未空 Pre Episode 1 1-1
はっと目を覚ます。静かに揺れる、カーテン越しに差す夕暮れのオレンジ色の光。見慣れた光景。
どうして自分がこのベッドにいたのか理解できなかった。が、すぐに思い出す。あれは昨日? それとも、今日のこと……?
俯き、ずっと顔を上げられずにいた。それでもただ通りを歩いている。
歳の頃は十四、五といったところだろうか。群青色の長い髪、瞳はとても綺麗な、深いルビーのような色を宿している。歳を取った老人もだろうが――主に魔法師が着るような、少し長い膝丈の紺色のローブ、肩にはフード付きの茶色いケープを纏っていた。
場所は商店街……といっても、この交易都市クレイミルの中では小さな方だ。だが決して人通りが少ないわけでもない。
「きゃっ」
案の定というかやはり、俯き歩く少女は通行人と肩がぶつかり転んでしまう。
「だ、大丈夫?」
自分に非があるにも関わらず、ぶつかった相手は優しく手を差し出してくれた。だが、少女は耐えきれないほどの恥ずかしさからその場から逃げ出してしまっていた。
後ろから呼び止める声が聴こえたようにも感じたが、それよりも、自分の至らなさと恥ずかしさで頭がいっぱいだった。
わたしは――謝罪の言葉も発することができないから。
ここはアルテア王国第二の規模を誇る大都市、クレイミル。商業と交易が盛んな港湾都市である。アルテア特有の温暖な気候。今は寒さも徐々に和らぎつつある。だが、地元住民にとってはまだ少々寒さの強い時期だ。
少女は、街を東西に分かつクレイミル川の橋の上に設置された長椅子に腰掛けてた。木製の長椅子は前日の大雨で湿っていてまだ完全には乾いておらず、じわりとローブを濡らす。だけどそんなことは大して気にならなかった。いつものお気に入りの場所なのだ。
水の流れは、その日その日によって表情を変える。普段は穏やか、浅く静かに流れる清流なのだが、今は前日の大雨で少しばかり雰囲気が違う。
そういった日々の変化を眺めるのもまた、楽しかった。
『…この強い流れが、わたしの悲しみを流し去ってくれたならいいのに……』
少女は孤独だった。
いや、孤独なのではない。周囲の誰もが、その悲しみを理解できないだけなのだ。それは少女自身もわかってることだった。
彼女は声を失っていた――ある日突然、言葉ではなく、声そのものが出せなくなったのだ。
そのせいで、魔法師としての将来まで失ってしまった。
同じ苦しみを分かち合うのは、魔法師の名家である彼女の家族でさえ困難だった。
エル・カルドス家。
遡ればアルテア王室の血縁にあたり、代々名だたる魔法師を輩出してきた名門である。
彼女はその家の第二子――リズ=リサ・エル・カルドスだった。
魔法師に声は絶対に欠かせないものだった。集中し、魔術を詠唱し待機を震わせ、魔術源と思念を練り上げて初めて魔法は発動する。
簡単な魔法であれば声を発さず自らの思念によって使うこともできるが、魔法師としては使い物にならないとされる程度の、本当に簡単な具現化でないとまず不可能だ。
周囲の期待は大きかった。
というのも、長男である兄のグレイが名剣士であった彼らの祖父に強く憧れ――祖父は王国の元騎士団長だ――幼少より、剣の鍛錬にばかり明け暮れていたからだ。
魔法師としての跡継ぎはほぼリズに託されていた。兄も、幼少より魔法に長けた自分の存在があったからこそ、自分の憧れを追ってたのだろう。
だから、という理由だけではないが……今も、耐えづらい辛さを感じている。
ふと、かすかな風が頬と横髪を撫でる。
……寒い。
大分暖かくなったとはいえ、まだ冬だ。長居するには少し早い季節だった。
ひとつ、ため息。立ち上がる。
――その、瞬間。さっきとは比べ物にならない程の突風が吹いた。
川を眺められるほうへ長椅子に座っていたリズは、思わず体勢を崩す。
橋には欄干がない――まるで川へ倒れ込むように――引き込まれるように、彼女は川へ落ちてゆく。
下は大雨の名残のこる濁流。来ているのは袖も丈も長いローブ。
落ちる。まるで凍るような冷たい水、それが肌と感覚に突き刺さる。
――だけど、リズはふとどこかでこう思った。
『これでもいいや』と。
――――
「うぶっ!えほっ、がほっ……!!」
「……よし、ひとまず大丈夫!」
リズは横たわっていた。
「自警団は、救護班はまだか!?低体温の可能性は高い、さっき言った毛布は!?」
凛とした少年の声。急に襲う浮遊感。抱き上げられたのだろう。
だが視界も、意識すらも定まっておらず。ぼんやりとしか見ることはできなかった。
「無理するな。キミは溺れてたんだ」
身体の感覚がまるでない。全部が痺れていて、自分の物ではないかのようだ。
少しずつ薄れゆく意識の中で、リズは思った。
あぁ、わたし――助かっちゃったんだ。
それは安堵感にも、残念にも似た、奇妙な感情だった。
ただ視界に捉えた、意志の強そうなエメラルドの瞳だけがその心に残っていた――。
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