風はハーブをささやく

小余綾香

1章 パースリーは死とともに

第1話 葬儀より

 パースリー、セージ、ローズマリー、タイム、そして、パースリー。


 墓に寄り添い無数の小花けぶらせる青草を、パースリーと見分けることは十歳のジェーンにはできなかった。あの時、膝を折ったのは、そよぐ緑が自分より亡き母を悼むかに見えたからだ。赤毛を包み隠し、背筋を伸ばして葬儀に臨んだ少女は最後そっと礼を取らずにいられなかった。

 都から遠く土と水に隔てられた地の、冷たい夏。

 若くして世を去った伯爵夫人の酷く寂しい弔いに、王の香り爪弾く乙女ハーブ・ストゥルーワーが列していて、その姿に目を留めることなど彼女に想像できるはずもない。

 しかし、もしそれを知っていたとして。選べるならば同じことをするか、ジェーンは追憶の中に問う。


「選んで欲しい。私の手を取るか、宮廷から下がるか」


 王太子が一歩、踏み入った。いつにも増して剣呑な眼差しは、それが最後通牒と告げている。威儀いぎ保つ人の無表情が、その鋭いグレーの目が最早、心の蕩揺とうようを隠せていなかった。

 ジェーンはゆっくりと瞼を閉じる。あの夏のない年の夏は彼女を去らない。



 これから陸路が続くと告げられた日の馬車の中、衣擦れと香草の匂いが揺れた。見上げるヘーゼルの瞳に微笑みかける声が風に溶けてジェーンの耳へと届く。


「なぜ私のお誘いを受けられましたの? そのお歳でご家族と離れて都にいらっしゃるのは、とても勇敢ですわ」


 その言葉に彼女は小首を傾げた。ジェーンは親元を離れるべく育てられ、それに疑問を持ったこともない。『都の侍女になれるように』と知る限りを伝えようとする母は母というより教師であったし、いつも何かに追われている父も父より貴族で、余り親しんだことがなかった。


「冬には十一になります。十二で侍女になるのは珍しくないと聞きました。母はミス・モードをお呼びするため、旅立ったのかもしれません。み心の儘にと思っております」


 するすると答える彼女をモードはじっと見つめる。


「レディ・ジェーン、侍女になりたいですか?」

「はい。俸給を頂き、弟達を助けたいです」

「そうですか」


 車窓に湖が現れ、鈍く艶めく水面みなもが彼女達のまなこに宿った。二対の瞳はどこか似た揺らぎを湛えている。水辺を過ぎる内、また先方に湖ある光景は、発ったばかりのジェーンの故郷と重なり、遠くへ行く実感は彼女からむしろ薄れて行った。

 そんな時、不意にモードが窓へと身を寄せる。


「あら。止めて……私は少々、野に下りますが、馬車でお待ちになります?」

「いいえ、ご一緒させてください」


 思わず目を丸くしたジェーンだが、すぐに姿勢を正し、同行者に従おうとする。モードは笑みと共に頷くと、驚く程、身軽に馬車を降り、黄ばんだ草原くさはらを掻いた。ジェーンが従者ヴァレットに降ろされる間も彼女は野へ分け入ってしまう。土塊つちくれに足がつくやジェーンは急いで草々へ飛び込み、佇むモードに追いついた。


纈草ヴァレリアンだわ。この近くでは夏の初めに皆、霜枯れしたようでしたのに。運の良い子ね」


 自分に語られているのか、他の者に対してかジェーンはそっと窺ってみる。しかし、誰に話すでもなく溢れた言葉らしく、彼女は恍惚として仄白い花々くゆらせる子供の背丈程の青草を眺めていた。

 草叢くさむらに向かいモードは一瞬、胸の前で手を組むと、ひざまずいて泥に沈むのも気に留めず、ヴァレリアンの根元を掻き分ける。


「ミス・モード!?」

「どうぞ遊んでらして。私はこれを掘りますから」


 当然のように言い、モードはまた土を丁寧に指でさらう。従者に差し出されるいくつかの道具を迷うことなく使い分けて行く彼女を前に、戸惑いながらジェーンはその傍らへ慎重に歩み寄った。


「お手伝いを……」

「では、この株を優しく傷つけないよう支えてください」


 見上げるモードの目が神秘的に輝く。それに高まる鼓動を感じながらジェーンはヴァレリアンと呼ばれた草々を喪服の胸に抱き止めた。青みに淡く甘さが匂う。


「持ち帰られるのですか?」

「一株だけね。他の大きな子達はここに残して小さな子は村へ届けましょう。今夜、私達がお世話になる村です」

「村で必要なお花ですか?」

「この辺りのお家には大抵ヴァレリアンが植っていて万能薬と信じる人も少なくないですね。夏にそれが枯れて不安な人もいますわ。安心させてあげましょう」


 彼女は語りかけながらも手を動かす。モードの掘る旺盛な緑の一叢ひとむらをジェーンは弟を抱き上げた時のように抱えてみた。泥と草と花の匂いは混じり合い彼女に沁みて来る。

 やがてモードはそのヴァレリアンを地から上げて引き取った。土塊の崩れ落ちるその株を従者が更に受け取り運び出す。ジェーンの黒いドレスの泥を見て、モードは声をかけた。


「汚れてしまいましたね」

「ヴァレリアンは折っていません。大丈夫です」


 彼女は笑顔でスカートの裾をもたげると布のたるみに掘り上げられた小さな株を拾い集めて行く。それをモードは見つめていた。


「お心がけに敬服しますわ、レディ・ジェーン。手も服も令嬢が容易に汚せるものではありませんもの、たとえ侍女の教えを受けられていても」


 彼女はジェーンの背に手を回す。温もりが冷えた体を導き、二人は馬車へと進んで行った。


「すぐ就ける仕事は手を傷め、そうでないものは心を痛めると思ってくださいね。私は守護天使ではありません。都の困難が大きくとも私に授けて差し上げられるのは処世と少しの機会、香草の心得くらいです」

「はい」


 すぐに返った素直な返事へ困ったように目を細めた後、モードは悪戯っぽく微笑む。


「では最初のレッスンです。ジェーン、都人の言葉をすぐ信じてはいけません」

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