第7話 血塗れの即身仏
「それじゃあ、2ラウンドね」
ヘッドギアを付けて、あたしは吾妻の待つリングに上がった。吾妻は頭がでかすぎてヘッドギアが入らず、「こんなもんいるか!」とキレ気味にノーヘッドギアで闘うことにしたようだ。JKとはいえ、舐められたものだなって思う。
吾妻はすでに汗をかいていた。クビになったとはいえ、こいつもプロの格闘家だったはずなんだけど……。
まあ、プロって言ってもピンキリだし、重量級だと層も厚くないだろうし、そんな感じでプロになってグダグダな試合をするタイプだったんだろうな。
あたしは無言で失礼全開の推測を広げていた。
そんなこんなで、軽いスパーリングに当たるマスボクシングが始まる。
「じゃあ一回目」
タイマーのブザーが鳴る。
刹那、吾妻が猛ダッシュで駆け寄ってくる。
「おいバカ! マスだって言ってるだろ!」
佐竹先生がいくらかキレ気味に声を上げる。
あたしは動じずに吾妻の突進をサイドステップでかわすと、あっという間に背後へと回り込んで来た。
「やっぱりね」
このぐらい予想はしていた。
この男は表面上マスボクシングに同意したけど、初めからマスなんてやる気がなかったのだ。
きっとだまし討ちの要領で突進して、そのままフルスイングのパンチでKOしてやろうとか思っていたんだろう。後は編集次第で「志崎由奈に勝った!」と動画でイキり散らす。それがこいつのやり方だ。
振り返り、猛ダッシュで迫り来る吾妻。
戦術としては悪くない――それが、俺以外の相手だったらな。
左サイドへ動く――と、見せかけて逆へ行く。
一瞬で、吾妻の視界から姿を消す。
「あ」
彼が何かを言った時、すでにあたしはカウンターの右を放っていた。
スピード重視で放たれたシャープな右が、吾妻の目尻付近をとらえる。
スカっと抜けるような音がした後、時間差で吾妻がグラつく――効いた。
抜けるような感覚。それは、本当に効かせた時に味わう感触だ。大多数のボクサーはこの感覚をキャリア上で数回だけ得て不思議な気分になる。それは競技人生レベルのクリティカルヒットで、まれに出る大当たりを引き当てるようなものだからだ。
――でもね、あたしは何度もその感覚を経験しているんだ。
だって俺は、ジャック。ザ・リッパーだからね。
距離を詰める。
こういうパンチが当たった時は一気にたたみかける。それが勝利への定石。
吾妻の目が飛んでいる。
ジグザグにフットワークで移動して、スピードで翻弄しながら連打を放つ。吾妻のパンチはことごとく空気を切り、巨体がだらしなくキャンバスで揺れる。
かわすと同時にカミソリパンチを打ち込む。
右が来る。
「ぶべえ……!」
吾妻がマウスピースを吐き出しそうになる。
かわいそう?
まさか。
今こそ倒すチャンスとしか思わない。
同情する奴なんて、格闘技には向いていない。
だってここは、弱肉強食の世界だからね。
レバーを打ち抜かれ、吾妻の身体が沈む。
効かされた腹を守ろうとガードが下がる。あたしを前にして、絶対にやってはいけない悪手。
――覚悟しな。
もう一発左ボディーでレバーを打つと、さらに打つと見せかけてパンチの軌道を変える。
下からせり上がる軌道の左フックが、吾妻の顔面を打ち抜いた。
マウスピースが飛ぶ。
吾妻が膝から崩れ落ちる。
そのまま気を失い、膝立ちの酔っ払いのようにゆっくりと前のめりに倒れていく。
うつ伏せの頭部からは、カットした箇所から血が流れていた。まるでライフルで狙撃された犠牲者みたいだった。
マスボクシングのラベルを貼り付けたスパーリング。その結果は、誰が見ても明らかだった。
「あーあ」
佐竹先生が問答無用で止めると、リング内で血塗れの即身仏みたいになった吾妻タツを介抱する。
頭部にダメージを負っている可能性があるため、仰向けに寝かせて休ませた。右目尻には左フックでこさえた切り傷がパックリと開いていた。これは縫わないとダメだろう。
「高い授業料になったな」
佐竹先生が誰にともなく呟く。
現役ではないにしても、元格闘家の男が女子選手に負けたら赤っ恥もいいところだろう。
「まあ、撮れ高はあったんじゃないですか」
あたしは思ったことをサラっと言った。
振り返ると、男子選手たちはドン引きだった。
ちょっとばかりやりすぎたかもしれない。
少しだけ反省したけど、もうだいぶ遅かった。
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