ぼくのお母さん
ヨリコ
ぼくのお母さん
ガタガタン、何人かの怒号、そしてガラスの割れる音が階下から聞こえた時、僕たち家族三人は2階のイタリアンレストランでメインディッシュのトマト・ポークを食べ始めたところだった。父さんは手を止め不安げに入り口の方を見る。このレストランの入り口へは、階下の宝石店から出て左側、つまり店に向かって右側にある階段から上がってこられる。周りの客も不安げに手を止めていると、ドタドタいう足音に加えパンッと乾いた音がした。思わず母さんを見ると目が合い「大丈夫よ」と微笑み、すっと伸びてきた手に軽く背中を押されたかと思うと僕は、テーブルの下に転がり込んだ。
「おい、とりあえず火消せ」とキッチンから声がし、その後すぐに入り口ドアが乱暴に開いた。「手を挙げろ」。
この狭い店内で今何が起きているのかはすぐに想像できたが、長いテーブルクロスに遮られて外の様子は見えない。床にはさっきの前菜で落としたレタスの破片、そして目の前の父さんの膝は震えている。母さんの方を見ると、僕に向けた左手が『待て』の合図をしている。
しばらくボソボソと低い声で会話が続き、キッチンから何人かが歩いて出る足音。その後「女性を残し、あとは出ていってもらう」と大きな声が響いた。少し間を置いて、周りの客が立ち上がる気配がする。「そんな…」とお父さんの震える声、そして「あなた、慧をお願い。私は大丈夫。」と母の声。促されてゆっくりと下から出ていく。そっと店内を見回すと、2メートルほど離れた所に真っ黒の服に覆面の男が銃を構えて立っている。犯人は食堂に三人、キッチンにひとりの全部で四人だ。各々銃やサバイバルナイフを持ち、両手を挙げたスタッフや客を無言で出口へ行進させている。
キッチンにいた男性スタッフは2人、そして今夜来ていた客のうちカップルの彼氏、老夫婦の夫、うちと同じ三人家族の父親と高校生ぐらいの娘、そして一番最後にうちのお父さんと僕が歩いて続く。僕の前の娘さんが出口に向かったとき「そいつは女だ、置いていけ」と犯人に言われたけど「家内はまだ席にいる!」とその子の父親が声を上げ、号泣した娘を見た犯人は仕方なく「行け」と言った。
ふと父の顔を見上げるとわなわなと唇が震えていて、繋いだ手は汗でびっしょりだった。僕はといえばテレビで見たような現実ではないような不思議な気持ちでそんなに怖くはなく、お母さんの方をそっと振り返ると、目が合った。狭い階段を順番に降り最後のお父さんが一階に着くと、その後ろにいた腹面の犯人は階段の途中に立ったまま天井から鉄格子をガラガラと降ろし、閉めてしまった。
遠くから鳴り響くサイレン、救急車も見える。ふと一階の宝石店を見るとショーケースやドアが割られ、出口付近にはたくさんの血が落ちていた。血溜まりの中倒れた人を介抱する人、店内で電話をかける人―。レストランに置いてきた人々が心配で、皆それぞれ2階の窓を見上げた。
のちに警官から聞いた話によると、宝石店に強盗に入った五人のうち一人は逃げ、残る4人が2階に立てこもってしまった。一階宝石店は店員3名のうち2名が撃たれ、1名が重体、もう1名は意識不明。現在、2階レストランに人質として残されたのはイタリアンレストランの女性スタッフ1名、カップルの彼女、老夫婦のおばあさん、女子高生の母親、そして僕のお母さんの五人だ。
みるみる現場はたくさんのパトカーに囲まれ、人質の家族は真っ青な顔のまま、それぞれが警察に状況を聞かれる事になった。野次馬やテレビクルーも増えつつあり、あたりは次第に騒然としてくる。ここに至り、僕は急に怖くなってきた。すぐ横で「妻を、早く助けてください!犯人は銃やナイフを持っているんです!」と警察に掴みかからんばかりの父を見て思わず震え、もう一度2階を見上げた。お母さんー。
「君、平野ケイくん?」と声を掛けられ振り向くと、婦警さんらしき女性が肩から毛布をかけてくれた。「可哀想に、怖かったよね。」。そして父親2人に「子供さん達の体調を先に、救急車で確認させて頂きます」と声を掛け、僕と女子高生について来るよう促した。不安げにこちらを見るお父さんに「大丈夫」と頷いてみせ、隣でまだ肩を震わせて泣く女子高生にハンカチを差し出した。彼女は「ありがとう」と小さな声で言ったけれど「お母さん…」と言ってまた泣き出した。婦警さんについてゆっくり歩くその道中、左右で警官が「逃走経路を封鎖」とか「被疑者の氏名を確認中」、「現在の安否は」などと話す中「なんでガイジが来てんだ」と話す声を耳にし、僕は思わずそちらを振り向き尋ねた。「え、犯人ってテロ組織なんですか?」。
聞かれた警官たちはびっくりした顔で「いや、詳細はまだわからないけど…ボク、よく知ってるね」と言った。
外事警察ぐらい、知ってるよ。6年生舐めんなよ。
男性たちがレストランから立ち去ったあと、女性たちはレストランの片隅に集められた。携帯電話とテーブルの上のカトラリーは全て回収され、サバイバルナイフを持った犯人が歩きながら私たちを監視している。キッチンの裏手にも外階段がある様だが、そこには銃を持った犯人、店内出入り口のドアに立つ犯人も銃を持っている。レストラン中央、少し離れたところに座る犯人が今回の指示役らしく、外部にいる仲間と連絡を取っている。どうやらこの周辺を上から眺められる場所におり、警察の動きを詳細に伝えている。
…せっかくのデート、こんなはずではなかった。交際三ヶ月を迎えいよいよ結婚も視野に入れていたが、先ほど彼が席から立ち店から出て行く時、犯人に恐れ慄いてこちらを見ようともしなかった。その背中に向けて思わず名前を呼ぶと「ごめん」とこちらを見ずに言われた。我先にと逃げたのである。…私はとにかく自己肯定感が低い。これで彼と別れたらまたゼロから…と思い、涙が出てきた。もちろん犯人は怖いけれど、そのせいだけでなく暗澹たる気持ちだった。10分、20分と時間が経つにつれどんどん凹んでいく。
「あの、座らないんですか」と不意に犯人に声を掛けたのは、隣にいた女性、子供のお母さんだ。「私たち人質は、もう逃げようもないでしょう」とため息まじりに言うと、監視役の犯人は少し考え、ナイフを手に構えたまま横にあった椅子を引っ張ってきてどっかと腰かけた。後ろの指示役はちらとこちらを見たが、何も言わない。犯人の要求は逃走経路の確保だというが、さて、警察が黙って逃がすだろうか。そもそも優秀な日本の警察から、逃げ切れるのだろうか…と、その時。サッと隣で誰かが立ち上がったと思うとヒュンッと空を切る音が側で聞こえ、見る間に電気コードが見張りの犯人の喉に巻きついた。そしてちょうど指示役達から男の影に隠れる中腰の形で、見張り役の首を締めている。ぐぅっと変な音がした。どきりとして指示役を見ると、入り口の見張りと何やら話していて気づかない。意識を失った見張り役の手元のナイフが床に落ちる寸前に私はさっと受け取り、後ろに隠した。ギリギリギリ…と首が締まり、ゆっくりと頭が下に落ちそうになったと思うと、もう一度ヒュッと首から離したコードを今度は犯人の体に巻き付け、椅子に固定させた。覆面で表情は見えないが、死んだのだろうか…。時間にしておよそ30秒ほど、魔法のようにコンセントを操り、鬼の形相で犯人の首を絞めたのは…男の子のお母さんだった。
女子高生のお姉さんとは別の救急車に乗った。中の医者に怪我がないかなどあちこち見てもらっていると、婦警さんに入れ替わりスーツの男性が乗り込んできた。周りの警察がちらちらとその人を見ている。「救急車をあと2台」と指示を出し、視線を遮るようにドアをバンと閉めると「ケイ君だね」とにっこり笑った。
その救急車をあと2台、というのがどういう意味なのか、もしかして今もうすでに怪我人が出てしまったのか、お母さんは無事なのか、などと急に不安に駆られ考えていると、「怖かっただろう、大丈夫?今、とりあえず人質は無事なようだよ」と、その人はまたにっこり笑った。
「あの…あの、僕のお母さんキレるとすごく恐いんですけど、目が悪くてぼーっとしてるし鈍臭くて体も小さいし…犯人に、1番にやられると思うんです…。」。話していると不意に眼鏡のお母さんの「行ってらっしゃい」と言う笑顔が浮かんできて、涙と鼻水が溢れてきた。その男の人は神妙な面持ちで頷きながらティッシュを渡してくれ、すぐ隣で聞いてくれている。
「しかもさっき、ちょっと昔のこと思い出しちゃって」と、不意に頭に甦った思い出を話し始めた。
今から7年前、お母さんのママ友、つまり僕の友達のお母さんが事故で亡くなりました。左に曲がってきた四駆の車に巻き込まれた事故で、僕の友達は自転車から歩道に放り出されて助かったんだけど、そのお母さんは服か何かが引っ掛って車道に引っぱり出され、その上を四駆が通りました。つまり友達の目の前で、お母さんは轢かれたんです。お葬式で棺桶の窓がしっかり閉められていたのは、誰にも見せられる状態じゃなかったから。もし、もし…さっきの犯人が僕のお母さんにもひどい怪我をさせたら…。そこまで話したところで唇が震え、声が続かなくなった。涙が止まらない。
その刑事さんらしき人はじっと話を聞き、「うん…お母さんの事、心配だよね。」と、肩を抱き、ぽんぽんと頭を叩いてくれた。またティッシュをくれる。
その時、不意にその人の携帯が胸元で鳴った。
「はい、サカモト。…ええ、ええ、はい。そう、ニコラだ。ちょっと待って」と話していた携帯から耳を離すと、僕に尋ねた。
「ごめんあの、お母さんさ、どんな腕時計してた?」
見張りの犯人が首を絞められ意識を失っているのに仲間が気づくのは、時間の問題だった。「それ、借りていい?」とさっきのお母さんが小声で言う。頷いてそれ、すなわちサバイバルナイフを恐る恐る手渡すと、受け取ったお母さんはメガネを掛け直し、ふう、とゆっくり息を吐き、指示役、入り口見張り役が共に向こうを向いた瞬間…すっくと立ち上がり、キッチンの方に向け力一杯ナイフを投げた。ドン!と鈍い音に続きガァッという変な声、崩れ落ちる音。間髪入れず靴を脱いだお母さんがすごいスピードでキッチンの方へ走り込んだかと思うと、続いて大きな男性の声が聞こえた。
「お前、よくも裏切ったなー!」
えっ?機械みたいな声??
「何、何の声だ」と慌てた指示役が「お前はここに」と入り口見張り役に声を掛けキッチンに向かうと、奥に崩れて苦しむ仲間の喉にはサバイバルナイフが深く刺さり、夥しい量の血が流れていた…。
「お母さんの腕時計?多分、昔から変えてません。お父さんにプレゼントされたのも大事にしまったままで…なんかゴツメの黒いのです。」。
そう、とにっこり笑ったサカモトさんはもう一度携帯を耳に当て「うん、S A Tは少し待って」と言って電話を切った。
そういえばテーブルの下の僕に左手で待ての合図をしていたお母さん、右手で腕時計を細かく叩いていた。その時はイライラしてるのかなと思ったけれど…どういうこと?と目で尋ねる僕に、サカモトさんは逆に聞いた。
「本当は事件発生時の様子を聞かなきゃいけないんだけど…君のお父さんはさ、どんな人?」
お父さん?えっと…ですね。父は大学の事務所で経理の仕事をしています。学生さんの月謝のこと…とかかな。父と母は確か本屋で偶然出会って意気投合して、結婚しました。お母さんは僕を産んでからも警備会社で働いてて出張の多い仕事だったけれど、お父さんは大好きなお母さんが帰るまで一緒に頑張ろうと、留守番の時は料理も洗濯もしてくれました。母がもし「今日のカラスは白いね」と言えば父もそうだねって賛成しちゃうぐらいお母さんが好きで、家族が一番大事なんだって…よくそう言ってました。
そこまで話すと、また涙が溢れてきた。
サカモトさんは微笑んだり頷いたりしながら僕の話を聞いていたけど、次に思いもよらない事を言った。
「お話ありがとう。申し遅れました、僕は外事警察の坂元といいます。昔、君のお母さんと一緒に仕事をした事があってね。」
何事かとキッチンに入った指示役の背後から、隅に隠れていたお母さんが飛びかかり左腕で首を絞めた。右手にはカトラリーのナイフを握っている。いつの間に持っていたんだろう。その時パン!と乾いた銃声がし、お母さんの頬の横を銃弾がかすめた。入り口を張っていた仲間だ。迷わず私ともう一人のお母さんはそちらへ突進し、老婦人と女性スタッフはキッチンの方へ走った。不思議と怖くはなかった。怒りが勝っていたからかもしれない。驚いた入り口の仲間はさらに二発発砲し、それがもう一人のお母さんの肩と、私の足に当たった。火が出るような熱さ。あっという間に私は転んだが、母は強し、女の子のお母さんは止まらない。ラグビー選手のように犯人にタックルをかまし、手から銃が飛んだ。私は夢中でそれを拾い上げ…両手で犯人の顔に向けた。「動くな!」
無我夢中、見よう見まねだったが、もちろん人生初の経験だった。
キッチンでもパン!と発泡音がしたが、猿のように犯人の肩まで登ったお母さんは、後ろから犯人の髪を掴み、ナイフで顔や首を刺していた。犯人の左手を女性スタッフが抱え込み、被弾しながらも血だらけで右手を掴んでいたのは、老婦人だった。
ついにドサリと犯人が倒れた音がし、女性スタッフが「大丈夫ですか!?ねぇ、しっかり!」と泣きながら老婦人を抱き抱える。そしてその横でゆらりと立ち上がった黒い影…真っ赤な血で汚れた男の子のお母さんだ。
「…。」分厚くて大きなメガネの下で爛々と光る黒目。全くの無表情だが見開かれた目はキョトキョトと何かを探し、パチリとこちらに視点が合った。視線を固定したままキッチンから出てくると、血だらけの右手に銃、左手にサバイバルナイフを握ってゆっくりとこちらへ歩いてくる。完全にタガの外れたその姿に鳥肌が立ち、体がすくんだ。隣にいた女の子のお母さんが震える声で「嘘でしょ」と呟いた…その時。隙を見て私から銃を奪った犯人が「来るな!」と叫び…お母さんを撃った。
パン!という乾いた音の一瞬あと、顔を撃たれたお母さんは、体ごとレストランの隅に吹き飛んだ。
「え、お母さん、実は刑事なんですか?」という僕の質問にちょっと違うなぁ、と答えると、サカモトさんは何かを考えているふうだった。
慧の母親上野由美、通称ニコラが初めてインターネット上に姿を現したのはちょうど2000年、彼女が18の時だった。国際的なハッキングの捜査をしていた捜査官がごく僅かな足跡を見つけ追跡をしていたところ、そのパソコンが突如乗っ取られ、これ以上追わないよう警告が出た。集めたデータはサーバごと砂のように消え、つまりその足跡は罠だった。後に、警察に対しそれを仕掛けたのが若干18歳の女性と判明し、更にその捜査官からのメールを開けた仲間のデータも、ことごとく消されたり流出したりした。工学部出身の母の影響か、ゼロからでもパソコンを作れるニコラ。世界でも数えるほど優秀なハッカーだったが、ある時その腕前ゆえ高額な金を扱う危険な仕事に巻き込まれ、闇の世界の秘密を知りすぎた彼女は身の安全を図る必要が出た。世界各地で自分を追い殺しに来る者と戦い、なんとか生き延びた彼女が帰国後警察に逃げ込んだ時、顔や体には打撲痕、撃たれた足は治療されないまま膿み、右肋骨が2本と左上腕部が折れていた。その後治療を受けながら何年か警察に勾留されていたが、結局その後は警察の協力者となった。ニコラに頼めば相手がロシアだろうがCIAだろうが、どんな情報でも取ってくる。彼女にとって電子空間は庭であり、機密という言葉は存在しなかった。ちなみに逃げていたニコラとリトアニアで出会い、日本警察への出頭を勧め、帰国の手配をしたのは僕だ。
当時精神的にも肉体的にも満身創痍だった彼女を、僕と友人は忍耐強く治した。それはニコラの持つ人並外れた能力への、純粋な興味からだった。その後次第に回復した彼女は名前と顔を変え、静かに生活を始める。『警備会社』でホワイトハッカーの仕事を続けていたが、慧の言う通り、彼女はある日書店で恋に落ちた。「命を賭けて守りたい」と熱望し、築いた家庭。子を産み、傍目にも平和で穏やかな生活だっただろう。
しかし7年前、彼女は数少ない友人を事故で亡くす。轢かれたのは保育所帰りの自転車の親子、轢いたのは夜の街へ向かうヤク中が運転する四駆だった。轢き逃げをした犯人を警察は全力で捜したが、捕まる前に何故か下水道から惨殺死体で見つかり、さらにその四日後、ヤクを売った売人のアジトが何者かに爆破された。…これは昔からだが、ニコラは怒ると何をするかわからない。過去を調べてみると、彼女の周りでは何人もの人物が不審な死を遂げていた。そして今回、せっかく穏やかな生活を手にしたニコラはまたしても、事件に巻き込まれてしまった。
すっかりニコラの事を忘れていた僕にとって今日の事件は夕方、帰宅する車内で突然腕時計と携帯が震える事で始まった。車を寄せ確認すると画面が『メーデー!メーデー!メーデー!ニコラニコラニコラ』と繰り返している。カバンの底から黒い箱を出し、特殊なwi-fiに合わせる。これはその昔、僕と友人のマリオ、ニコラの3人で使っていた連絡法だが『アクセプト、ロン』と返すと自動的に携帯が繋がった。音声を聞いてみると、「あなた、ケイをお願い。私は大丈夫」と聞こえた。とうとう敵に居場所が見つかったかと思ったが、モールスによる事件の詳細によると、ニコラを殺しに来たわけではなさそうだ。たまたま現場近くにいたマリオとも情報をシェアしながらそれぞれ急行し、今に至るという訳だ。そしてこの救急車に乗る前、『3人の死者と、何人かの怪我人が出るが主犯は生かす。あと20分で出てゆく』と連絡があった。現在の時刻は8時12分。少し前からあたりが騒がしくなっている。
慧にはとりあえず僕の身分とニコラとの関係を言ってみたものの、彼女の血塗られた過去を子供に話すわけにはいかない。お母さんの無事を教えてあげたいが、さてどう伝えるかな…。
サカモトさんと話しているうち僕はだいぶ落ち着きを取り戻し、事件の様子を色々と思い出していた。あの時…レストランの下の階から妙な物音がした時、お父さんは険しい顔で入り口をじっと見つめ、お母さんは持っていたナイフをサッとランチョンマットの下に隠した。そして僕をテーブルの下に隠したあと『待て』をした左手の腕時計を右手で叩いていた。すごいスピードで。お父さんの膝は震えていたけど、お母さんの膝の上では途中から携帯電話が通話中になって、画面にはR O Nと出ていた。その後テーブルから出てきて見たお母さんの顔…眼鏡の下の真っ黒で大きな瞳はまるでガラス玉みたいで、表情のない人形みたいだった。最後に振り返った時、僕は確信した。お母さん、ものすごく怒ってる…。
「ちょっと、車から出ようか」とサカモトさんに促され救急車を降り、先程の建物の方に並んで歩いていく。
「ロンちゃーん」と言う声にハッと顔を上げると、右前方でスーツの男性が手を振っていた。「はいよ」とサカモトさんが手を振り返すとその人は、何やら口を動かしながら顔の右前で手話のような動きを始めた。サカモトさんはじっとそちらを見ている。
全くもう、ロンちゃんではなく坂元と呼べ、と内心イライラしながらマリオの口唇と手話を読み、3人死亡、重傷者が二名、他にも怪我人がいる事を確認した。ふむ、逃げた最後の1匹はビルの上にいたのか。
マリオは手話を終えるとしばし感慨深そうに慧を見つめ、さっと手を挙げると踵を返して現場を去った。
『ロンちゃん。僕たちが守ったニコラに、家族ができたんだね』。
マリオを見送ると、モールス後半の文章を思い出した。
『私に何かあれば家族を頼む』。
今回ニコラが我々に助けを求めた1番の目的は、それだろう。最後にもう一度、メッセージを確認した。
「慧君、君に言っておく。今回お母さん達もご家族も、みんな運悪く大変な事件に巻き込まれた。それぞれの時間を台無しにされ、とても危険な目に遭わされた。だからもし犯人に何かあっても、それは正当防衛だと思う。実際今回の強盗犯は銃器や刃物を複数持っており、過去に何人も殺していた。普通に考えると、生きてレストランを出られる状況ではない。でも多分お母さんは無事だし、事件はもうすぐ解決するよ。」
本当ですか?とパッと顔を上げると「ケイ君、こんな時だけど、君に会えて良かった。お母さんに目元がよく似てるね」と言って、今度はしっかりとハグしてくれた。背が高くておしゃれで優しくていい匂いがするサカモトさん。整った笑顔は百点満点だ。きっと外国語もたくさん話せて、すごく仕事ができるんだろう。
それでも、お母さんはお父さんを選んだ。とにかく全力で信じ、愛してくれるお父さんを。
「サカモトさん、加奈子さんは今、僕のお母さんです。もし昔のこととか知りたくなったら、お母さんに直接聞きますね。」
おっ、と驚いた顔のサカモトさんは「なんと、賢いな。」と言い、頑張れよ!と背中を叩いてくれた。
遠くから僕の姿を見つけ「慧!」と呼んだ父の顔は疲労困憊で、涙の跡がいくつも見られた。お母さんを心配して、また涙ぐんでいる。と、その時。店の横のシャッターが上がり、人質が順番に出て来た。足を引きずったり肩を押さえたり、みんなあちこちが血で汚れている。そして最後に老婦人を支えながら降りてきたお母さんも、ずいぶんと血で汚れていた。
警官達がいっせいに建物になだれ込み解放された人質は、みんなそれぞれ救急隊や警察に保護され、家族や恋人と再会した。他の人の怪我の場所や様子を伝えていた母は駆け寄った僕らと目が合うと「心配かけたね」と小さな声で言った。「加奈子、加奈子。怪我は?怖かっただろう。僕こそ置いていって本当にごめん!」父は救急隊にも僕にも構わず、母を抱きしめた。
「血が付くよう」と笑ったお母さんが手に持っていたいつもと違う瓶底メガネはレンズが大きく後ろがゴムになっており、右のレンズが撃たれたみたいにヒビだらけで割れていた。笑顔のお母さんから受け取ってみると、ものすごく重たかった。そうだ、と振り向いてサカモトさんにお礼を言おうとしたけど、その姿はもうどこにも無かった。
事件の詳細は後日、新聞やテレビで大きく報道された。
19時50分、閉店前の宝石店を狙った犯行、20時30分には警察が突入し、最小限の被害に留められた。どうやら犯人同士の仲間割れが生じたらしく、裏で待機していた突入部隊も裏切ったな!と言う声を聞いている。犯人は3人死亡、残る1人は耳元で銃が暴発したのか両耳の鼓膜が破れ、左目を刺されていた。その後罪状認否を含め何かに怯えて全く話せず、治療先の病院のベランダから飛び降りてしまった。流れ弾や打撲など怪我をした人質たちは皆犯人の仲間割れを証言したが、怖くて隠れていて何も見ておらず、しかも記憶が曖昧なのだと口を揃えた。
そして僕の家には、平和が戻った。お母さんは何故か首がムチウチになっていたが、それ以外に大きな怪我はなかった。友達や先生はすごく心配してくれて、事故や事件、天災って突然巻き込まれるんだね、と話しながら毎日の生活に感謝するようになり、お父さんはますます頑張っている。あの事件についてもう話すこともないけれど、僕はまた一つ思い出した。
7年前のひき逃げ事故のあと、母は山梨の祖父のところに出かけた。留守番の僕とお父さんに信玄餅を買って帰ってくれたけど、何やら重たそうなトランクを下げて帰ってきた。おじいちゃん元気だった?と聞いた僕に、母は笑顔で言ったんだ。
「おじいちゃん元ヨウヘイだから元気なのよ、名前はコウヘイなんだけどね」と。傭兵、という意味がわからないまま、もう忘れると思った?小さい子って、案外変な事を覚えてるんだよ。
学校からの帰り道、友達と別れて一人になった僕は、高く高く透き通る夕暮れの空を見上げた。
R O Nさんはどうして僕に正当防衛の話をしたんだろう。いつかお母さんに、サカモトさんと話したよって言ってみようか。彼の優しい笑顔と温かい手も思い出したけれど、色々全部胸にしまって、家へと走り出した。
ぼくのお母さん ヨリコ @yoriko
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