第3話「母との時間、未来の私」
母、リディア夫人に手紙を出しても、返事は一向に返ってこなかった。
聞いていた話では、私のことを嫌っているわけではなさそうなのに、それなのに、どうして会うことが許されないのだろう。別邸といっても、隣ではないか。自分がただの無力な少女であることを、思い知らされる。
「ねえ、エマ…」
「はい、なんでしょう、エリザ様?」エマは優しい笑みを浮かべ、私の目をじっと見つめた。
「どうしてもお母様に会いたいのだけど…」
「エマに言われても困ります…」と、彼女はあたふたしながら今にも泣き出しそうだった。私がエマに頼んでも仕方ないと分かっているが、彼女には何かを訴えたくなる。
リディア夫人には、私自身と重なる部分があるのかもしれない。私は子供を産まずに死んでしまった。彼女は、男子を産まなかったというだけで、別邸に追いやられている。そう思うと、「幸せって、一体何なのかしら…」と、つぶやかずにはいられなかった。
するとエマは元気よく言った。「エマはこうしてエリザ様にお使いできて幸せです!」
彼女の言葉に、思わず微笑む。エマは本当にいい子だ。私は彼女の頭をなでると、エマは顔を真っ赤にして照れ始めた。「いつもはエマがエリザ様の頭を撫でてるのに!」と、彼女は騒ぎ出す。そんな彼女のコロコロとした表情を見ながら、私は決意する。待っていても無駄なら、強硬手段に出るしかない。
*
中庭では、エマがあたふたと私を見つめていた。彼女が止めるのも聞かず、私は庭にあるテーブルを足場に、隣の塀をよじ登る。10代の体は、40代の頃よりも遥かに軽やかで、思い切って飛び降りた。
「大丈夫よ!」
とは言ったものの、勢い余って体が地面にダイブする。「べちゃ」という音が響き、私は思わずスカートの汚れをはたいた。視線を上げると、美しい中庭の奥で母リディアが立っているのが目に入った。少し緊張しつつも、勇気を振り絞って彼女に声をかける。
「お母様!」
驚いたようにリディア夫人は振り返り、私の姿を見ると目を見開いた。「え、エリザ?どうしてここに?」その目は驚きつつも、私に向けられる暖かさがあった。
「お話がしたくて…」
リディア夫人の表情が少し和らぎ、「まあ、こんな風に自分から会いに来るなんて、あなたも大人になったのね。」と微笑んだ。その表情は、記憶の中の母よりもどこか柔らかで、彼女に寄り添う気持ちが湧いてきた。
思わず聞いてしまう。「どうして、お父様と結婚なさったの?やりたいことがあったんじゃないの?」
一瞬驚いた表情のリディア夫人だったが、すぐに少し遠くを見つめるように目を細めた。「それはね、複雑な話なのよ。あなたも16歳だから、もう話してもいいかしら?」そう言う母の声には、どこか寂しげな懐かしさが滲んでいた。
「私たちの結婚は、政略的なものだったわ。」
その言葉に、私は息を飲んだ。政略結婚という現実が、温かな家庭像を冷たいものに変えていく。しかしリディア夫人は続けた。「でも、時が経つにつれて彼の厳しさの中にも優しさがあることに気づいたの。あなたが生まれて、私たちは少しずつ、形はどうあれ家族としての絆を育ててきたのよ。」
彼女の話に耳を傾けているうち、リディア夫人が持つ強さが私の心に染み入る。初めて見えたその姿に、私は自分もこうして家族と向き合うべきだと思わされる。新しい人生での自分を見つけることができるかもしれない、そんな希望が胸に芽生えた。
思い切ってもう一つ質問をする「今は別邸で暮らしているけど、お母様は寂しくないの?」
リディア夫人は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んで答えた。「ぜんぜん寂しくなんてないわ。エリザがこうして会いに来てくれたもの。私も今度こっそり会いに行こうかしら!」
エリザの心に小さな灯りがともったようだった。想像していた以上に力強く、明るく微笑むリディア夫人を見て、エリザは彼女に対する印象が変わっていくのを感じた。
リディア夫人は優雅な手つきでティーポットから紅茶を注ぎ、エリザの前にカップを置いた。その瞬間、エリザは気づいた。リディア夫人の手は決して細やかさだけでなく、どこかしっかりとした力強さを持っているようだった。
「さあ、ゆっくり話しましょうか。」リディア夫人はエリザの方に体を向け、穏やかに微笑んだ。その笑顔には、さまざまなことを乗り越えてきた女性の包容力が感じられた。エリザも少しリラックスしながら、母の趣味や過ごした日々についての話に耳を傾けた。
夫人が語る思い出話には、生き生きとした色彩が宿っていた。リディア夫人は多趣味で、多くの知識を持っており、エリザの知らない世界の話が次々と飛び出す。リディア夫人が語る世界に引き込まれ、エリザは時折、目を輝かせて身を乗り出して聞き入った。リディア夫人が本を読み漁っていた若い頃の話や、絵画を描き始めたきっかけ、料理へのこだわりなど、どれもエリザにとって新鮮だった。
気づけばあたりは薄暗くなり、風が少し冷たく感じられるようになっていた。「もうこんな時間、すっかり暗くなったわね。」リディア夫人がそっと言ったその声に、エリザは我に返る。
リディア夫人がゆっくり立ち上がり、エリザに手を差し出すと、少しおどけた様子でエリザの体を抱き上げた。「うふふ、あらまぁ…ずいぶん重くなって」と言いながら微笑む。
母の腕に支えられた瞬間、エリザの胸に温かな感覚が広がる。それは、何かに守られている安心感と、自分もまた母のように強くなりたいという憧れが交じり合ったような感覚だった。
「気をつけて帰りなさい。」リディア夫人が軽く微笑みながら、そっとエリザを塀の向こうに送り出した。エリザも振り返りながら、「はい」と頷き、別れを告げる。
「よっこらしょ。」と勢いよく塀を飛び越えた瞬間、待ちわびていたエマの声が響いた。「エリザ様~~~心配してたんですよ!」
「ごめんなさい。それにしても、エマ…何時間ここで待ってたの?」エリザはエマに駆け寄り、心配をかけたことを詫びた。
「いいんです、無事に戻られて…お話はできましたか?」エマがほっとした表情で問いかける。
「えぇ、とっても楽しい時間が過ごせたわ。」エリザは微笑んだが、ふと胸の奥にわだかまりが残っていることに気づいた。手紙について、リディア夫人も何通か送っていたが、どれもエリザに届いていなかったのだという事実が重くのしかかる。
その後も、エリザはエマと共にリディア夫人の話をし続け、ふと思いついてエマに「ねえ、エマ。お母様って今何歳なのかしら?」と尋ねた。エマは少し驚いた様子で、「ええと、42歳ですが、どうしてですか?」と答えた。
エリザの心には、複雑な感情が渦巻いていた。彼女は、前世の真央としては45歳で亡くなり、人生のすべてを捧げたことを思い出した。今この瞬間、彼女は16歳の若さを持っているが、どうしても年齢というものが影を落としてしまう。自分が生きた年数と、母が生きた年数が交錯し、不安がよぎる。
「…エマ、私もお母様のようになれるかしら?」
エマは驚いた表情で振り返り、「もちろんです!あなたは素晴らしい素質を持っていますから、奥様のように素敵になることができますよ。」と励ました。
エリザはリディア夫人の話を聞きながら、彼女が持つ優しさや思いやりが、自分にどう影響するのか考えた。もしこの人生で、リディア夫人のような思いやりを持つことができれば、周囲との関係も変わってくるかもしれない。エマの言葉が耳に残る。「私たちにも優しいですから」。エリザは、過去の自分が築けなかった関係性を思い描き、今度こそその絆を大切にしようと心に決めた。
「これが本当に私の幸せにつながるのか」と自問自答しながら、エリザは一歩踏み出す勇気を持つことができた。リディア夫人が自分に寄せる期待や、自身の新たな役割に対する戸惑いはあったが、今度こそは自分を犠牲にするのではなく、周囲との関わりを大切にしながら、自分自身の幸せを追求することを決意したのだった。
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