第18話:その魔法が解けた後

 その夜、青年はいつもより遅めに宿へ帰ってきました。うたた寝をしていた宿屋の主人は、欠伸をしながら彼を迎えます。


「随分遠くまでほっつき歩いていたようだね、旅人さん」

「ああ、明日の為に色々とやることが多くてね」


 そう言う青年の声は出かけた時より少し明るいものでした。


「ほう。して、どうすると?」

「そりゃあもう、こうするしかなかったよ」


 青年はカウンターの上に幾分かの金を出しました。勿論それは共通通貨ではなく、この都の都市通貨です。


「……どうやってこれを?」

「ここは肉の都だろう。一番価値のある物を売っただけだ」


 宿屋の店主は顔を上げます。青年の右目には、包帯がかけられていました。


「……片方の目を売ったにせよ、雑種ならここまでの価値にはならない筈だ。旅人さん、アンタ一体何者だい」


 青年はその言葉に苦笑します。どこか寂しそうにするだけで、答えを口にすることはありません。


「訳ありと言うことか……何にせよここまでされたら感服するね。なんでそこまであの肉の為に動くんだ。そんなにもアレが気に入ったのかい」

「好みの問題じゃあないよ。結果が気に入らないから自分勝手に動いただけだ」

「そうかい、随分と筋金入りのエゴイストだ」


 宿屋の主人は都市通貨を数えます。ピッタリと、請求額分。それだけの金がそこにずらりと並んでいました。


「あとはあの子を自由にすれば俺の責任は果たせるだろう。明日の朝にはこの都を出ようと思う」

「責任を果たせる?」


 宿屋の主人は笑います。


「旅人さんは甘いねぇ。あの子にも甘いが、詰めも甘い。それで終わると思っているんだから、おめでたいこった」

「……これで終わらない、だと?」


 青年は思わぬ言葉に目を見開きます。


「さぁね。部屋に帰ればわかるんじゃあないのかい」


 領収書を渡した宿屋の主人は、さっさと行けと手を振ります。


「帰りが遅かったから、夕食は無しだよ。明日の朝もチェックは要らない。好きな時間に出るといいさ」

「ああ。世話になった」

「毎度あり。またいつでも来なよ、旅人さん」

「もう片方の瞳も差し出せと? 二度と御免だよ」


 青年は少しふらつきながらも廊下へと靴先を向けました。部屋までの道のりはしんと静まり返っており、物音一つ聞こえません。時間も時間です。少女ももう寝ているのではと青年は部屋のドアを静かにゆっくり開けました。


「…………」


 帰ったよ。いつもそう声をかけて入るのが常でした。しかし部屋の中は真っ暗で伽藍堂。部屋の端には誰もいません。


─ああ、そうか……─


 青年は暫くの間、その暗闇を見つめていました。こうなる事はわかっていた筈です。しかし青年は、心の何処かで『もしかして』を望んでいたのでしょう。

 視線を落として、室内へと入れば、ズキと少し右目が疼きます。麻酔薬入りの義眼を詰めているとはいえ、それが全ての痛みを消してくれるわけではありません。暫くはこの痛みと付き合わなければならないでしょう。

 カタ。その時、微かですが浴室から物音が聞こえました。青年は驚きながら視線を向ければ、ギィと軋みながらドアが開いていきます。


「お、お帰りなさい、ませ、ご主人様……」

「……え⁉︎」


 シャワーを浴びていたのでしょう。浴室から顔を出した少女に、青年は思わず声を上げてしまいます。


「も、申し訳ありません……おかえりになる前に上がるつもりだったのですが、シャワーの調子が少し悪く……」


 オレンジの両眼がしゅんとした様子で青年を見つめます。それと同時に、ポタポタと水滴が床を濡らしました。


「……え、あれ? ご主人様、その目……どうなさったのですか?」

「い、いいからドアを閉めてくれ‼︎」

「あ、あ……‼︎ この身は、また……し、失礼致しました‼︎」


 少女は今更気づいたのか、慌てた様子でドアを閉めます。その様子を見ながら、青年は何が何だかわからない顔をして立ち尽くしました。


「なんでだよ……なんで、逃げていないんだ……」


 彼は正直、少女が逃げ出しているのだと思っていました。明日の恐怖に耐えれず、宿屋の目を盗むなり協力を仰ぐなりしているのだろうと考えていたのです。しかし、少女は律儀にも部屋に残り続けていました。いつものように挨拶を交わす程です。


「大変お待たせ致しました」


 急いで出てきたのでしょう。少女からはまだホワホワと湯気が立っています。


「いや、別に……」


 青年は未だ困惑した様子で、椅子に座ります。時計の音だけが響く空白。少女はずっと青年の目を気にするように不安そうな眼差しを向けています。


「何が一体あったのですか? 事件にでも巻き込まれたのでしょうか?」

「ああ、うん……まぁ、そんなところだよ。ケガと言っても、大したことはない、ちょっと瞼を擦っただけだ」


 青年は少女に悟られないよう嘘をつきます。


「ゆ、夕食……ちゃんと食べれたかい」

「あ、はい。それはもう。今日も残さずいただきました」


 そう言いながら少女はテーブルの端に置いてあった紙包みを差し出します。


「これ、少し……もしも小腹が空かれていたらと思いまして」


 そこには、いつも食べ慣れているパンが数切れ入っています。


「夕食のハムと野菜……挟んで、サンドイッチにしたんです。これなら少しはご主人様のお腹も満たせるかな、と思いまして……」

「……なんで」


 言葉を遮るように、青年が尋ねます。


「なんで君は逃げてないんだ。俺はとっくに何処かへ行ったと思ったよ」

「……ああ、だから今日は特にお帰りが遅かったのですね」


 少しでもその時間を稼いであげたくて。そう察した少女は小さく笑みを浮かべます。


「わかっていたのなら、何故動かなかったんだい。逃げればまだ、君は生き延びることができた筈なのに」


 青年は理解できないと首を横に振りました。


「そうするべきだとも言われましたし、そうするべきだと思いました。でも……そんなことをしたら、ご主人様は困ってしまうでしょう」


 月明かりが差し込む窓。その光の中で、少女の瞳が青年に向けられます。


「この身は肉です。ご主人様の所持される肉。お金になって、栄養になって、それで終わるのが役割です」

「そんな役割、しがみつく必要はないんだよ」


 青年は椅子から立ち上がり、部屋のドアを開けます。そこには、すっかり明かりの消えた廊下が広がっていました。


「ほら、お行き。今なら直ぐに出れるから」

「でも、この身がいなくなれば、ご主人様のお金が……」

「心配はいらない。別の方法でどうにか工面してきたよ」


 少女は何度か瞬きを繰り返します。そして再度青年の顔を見て、何があったのかを悟りました。


「ご主人様……まさか、め、目を……」

「いい。俺がそうしたかっただけだから。気にされる方が傷になる」


 気にせずお行き。そう青年は伝えますが、少女は椅子に座ったまま、カタカタと震えています。


「……どうしたんだい」

「い、いえ……な、何も……」


 少女はそう言って椅子から離れようとしましたが、体に力が入らないようで、うまく立つことすら出来ません。


「……大丈夫かい、君こそ何か怪我でも……」

「そ、そんなことは無いのですが……」


 でも、と少女が短く呼吸を重ねます。


「……何処へ……? 何処へ行けばいいと、仰るのです……?」


 闇の中に消えそうな声。少女は口を塞ごうとしましたが、指先が震えてそれが出来ません。


「何処で何を……? 何の為に生きていけば良いのですか……? この身には帰る場所も、待っている家族も、誰もいません……何の役割を持ってこの先を生きれば良いのですか……?」

「何って……わからなくても良いんだよ。家族が居なくたって、一人でも生きていける。そのうち君のしたいこともわかるだろうし、行きたい場所もきっと見つかる。それこそ、本当の王子様にだって出会えるかもしれないだろう」


 青年は答えますが、少女は泣きそうな顔で首を横に振りました。


「そんなこと、わからないじゃないですか‼︎」


 少女は涙を堪えながら、思わず悲鳴のような声をあげてしまいました。


「ショウウィンドウの中にいる間、誰かが来るのをずっとずっと待ってました。しかし訪れる方々は、みんなこの身を見てくれません。誰かの何かになるまでの間……それはとても心細くて、不安で苦しくて、悲しかったです……」

「……それは、そうかもしれないが……」


 青年は言葉を濁します。少女が言っている事は、彼にも響くものがありました。


「誰にも必要とされなくて、誰の側にいる事もできない時間は怖いです……見切り品コーナーのように生ゴミになるだけの人生は怖い……ここから出れば自由になる事はわかります。でも自由は……自由になってしまったら……何の役割を持たずに死ぬことにも繋がってしまいます……」

「それは……でもだからって、このままここに居ることは出来ないよ。部屋だって、明日の朝には明け渡さないといけないんだ」


 青年の言葉に、少女はしゅんと項垂れます。


「……君ならきっと幸せになれる。君は君が思っている以上に、何にでもなれる素質を持っているんだよ。今はそれが分からなくてで一人で歩くのが怖いだけ。本当の君は何にだってなれるんだよ」

「でも……」


 その言葉に、少女はぽろ、と涙を流します。


「怖いです……何のアテもなく、何の根拠もなく、この身は進んでいけません……この身は今、何の役割も意味も持っていません……何を目指せば良いのかもわかりません……」


 少女は必死に涙を拭いますが、それを抑えることは難しそうです。


「……自由は真っ白ですね……でもそれ以上に真っ暗で、このまま飲み込まれて終わってしまいそうで怖いのです……役割や意味のないまま死ぬのは嫌……そうなるくらいなら、肉として意味を持ったまま死んでしまいたい……」


 お姫様にはなれませんでした。色欲の肉は勿論、食欲の肉にもなれませんでした。沢山の者が彼女に役割を言い渡し、彼女は彼女として生きることを許されなかった反面、窮屈なそれは、彼女の衣服にもなっていたのです。


「……なるほど、な……」


 青年は、宿屋の主人が言いたかったことを理解します。彼は少女が自由になれば、全て解決すると思っていました。しかしそれが彼女の幸せかと言われたら、そうではありません。事実彼女は、役割や意味を丸裸にされてボロボロと泣いています。


「ごめんよ……随分と俺は、酷いことをしようとしたね」

「いいえ、いいえ……ご主人様は、この身に魔法をかけてくれた……素敵な魔法使い様です。無意味な生ゴミから肉に変えてくれた……そんなご主人様に対して、この身はなんてご無礼を……」


 少女は細い腕で涙を拭います。震える肩を抱いて、転けそうになりながらも椅子から立ち上がりました。


「我儘を言ったところで、何もなりませんね……迷惑をかける存在には、なりたくありません……」


 少女は部屋の隅に片付けてあった紙を纏めます。彼女の持ち物は、これだけです。頼りなくか細い、闇の中に溶けて消えそうなその姿。青年はその背中に、ボソリと言葉を溢します。


「……俺は、魔法使いなんかじゃないよ」

「え……?」


 少女は不意に振り返ります。


「俺は魔法使いなんかじゃない。魔法使いの皮を被った人身売買者だ。綺麗事ばかり言って、なんの責任も取れず……都合が悪くなればこうして全てを放り投げるエゴイストだよ」

「そんな……そんなこと……」

「事実、自分の心の整理のために、君の役割を変え続けているじゃあないか」


 その言葉に、少女は視線を落とします。


「俺を含めて多くの者が、君を色々な役にしてきたね。見切り品にしたり、色欲の肉にしたり、シンデレラや食欲の肉にもさせようとした。その全てから解放された『自由の身』になれば、君は幸せになれると思っていたんだよ。

 でもそれも……結局は今までと同じだね。君の事を見る事なく、わかろうともせず、ただただ君以外の者が幸せになる為に、君の役割や意味を変え続けてきたんだね」


 それが魔法だというのなら、何とも重いものでしょう。青年は深く、己の行動を恥じました。


「いいえ、謝らないでください……ご主人様は、とても優しい方でした。この部屋で過ごした日々は本当に夢みたいで……この身はとても、幸せでした」


 だからきっと、自由の身であることも頑張れます。そう笑う少女に、青年は小さく息を吐いて覚悟を決めました。


「……君は、どうしたい」


 青年は少女を見つめます。


「君が君自身の為に、どうしたい。俺のことも他のことも考えず、在るが儘に教えてくれないかい」

「……それは……」


 少女は言葉に詰まります。自由の身は怖い。肉になれば役割と意味を持ったまま死ねる。でもそれが本当に心底やりたい事かと言えば、そうではありません。


「……この身は……」

「うん……」


 肉屋で刻み込まれた魔法が少しずつ解けていくのがわかります。言いたくても言えなかった、考えたくても考えれなかったことが、じわりと心に染み込みます。


「この身は……でも……」

「……君の気持ちがちゃんと知りたい。肉としてではなく、一人の魔人としての君が知りたいんだ」

「……っ」


 青年の言葉に、少女は胸の前でぎゅっと指を組みました。


「……魔人の一人として、生きたいです……」


 弱々しい言葉。しかしそれは、彼女の口から出た本心からの声でした。


「ご主人様が見せてくれた夢……肉ではなくて、魔人の一人として生きること……ぼんやりとしてますが、そう在れたらいいなと思います……」


 それが何の形を持つのか、どんな姿であるのかはわかりません。しかし少女は、確かにそう思ったのです。


「でも、どこで何をしたら良いのかまでは分からなくて……ごめんなさい、結局怖がってばかりで、その……」

「……なら、それを探すかい」


 少女はゆっくり、青年へと顔を上げました。


「そ、それは、あ、あの……その言い方だと、変に聞こえてしまいまして……」

「探せばいい、とは言わないよ。だって君は一人でいるのが怖いんだろう」


 投げ出して突き放すのは、もうやめたい。青年はそう言って、ドアを閉めます。


「嫌なら、ちゃんと言って欲しい。ここは君の故郷だろう。これもまた役割や意味の押し付けになるのなら、今のうちに教えてほしいんだ」

「いいえ、何の心残りもありません、押し付けでもありません」


 少女は勢いよく首を横に振ります。そしてそのまま、青年の元に急いで向かい、頭を深く下げました。


「連れて行ってください、ご主人様。この身はなりたい自分を、やりたい事を見つけたい……自分の求める役割や意味を知りたいのです……その為なら、なんだって言うことを聞きますから……だから、どうか、連れて行ってください……‼︎」


 力強いその言葉に、青年は安心したように微笑みました。


「ああ。君が本当になりたい自分を見つけるまで、一緒に旅をしよう。贅沢はできないけど、その手伝いができるくらいの余裕はあるからね」

「はい……‼︎」


 いつものように、少女は両手を握って頷きます。その姿に青年は目を細めますが、ふっと小さな影が差し込みます。


「……一つだけ……忠告というより、伝えておきたいことがあるんだ」

「……はい、なんでしょう」


 少女は青年の言葉に背筋を伸ばします。


「二ヶ月分の宿代に該当する程に片目が売れた事から、雑種でないことを君も察したかもしれない。それはまさにその通りで、俺の血や生まれは特殊なんだ」

「……ご主人様も、上流階級だと言うことですか?」


 少女の問いかけに、青年はまさかと首を振ります。


「上流階級になるには、総じてその血が秀でていることが条件だよ。俺の場合はそうじゃない……多くの魔人からして悪しき者の血が流れているんだ」

「悪しき者の、血……」


 少女はその意味を聞こうとします。しかし青年の指先は少しずつ震えていました。


「うん……だから、俺と一緒にいると……攻撃を受けたり、非難の声をかけられたり……嫌な思いをさせてしまうかもしれない……だから、その……」


 青年は言葉に詰まり、視線も震え始めます。言い難い事なのでしょう。そう察した少女は、その先の言葉を止めました。


「わかりました。何がどうとは伺いませんが、その事実は受け入れます」

「ありがとう……隠すつもりではないけども、なかなか俺も……自分の事を受け入れ難くて……」


 彼女が肉であることを役割づけられていたように、青年にもまた、己の思わぬ役割や意味を背負っているのでしょう。それが分かっただけでも、少女は充分だと思いました。


「奴隷魔法……明日、肉屋で解除しよう。これからの旅では君と対等でいたいから」

「わかりました。あ、でも……口調だけはどうにも変えるのが難しくて……それだけは許していただけませんか?」


 肉屋で長い間仕込まれていたからでしょう。それが少女にとって楽ならば構わないと青年は伝えます。


「ありがとうございます、ご主人様……いや、ご主人様とお呼びするのも、もう終わりですね」

「そうだね。これからはちゃんと、お互いの事を知り合おう」


 魔法使いでない青年は、己の名前を少女に伝えます。お姫様でもない少女もまた、その名を彼に告げました。

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