笑顔の日
誰だろう、と思い千尋に問う眼差しを向けるけれど。千尋も、嬉しそうに微笑みながら案内するような仕草と共に夫に続く。
紗依は思わず矢斗と顔を見合わせてしまう。
しかし、時嗣と千尋の様子からして、紗依にとって何がしかの意味がある客人である様子だ。表情からして、恐らく良い客人なのだろうと思う。
矢斗もまたそう思ったらしく、一度頷いてから立ち上がると紗依へと手を差し出した。
ありがたく手を借りながら立ち上がった紗依は、裡に問いを抱いたまま、矢斗と共に時嗣達に続く。
上機嫌見える時嗣と千尋に導かれた先にあるのは、確か日頃客人を通す際に使われている座敷だったはず。
『会わせたい御方』はそこにいるのか、と紗依は訝しみながらも足を進め。
既にその場に先客がいることに気付いた紗依は、どなただろうと目を細め――そして、目を見張った。
全身を雷に貫かれたような衝撃が走り、紗依は凍り付いたように動きを止めた。
座敷には一人の女性と、それに従う従者らしき姿があった。
女性は気品ある姿勢を崩さぬままに座して、静かに紗依へと優しい眼差しを向けている。
紗依は、その女性に見覚えがあった。
とても、とても懐かしくて、慕わしい女性だった。
何時も会いたいと、共にまた暮らしたいと願っていた人だった。
悪意にて失ってしまったと思っていた、大切な、大切な‥‥…。
「お母様……?」
目の前の出来事が信じられないというように、恐る恐る。
目の前にあるのは焦がれる心が見せた幻で、大きな声をあげたなら消えてしまうのではないかと恐れるように、小さな声で。
紗依は震える声で、その女性を――あの日が永の離別となってしまったのだと思っていた紗依の母を呼んだ。
「紗依……」
母は目に涙を滲ませながら、万感の思いを込めて紗依の名を呼ぶ。
かつて自分を呼んでくれた、優しい声。大切なよすがだった、温かな声。
耳に届いた震える声が確かに現の響きを伴っていることに気付いた瞬間、紗依は弾かれたように母に縋りついていた。
「お母様……っ! お母様、生きて……生きていらして……!」
崩れ落ちるようにして縋りついた先に母の確かな感触を覚えながら、紗依は泣いた。
夢かと思いながらまるで幼子のように泣く紗依を、母の温かな腕が抱いてくれる。
夢じゃない。
お母様はここに居る。生きて、こうして触れることができて、自分を抱き締めてくれている。
母に縋り泣く幼子のような自分を、紗依はもう止めることはできなかった。
母は窘める言葉を口にしているけれど声は震えていて。涙の気配が滲むものだった。
二人の様子を見守っていた千尋は、そっと目頭を拭い。矢斗は少し茫然として、時嗣へと戸惑いと問いを含んだ眼差しを向ける。
「時嗣、これは……」
「紗紀子様を殺すように命じられた下男が、密かに自らの家に匿っていたんだ」
紗依が北家に出された後。
もはや生かしておく必要はないとして、紗紀子は美苑の命を受けた者の手により玖瑶家を連れだされた。
そのまま密かに殺されるはずだったが、小さな救いがそこにあった。
「何でも、昔病の母を助けてもらった恩義があったらしい。恩人を殺すわけにいかないと、紗紀子様の死を偽装したんだ」
従者のように傍に控えていた男は、時嗣の言葉に頷きながら語った。
彼の母がかつて病に倒れた際、薬を贖うことができずに絶望していたのを救ってくれたのが紗紀子だったと。
紗紀子が、渋る夫を説き伏せ薬を買う金を援助してくれたおかげで男の母は持ち直した。
大恩ある女性をどうして殺すことができようか。男に迷いはなかったという。
しかし、ただ殺した、だけでは到底美苑達は信用しないと分かっていた。
故に紗紀子の死を偽る為、心苦しくはあったが紗紀子の髪の一房と、彼女が何よりも大切にしていた守りを証として持ち帰ることにした。
男の言葉と持参したものに美苑たちは納得したらしく、それ以上の追及はなかった。
その後、男は妻の手を借りて紗紀子を自らの実家に匿い続けていた。
そしてその事実に辿り着いたのが、あらゆる手を使って紗依の母親の行方を求めていた時嗣達だった。
「出来ればそのまま再会して頂きたかったが。紗紀子様の容態があまりよくなくてな。落ち着かれるまで少し時間がかかった」
ただただ母の胸に抱かれ泣き続ける紗依を見て、少し苦笑いを浮かべながら時嗣は言う。
すぐ紗依に引き合わせていれば、紗依が絶望し鵺に捉われかけることもなかっただろう。
だがそれが出来ぬ程に、時嗣達が見つけ出した時の紗紀子の容態は思わしくなかった。一時は、生死の境を彷徨う程だった。
このまま再会させたとしても、喜びはすぐさま絶望に変わりかねない。
そう思った時嗣と千尋は腕の良い医者を集め、治癒に長けた者を呼び寄せ。各地から多くの薬を求めた。
水面下にてあらゆる手を尽くし、生死の境にあった紗紀子を繋ぎとめることに成功した。
そして北家の所有する別宅にて養生を続けてもらい。容態に関して医者の太鼓判を得て、漸く紗依を引き合わせることが叶ったのだという。
童に戻ったように泣きじゃくる娘の背を撫でて宥める母は、自らも涙を抑えることができない様子だった。
途切れることなく流れ続ける娘の涙を必死に拭いながら、一言一言を噛みしめるようにして紡ぐ。
「北家のご当主が、紗依を北家の祭神の花嫁に迎えて下さったと聞いて……。私の紗依が、幸せな結婚をするのだと、聞いて……」
だからこそ、危うい死の淵にあってもこの世に留まり続ける力を得られたと、母は涙交じりに語った。
母の願いは、紗依だけを愛し守ってくれる人と幸せな結婚をすること。そして、それを叶えることこそ、紗依の夢だった。
けれど、母は不遇のまま殺されてしまったと聞いていて。母を安心させてあげることができなかった。悲しいまま、死なせてしまった。
その事実が、紗依の中の消えない棘となっていた。
涙を拭う母の細い指を感じる度、棘が塵となり消えていくのがわかる。
今度こそ本当に、躊躇うことも憚ることもなく、幸せを感じることができる……。
母は、紗依を愛しさの籠った眼差しで見つめる矢斗へと視線を向けた。
玖瑶家の正しい血筋である母には、伝えずとも矢斗が誰であるのかわかった様子だった。
「この方が、貴方の……?」
敬いの滲む眼差しを矢斗へと向けていた母は、紗依に問うように声をかける。
母の言葉を聞いて、紗依は矢斗を見て。矢斗もまた、紗依を見つめ。
視線を交わした二人は喜びに輝く笑みを交わしあった。
そして。
「はい」
紗依は、母へと向き直ると静かに頷いた。
傍らに居住まいを正して座した矢斗と手を取り合い、お互いを慈しむように見つめ合いながら。
愛する母へ、確かな声音でその言葉を紡いだ。
「この方が、私の愛する夫です……!」
揺らぐことのない確かな愛の言葉が紡がれて、喜びの涙は、喜びの笑みとなり。
笑みに笑みが返り。そして、また一つ笑みが咲く。
麗らかな日差しのもと、母と娘は再び互いを取り戻した。
それはあまりに幸せと優しさに満ちた光景だった――。
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