、なぜだろう。
俺は自分でも考えていなかった一言を思わず声に出してしまったんだ。
「玲央……。もしかして俺のこと好きなのか?」
――しまった。こんなこと聞く気はなかったのに――。
「ごめんよ!」
それが玲央の答え。
彼はそう言って、教室から走り去ってしまう。
そのとき一瞬だけ見えた顔は、涙で濡れていた。
なぜ俺はこんなことを言ってしまったのだろう。
追いかけるべきだろうか。
しかし、追いついたとしてなんと声をかければよいのか、見当もつかない。
なにが真実なのか、どう受け止めればいいのか。まるで整理ができていない。
そんな俺が、誰もいない教室で搾り出せた言葉は――。
「俺の水着返してくれよ……」
それだけだった。
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