第2話 交番はお悩み相談室じゃありません

 

          ◯



 まるで警戒心もなくスヤスヤと安らかに眠り続ける白い獣を、胸ポケットに突っ込んでから約三十分。

 栗丘がデスクで報告書をまとめていると、現場に当たっていた藤原が気だるげな足取りで戻ってきた。


「ちーっす。ただいま戻りましたー」


「お、おかえり藤原。どうだった?」


 後輩に対処を任せた手前、気まずい後ろめたさからわずかに声が強張る。

 対する藤原はちらりと栗丘を一瞥すると、はぁ、とわざとらしく溜め息を吐いてから言った。


「とりあえず現場は落ち着きましたよ。すぐそこのビルに入ってる鉄板焼きの店です。客同士が揉めてたんすけど、周りが仲裁に入ったみたいで」


 報告によると、どうやら最初に揉めていたのは一組の夫婦で、夫が妻に手を上げたところを別の客が止めに入ったらしい。

 そこで逆上した夫が暴れそうになったのを複数人の客が取り押さえたのだとか。


「一人だけ、ちょっと過剰防衛に当たりそうなのもいましたけど。最終的には丸くおさまったんで、特にそれ以上こちらが介入する必要はないかと」


「そ、そうか。奥さんにケガは?」


「見た感じは特に何も。本人も大事にはしないでくれと言ってましたし。俺が駆けつけたときにはすでに旦那さんが取り押さえられた後でしたから」


 すでに現場はおさまり、被害を訴える人間も皆無。

 確かにそれならこれ以上の捜査は必要なさそうだ。


「わかった。お疲れ。あとは報告書だけ頼むな」


 特に目立つような被害がなかったのなら何よりだ。

 そう安堵して再びデスクに向き直った栗丘に対し、


「センパイって、この仕事向いてないっすよね」


「え」


 唐突に投げかけられた言葉に、栗丘は固まった。

 数秒遅れて、デスクの隣に立つ後輩を恐る恐る見上げると、そこに見えた顔はあからさまに侮蔑の色を滲ませていた。


「警察官って、市民の安全を守るのが役目っすよね。そういうのって、市民からある程度の信用を得た上で成り立つものだと思うんすよ。でもセンパイの場合、まず見た目からして難しいっすよね。事件や事故が起きたとき、見た目が中学生くらいの子どもに助けてもらおうって考える大人はそうそういないっすから」


 藤原の言わんとしていることは、栗丘も重々承知していた。

 子どものような見た目で、一見して頼りないというレッテルを貼られてしまう自分に、街を守る警察官として市民に頼ってもらうことは難しいのだと、自分でも痛いほどによくわかっている。


「こうして二人一緒に勤務してても、結局は俺が一人で対応するしかないじゃないですか。正直、あんたと組まされるのってすげーしんどいんすよね」


 返す言葉もなかった。

 自分のせいで後輩に迷惑をかけているのは火を見るよりも明らかである。


「センパイって、出世欲とか無いんすか? このままだと一生階級もそのままっすよ」


「……出世はしたい、けど」


 出世はしたい。


 出世して、たくさん金を稼げるようになったら、そのときは……。


 脳裏で、育ての親である祖母の顔が過ぎる。

 たくさん金を稼いで、最先端の治療を受けさせることができれば、いつかはまたあの優しい笑顔を見れるかもしれない。


 それに——。


「すみませーん。いま大丈夫ですか?」


 と、不意に弱々しい声がそこへ届いた。


 栗丘と藤原が同時に見ると、交番の入口から申し訳なさそうに顔を覗かせている人物がいる。

 痩せ気味の、四十代くらいの男性だった。


「あ、さっきの」


 藤原が言って、栗丘は二人の顔を交互に見た。

 どうやら先ほどの現場で顔を合わせた人物のようだ。

 藤原は相手に聞こえないよう、栗丘の耳元で囁く。


「さっき言ってた、ちょっと過剰防衛っぽかった人です」


 過剰防衛、という響きから、もう少し荒くれ者のようなイメージを抱いていたが、実際に現れた人物はどこか覇気のないくたびれた初老男性だった。


「どうしたんです? また何か問題でも起きましたか」


「いやあ、すみません。さっきのとは関係ないんですが、せっかくだから、ついでにちょっと相談に乗ってもらいたくて……」


「はあ」


 藤原がカウンターで対応すると、男性は何やら人生相談のようなものを始めた。

 自分は元より正義感の強い人間だったが、最近はどうもそれが高じて、人様の悪事を見るとつい手を出しそうになってしまうとか。


「はあ、その。悪いんですけど、ここは交番なんで、お悩み相談室じゃないんですが」


「す、すみません。でも、最近は本当に悩んでいて……。このままだと、いずれブレーキが効かなくなって、いつか誰かを殺してしまいそうな気がするんです」


 男性は心底困った様子で泣きついているが、藤原は「うちも暇じゃないんで」と突っぱねる。

 やがて諦めて帰ろうとした男性の背中に、栗丘はここぞとばかりに声を上げた。


「よ、よかったら俺が……私が話を聞きます!」


 後輩が匙を投げたのなら、そんな時こそ自分の出番である。

 栗丘が胸を張って対応を代わろうとすると、


「ええと……。キミは、ここでお手伝いか何かをしているのかな?」


 男性が不思議そうに聞いて、隣で藤原が小さく吹き出した。


「センパイ。悪いこと言わないんで、こういう奴とはあんま関わらない方がいいっすよ。どうせ大した悩みでもないんだろうし、変に甘やかして付きまとわれたら後々面倒なんで、時間の無駄っすよ」


 藤原はそう耳打ちしたが、栗丘は折れなかった。


「そんなの、ちゃんと話してみないとわからないだろ。それに、たとえそうだとしても……市民を守るのが警察官の役目なら、どれだけ嫌なことでも目を背けちゃいけないんじゃないのか?」


 都合の悪いことから逃げてばかりでは、警察官は務まらない。

 自分なりの誠意を振りかざして栗丘が言うと、藤原はこれみよがしに盛大な溜息を吐いた。


「なら勝手にしてください。俺は、わざわざ自分の邪魔になりそうなものにまで手を出したいとは思わないっすけどね」


 ほとんど吐き捨てるように言って、藤原は自分のデスクに戻った。


 栗丘は改めて男性の方へ歩み寄り、にこりと営業スマイルを浮かべる。


「こんななりでも、私はれっきとした大人で、警察官です。よければ私に話を聞かせてください」


 男性はまだ半信半疑のようだったが、それ以外に相談する術はないと察したようで、栗丘のすすめたパイプ椅子に腰掛けると、つらつらと語り始めた。


「ここ最近、先月あたりからなんですけどね。時々、自分が自分じゃないような、まるで別人になったかのように感じるときがあるんですよ」


「自分が、自分じゃない?」


「ええ。さっきの店でもそうでしたが、自分の意思がまるで無視されるような、抑制が効かない状態になってしまうんです」


「えっと、それは……失礼ですが、何か心に抱えているものがあったりとか、そういうことでしょうか」


「病院での検査では特に問題はないんです。脳も正常でした。でも……」


 男性は神妙な面持ちで俯きながら、何かに怯えるように、震える両手で頭を抱える。


「怖いんです。自分がそのうち、まったく別の誰かに成り代わられてしまうような……。何か、説明の付かないもの——幽霊のようなものに取り憑かれている気がして仕方ないんです」

 

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