第3話 何かに取り憑かれた男
男の名は
年齢はやはり四十代で、親から継いだ商店を一人で営んでいるらしい。
既婚者だが子どもはなく、十年前に妻が通り魔に殺されてからは、ずっと独りで暮らしているという。
「十年前、当時の首相がテロで亡くなる事件があったでしょう。警察の方ならご存知だとは思いますが、あのすぐ後から、この辺りでも無差別に人を襲うような事件が増えたんです。きっと模倣犯でしょうね。私の妻を襲ったのもそういう人間でした。犯人は捕まりましたが、似たような輩は今でもそこらじゅうに存在します。何の罪もない人に危害を加えるような、生きる価値もない最低の人間。そういう輩を見ると、ついカッとなって、思わず手が出てしまいそうになることがあるんです」
妻を殺された悲しみと、自分勝手な犯人への怒り。
そこが原点となって湧き起こる、度を超えた正義感。
先ほどの鉄板焼きの店での一件も、おそらくはそれの延長線上だろう。
まさかそんな過去があったとは知らず、斉藤の話を聞いていた栗丘も、段々と彼のことが気の毒になってきた。
「お気持ち、お察しします。ですが、やはり手を出してしまっては傷害になりますから、そこは感情を抑えていただかないと」
「そこなんです。私だって、本当は揉め事なんて起こしたくない。でも、抑制が効かないんです。本当に、まるで誰かに操られているような気がして」
精神科医でもない栗丘にとって、斉藤の悩みを解消させる術はなかった。
やがて西の空は夕焼けに染まり、斉藤は「そろそろ飼い猫の御飯の時間なので」と席を立つ。
結局、数時間かけて彼の悩みを聞いただけで、特に何の収穫も成果もない午後を過ごしてしまった。
何の助けにもなれなかった自分の不甲斐なさを思いながら、栗丘は帰路につく斉藤の背中を交番の前まで送り出す。
と、彼らが外に出た瞬間、目の前の道を全速力で走ってきた人物が栗丘の右肩にぶつかった。
「うおッ!?」
「きゃっ!」
栗丘とほぼ同時に、短い悲鳴が上がる。
その甲高い声から察するに、ぶつかってきたのは若い女性だった。
「やーん、ごめんなさぁい!」
衝撃で前のめりになった栗丘の脇を、甘い声がすり抜ける。
栗丘が見ると、その正体は十代半ばほどの少女だった。
一瞬だけ目を合わせたその顔は、小ぶりな八重歯が印象的な美少女だった。
ハーフツインに結われた長い髪は所々にピンクのメッシュが入っており、服装は黒を基調としたパンク系ファッションだ。
ぺろりと舌を出した小悪魔っぽい笑顔に一瞬で魅了された栗丘は、ただただ見惚れて言葉を失い、そのまま走り去っていく少女の背中を呆然と見送る。
だが、
「ひったくりだ!!」
一部始終を隣で静観していた斎藤が、突如として大声で叫んだ。
「えっ?」
半ば放心していた栗丘はその声にハッと我に返り、尻ポケットを探ると確かにそこにあったはずの財布がない。
青ざめる栗丘の脇を、斉藤は目にも止まらぬ速さで駆け抜け、あろうことか前方を走っていた少女の髪を引っ掴んだ。
「きゃあああッ!?」
「この泥棒め! 観念しろッ!!」
華奢な少女を後ろから羽交締めにした斉藤は、彼女の細い首をギリギリと締め上げる。
「ちょちょ、斉藤さん! やりすぎですって!」
慌てて止めに入った栗丘の腕を、斉藤は片手で払いのけた。
「邪魔するな! この女は極悪人だ。多少は痛い目に遭わせないと、この先も何度も同じことを繰り返す!」
その剣幕は、先ほどの彼とはまるで別人だった。
両目を見開き、歯茎を剥き出しにして、抑えきれない怒りを全身で表している。
「斉藤さん?」
尋常ではない、と思った。
それこそ先ほど本人が言っていた通り、まるで何か悪いモノに取り憑かれているようにしか見えない。
(それに、この感じ……)
微かに感じる、この世ならざる者の気配。
栗丘の第六感が告げるそれは、幽霊や妖怪といった類のモノが今この場に存在していることを示していた。
(でも、一体どこに?)
辺りを見回しても、それらしきモノの影は見当たらない。
まさかこの斉藤という男がそうなのか、と考えてみるが、目の前にいる彼はどう見ても普通の人間だった。
もしも彼がそういう存在なら、彼のことは栗丘以外の誰にも認知されないはずである。
と、栗丘があれこれ思案している内に、盗人の少女は斉藤の腕をすり抜け、再びその場から逃走を図った。
「くたばれ! このクソ親父!」
「あっ、こら待て! まだ裁きは終わってないぞ!!」
「斉藤さん、一旦落ち着いてください!」
少女の後を追おうとする斉藤を、栗丘は今度こそ引き留める。
途端、それまで鬼のような形相だった斉藤は、ふっと全身の力を抜いたように急に大人しくなった。
「あ、いや。すみません。私……また、どうかしていたみたいです」
一瞬前までとは打って変わって、急にしおらしくなった彼の様子に、栗丘も戸惑う。
もしかしたらこの男性は、想像以上に厄介な人物かもしれない。
その後も「すみません」と謝罪の言葉ばかり繰り返しながら、斉藤は帰路に就いた。
「大丈夫かな……あの人」
とぼとぼと力なく歩く初老男性の背中を見送りながら、栗丘は誰にともなく呟く。
その背後から、
「気になるかい?」
と、不意に至近距離から聞きなれない声が降ってきた。
「って、おわあッ!?」
まさか背後に人がいるとは思わなかった栗丘は、飛び上がるようにして後ろを振り向く。
「だっ、誰!?」
そこに立っていたのは、紺色の羽織をまとった和装の男だった。
肩まで伸びる黒髪には艶があるが、季節外れの扇子を持った手はそれなりに年季の入ったシワが刻まれている。
おそらくは五十近い年齢だろう。
すらりと伸びた立ち姿は育ちの良さを感じさせるが、その顔面は、祭りの屋台で見かけるような狐の面によって覆い隠されていた。
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