魂となっても
これから姉に慶事があるようにさえ言ってのける苑香に愕然としながら、紗依は自分が感じた恐れが現実となることを知る。
そこまでして、と愕然とする紗依を、小屋にいた男達が下卑た笑みを身ながら見ていた。
苑香達親子が紗依を目障りに思っていたのは知っていたけれど、こんな真似に及ぶほど憎まれていたのかと思えば寒いものが背筋を伝う。
このまま自分は為す術もなく遠い地へ売られるしかないのか。
紗依の顔からすっかり色は失せていた。
震えださないように必死に自分を叱咤していたけれど、愕然とした面もちのまま何ひとつとして返す言葉を紡げない。
恐らくサトにした言伝は、あの女が無かったものとしているだろう。
北家の人々にすれば、紗依は何も言わずに姿を消したことになる。
何も残すことなく自分が姿を消したとしたら、母は。北家の人々は、矢斗は。
抱いた申し訳なさや様々な感情で歪む紗依の顔を見て、苑香はなおも笑って告げる。
「分不相応な立場を申し訳なく思ったお姉様が、自ら姿を消した……という置手紙をしてあるから。安心して生き地獄を味わってね」
残酷なまでの明るさと無邪気さで紡がれた悪意に、紗依は唇を噛みしめて異母妹の顔を見た。
華やかで人目を奪う程に美しい苑香は、歪んだ矜持を毒として込めた壮絶な笑みを浮かべて姉を見下ろしている。
「さあ、貴方達。さっさとこの目障りなものを連れて行って頂戴」
美苑の言葉に、それまで黙って事の成り行きを見守っていた男達がゆるりと動き出す。
手を戒められたままの紗依を乱暴に立ち上がらせると、肩を掴んで小屋の外へと無理やり引きずり出す。
不確かな地面に足を取られそうになりながら歩かされ聞いた男達と美苑達のやり取りからして、この後女衒が到着し紗依は引き渡されるのだという。
相手は男が複数に、殊に強い異能を持つ苑香が居る。どうあがいても勝ち目のない状況に、逆らう気力すら失せて行く気がした。
自分は、このまま売られてしまうのだ。遠く離れた地に追いやられてしまって、もう誰にもあうこと叶わぬまま、地獄のような日々を送ることになるのだ。
そう、誰とも。
母にも。千尋にも時嗣にも、サトにも。
矢斗にも、もう会えないまま……。
その言葉が脳裏に浮かぶと共に、哀しみ滲む笑顔の矢斗の面影が過る。
その瞬間、紗依の中で何かが弾けた気がした。
同時に、胸元に仕舞っていた簪が熱を帯びる。
熱に呼応するように裡から湧き上がる生じるものがあって、気が付いた時には紗依は自分でも思わぬ行動に出ていた。
簪から湧き出る力に後押しされ裡から生じた思いのまま、渾身の力を込めて自分を引きずる男に体当たりをしたのだ。
全く予想もしていなかった反撃に驚いた男は、更に足元の小枝や石に足を取られてその場に倒れ込む。
他の男達も一瞬呆気にとられ咄嗟の対応ができない内に、紗依は必死の形相で駆けだしていた。
自分の中にこんな力があったのかと思うほどの力で、手を戒められたままぼろぼろの身体で紗依は薄暗い林の中を駆ける。
足元は不確かで先も見えない。
背後からは美苑の甲高い怒声が聞こえ、闇の向こう側で男達が紗依を追いかけ始めた気配を感じる。
異能を持たないこの身に何ができるというのか。どう見ても勝ち目のない相手から、どこまで逃げ続けられるというのか。
ともすれば諦めが生じそうになるのを、必死で抑える。
紗依は地の利もなければ身体の状態とて最悪で。数でも負けている。
けれど、諦めたくない。諦めて何もできないまま終わりたくない。
紗依の内を占めるのは、会いたい、という思いだった。
矢斗に会いたい。
まだ矢斗に何も伝えてない。伝えられないうちに、終わりたくない。
あの時、矢斗が何を言おうとしていたのかを知りたい。どんな顔をしていたのかを、確かめたい。
矢斗は自分の言葉で、一生懸命に伝えようとしてくれていたのに。紗依はそれを拒絶するばかりで、聞こうともせず、伝えようともしなかった。
今はただ、矢斗の言葉が聞きたい。
例えそれが残酷なものであったとしても、彼の口から語られる本当のことを知りたい。
矢斗の、あの言葉を信じたい。
愛しいと思うのは貴方だけだと言った矢斗を信じる為に、彼から真実を聞きたい。
無様でもいい。みっともなく足掻いて笑われようと構わない。それでも自分はここで終わりを受け入れたくない。
聞いて、伝えたい。
自分が矢斗に対して感じている思いを。矢斗を、どう思っているのかを……!
必死に駆けて、駆け続けて。
紗依は弾かれたように身を強ばらせ、足を止めてしまう。
足元で乾いた音を立てて石が崩れて転がり、落ちて暫く後に水に吸い込まれた音を響かせる。
走り続けた紗依は、いつの間にか切り立った崖に追い詰められていた。
遥か下に流れる川は、顔色無からしめるほどに激しく。そこから切れ切れにのぞく切り立った岩を見ればさらに血の気が引く。
どう見ても、落ちて助かる高さでもなければ水の勢いでもない。落ちたらまず、命は無いだろう。
「そこから飛びおりるの? それはそれで悪くないけれど、それじゃあ面白くないのよ」
背後を見れば、息を切らせた苑香と美苑。それに男達が追いついてきていた。
じわじわと、殊更ゆっくりと紗依の逃げ場を立つように迫って来る男達に、紗依は後退ろうとする。
だが、紗依が際の際まで追い詰められてもなお、男達の足は止まらず。やがて笑いながら伸ばされた手が、再び紗依を捕らえようと迫り。
その様子を、薄笑いを浮かべて見守っていた苑香の顔が、次の瞬間驚愕に歪んだ。
――紗依が、崖から跳んだからだ。
命を失うことになったとしても、再び捕らえられるよりは。紗依は唇を噛みしめて地を蹴った。
魂は千里を駆けるという。だからどうか、せめて魂となっても、迷わず矢斗のもとへ行けたならと強く願う。きっと、簪が導いてくれる。
矢斗にもう一度会いたい。例え刹那の間となったとしても、どうか、どうか――!
紗依の心の裡から湧き上がる想いに応えるように。まるで、紗依の心が現に影響を及ぼしたかのように。
その場の全てを打ち倒さんとするような荒ぶる風がその場に吹き、居合わせた者達は目を空けていることができず地に膝をつき、或いは倒れ伏した気配がする。悲鳴が聞こえる。
吹き荒れる風の中、紗依は温かな感触を覚えて不思議に思う。
懐かしくて優しい、紗依が今何よりも焦がれていた……。
不意に、吹き荒び荒れ狂っていた風が沈黙した。
紗依は自分を包む温かな腕を感じながら、目を閉じていた。
これは夢だろうか。夢だとしたら随分幸せな夢だ。会いたいと望んでいたひとの腕に再び抱かれているように思えるなど。
夢なら覚めないで欲しい。
多分自分は死んだのだろう。最後に束の間であっても幸せな夢を見せてやろうとする、神の慈悲かもしれない。
ふわりとした心地にあった紗依を引き戻したのは、悲痛なまでの想いに満ちた現の響きだった。
「紗依……大丈夫か……!」
耳を打つ確かな声音に、そのまま遠ざかりかけた意識が一気に引き戻される。
見つめる先には、泣きだすのではないかという程哀しげに顔を歪めた矢斗の顔。
何時までも続くかと思われた暴風が止んだ後には――紗依を守るように抱き締めて宙に浮かぶ破邪の弓の姿があった。
何時しか紗依の日々に無くてはならなくなっていた。心の裡にあまりに大きな存在となっていた、弓の付喪神が自分を腕に抱いている。
その場にいる誰もが、何が起きたのか分からないと言った風に狼狽し。けれども、呼び覚まされた畏れに慄く中。
それが夢幻ではなく現実であると理解していくにつれ、紗依は呆然と目を見開く。
「……矢斗……? どうして……?」
「紗依が、私を呼んでくれたから。……聞こえたのだ。紗依が抗い、私を呼ぶ声が」
震える声で問いを紡ぐ紗依を、矢斗は更に深く抱きしめた。
自分を優しく捉える広い腕の中で、紗依は言葉を紡ぐことなどできず、ただ頷くしかできなかった。
矢斗がここに居る。自分を抱き締めてくれている。
もう打たれ続けた痛みも、駆け続けた身体が訴える苦しみも、何も感じない。
矢斗がここにいてくれること。それだけが、今の紗依の全てだった。
抱き合う矢斗と紗依を愕然とした面もちで見つめていた苑香だったが、すぐに周囲の異変に気付く。
鈍い音と呻き声に苑香が弾かれたように振り向けば、そこには。
「なかなか思い切ったことをするな、紗依殿……」
北家の家人と思しき者達に打ち倒され戒めを受けようとしている男達と、それを率い自らも喚く美苑を捉える北家当主の姿があった。
呆れているのか感心しているのかわからぬ苦笑いを浮かべ、宙にある祭神と紗依を見ていた時嗣は視線を苑香へと向ける。
時嗣の眼差しに、苑香は顔色を失い震えだす。
そこには、一かけらの温度もない……罪人を断じる鋭い意思しかなかったからだ。
「流石に、今度はもう見逃してやるわけにはいかないな」
怜悧な時嗣の言葉に、苑香は唇をわななかせた。
異能を以て抗ったとしても、到底叶わない程の圧を感じる相手である。
その相手が、もはや容赦をしないと眼差しで告げ。一分の隙も無く構えて相対している。
追い詰めていたはずが、今や追い詰められたのは自分であるという事実に。苑香は醜悪な表情で凍り付いたまま、その場に糸が切れたように膝をついた――。
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