土埃を掻き分けて触れた君の温度が、

 階下で割れる怒号に耳を塞ぐ。

 それでも胸に響く雑音が、あたしはずっと痛かった。

 制服から着替えて、いつもと違う恰好になる。そうすることで少しでも現実から離れたかった。雑音を遠ざけて、あたしはただ歩く。

 堀ちゃんに電話をしようと思ったけど、やめた。先週泊めてもらったばかりで、ちょっと、連絡しづらくて。

 ふらふらと歩いて行った先の公園のベンチ。誰もいない秋の夕暮れ、その静けさにあたしは胸が締め付けられる。

 座っても、耳を塞がなくていい時間。あたしはそれに無性に腹が立って、涙で服を濡らした。

 その後のことはあまり覚えていないけれど、気づいたらかなりの距離を歩いていて、知らないお店の前に立っていた。そういえばお腹が減っていて、甘い香りがあたしをここに呼んだんだろうか。

 なんとなくお店に入る。ケースを眺める。

 その中にあるが何か、あたしは分かるつもりで、でも全く情報が入って来なくて。店員さんを困らせたくなかったから、適当に指をさした。結局それじゃあ店員さんに伝わらなくて、逆に迷惑になってしまった。

 あるかどうかもはっきりしなかったけれど、とりあえず「お団子」と言ってみて、あたしは気づいた。その声の、重さに。


「うっ……」


 何がきっかけだったかは、分からない。

 でも、あたしはもう立っていられなくて、止めどなく溢れる涙をぬぐう力も出なくて、ただその場にうずくまった。ああ、気持ち悪いかな。怖がられるだろうな。迷惑だろうな。

 あたしは人の無関心さを知っているつもりになって、胸中に渦巻く自責の言葉で次々と自分を傷つけて――


「お、お姉さん……っ、大丈夫ですか!?」


 だから、店員さんがいちもにもなく駆けつけて優しく、優しく背中を撫でてくれたのに、最初は驚いて。次に、背中に触れたその温度の心地よさに、あたしはどうしようもなく、また涙が出て。

 痛みを伴わない温度が、懐かしくて。


 顔を上げて、あたしは声を失った。


「――!え……ごめんなさい、あたし」


 店に入った時は気づかなかった、この店員さんはクラスメイトの――後ろの席の、佐崎さん、佐崎澄泉さんだ。プリントを渡す時に少し話すくらいのその子。

 同級生に見られた、気を遣わせた。

 その事実にあたしは申し訳なさと恥ずかしさで胸が苦しくなって――


「――い、いえ。大丈夫ですか?」


 でも、佐崎さんは気づかないふりをしてくれた。

 お茶を持ってきてくれて、しばらく隣に座って落ち着くまで背中をさすってくれて。その温度に、距離に、あたしは救われたような気持になって。

 何も聞かずにただ寄り添ってくれていることが、ありがたくて。せめてお団子を買わなきゃと思って立ち上がったあたしは、着の身着のまま出て来たからお金を持っていないことに気が付いて。


「いいんです。泣いた後は、甘いものを食べたら――えっと、あんまり詳しくないから分からないけど、多分いいはず!な、なので」


 そんなあたしに佐崎さんは自分のまかないをくれた。わたわたと手を振りながら、ヘンテコな理由をつけて。

 あたしはその様子が面白くて、久しぶりに、ちゃんと笑えた気がする。


「ありがとう。嬉しいよ、


 そう言って、あたしは佐崎さんに心から、お礼を言った。


「はい。もしよかったらまた遊びに来てくださいね」

「――うん。また、来るね」


 最後まで「小山ひかげ」だと気づかないふりをしてくれた佐崎さんが何気なく言ってくれたに、あたしは再び救われる。また、ここに来ていいんだと――

 あの場所から、逃げてきていいんだ、と。


「……佐崎さん。もっと、お話、出来たらな」


 今度はお客さんとしてじゃなく、友だちとして。


「明日連絡先、聞いてみよう、かな」



――2回目にお店に行った時も気づかないふりをしてくれた佐崎さんに、あたしは確信した。

 多分、佐崎さんは「お姉さん」があたしだと気が付いていないなって。だからあたしは、ずるを、した。

 「お姉さん」として佐崎さんと仲良くなるきっかけを作れたら、って。


「うん、大丈夫だよ。きっと、喜んでくれるから」


 遊びに誘ってみたら、とアドバイスをした。自分から誘って、断られるのが怖くて。誘ってほしくて、遊んでみたくて。

 もっと仲良くなりたくて。

 優しくて素敵なこの子のことを、あたしはもっと知りたくて――



「……だからね、佐崎ちゃん。あたし、佐崎ちゃんと仲良くなれてすごく、嬉しかったんだよ」


 具体的な事情と自分の本当の気持ちを隠して佐崎ちゃんに説明したあたしは、震える指先を寒さのせいにして、佐崎ちゃんの手を握る力を少し強くした。ああ、帰りたくないな。このまま、佐崎ちゃんと居たいな。

 あたしは、この瞬間が永遠になればいいなと、思ったんだ。



※※※



 私は、こんな当たり前のことにも気づかなかった自分を、恥じた。

 憧れるばかりだった小山さん。大好きな小山さん。

 小山さんだって、今を生きてる。学校だけじゃない場所で、必死に今を。

 ただ目を奪われて表面しか見ていなかった私が、何が、か。小山さんは私には分からない存在じゃない。同い年の、同じ子どもで。

 だから、


「――

「……ぁ」


 私はもう、伝えたいことに迷わない。


「私は、ひかげちゃんにずっと憧れてた。そのポニーテールが好きで、笑った顔が好きで、声が好きで、いつも私を引っ張ってくれて、嬉しくて、素敵で、かっこよくて」

「さ、佐崎ちゃん……っ?」

「――だから、ね。私はひかげちゃんが笑っている所を見たい。ひかげちゃんが笑えなくならないように、私が、傍に居たい」

「――ささ、き……ちゃん」


 小山さん――ひかげちゃんに握られたままの手を私は離して、それから、ひかげちゃんの肩に腕を回した。正面から、まっすぐに、抱きしめた。

 ああ、やっぱり。ひかげちゃんの背中は小さくて、熱くて。


「私、ひかげちゃんの力になりたい。だから、出来ることがあったら何でも言って」


 私は自分の偽らざる本心を、ひかげちゃんに囁いた。

 反応は返ってこなかったけれど、そっと私の腰に回されたひかげちゃんの腕がもう震えていなかったから、分かる。ひかげちゃんの熱が、確かに伝わって来る。


「……あたしも名前で、呼びたい」

「うん。呼んで」

「――澄泉すずみちゃん」

「うん。ひかげちゃん」


 多分、いま、私たちは本当の意味で友だちになったんだと思う。けれど私の心はすでにひかげちゃんとその先に進みたがっていて。

 ひかげちゃんが私をどう思ってくれているのか私はあえて、考えないようにした。


「……今日は、大丈夫?」

「うん。たまに、しか。帰ってこない、から。でも――お願い。出来る時でいいから、寝る時、声、聴かせて」

「うん。分かった。ひかげちゃんから掛けてくれていいからね」


 私にこの気持ちを教えてくれたひかげちゃんから、笑顔を奪わないで欲しい。


 ひかげちゃんは私たちの熱が溶けて1つになるくらいまで、ずっと、ずっと、離れなかった――

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