――ひどく気分が悪く、吐き気がする。


 曖昧な意識の中で、紗依は自分が粗末な木の床に寝かされていることに気付いた。

 しかも、ただ転がされているのではない。後ろ手に縛られ、戒められている。

 ささくれた木の床に一瞬玖瑶家で暮らしていた頃を思い出すが、すぐに違うと裡に呟く。

 ぼんやりとしていた視界が少しずつ確かになっていくにつれ、そこが見たこともない小屋の中であるとわかる。

 一体ここは何処なのか。何故、自分は此処にいるのか。

 機を失う前に何があったのかを思い出そうとして頭に痛みを感じ、顔をしかめたその時。


「ようやくお目覚め?」


 聞き覚えのある……叶うならばもう聞きたくないと思っていた女の声が聞こえた。

 そして、その声とは別の忍び笑いも聞こえて、紗依はその場にいるのが一人ではないことに気付く。

 蒼褪めながら視線をそちらに向ければ、そこにいたのは。


「美苑に、苑香……?」


 母を追いやり後釜に座った女と、異母妹が暗い笑いを浮かべながらそこに立っていた。

 見れば、小屋の中には荒んだ風体の男達の姿もあるではないか。

 何が起きているのかと改めて呆然とした紗依は、次の瞬間頬に激しい衝撃を感じる。


「美苑『様』でしょう!」


 美苑が激して叫んだと思った瞬間、共に紗依の身体は一度、二度床を転がった。

 次いで、上から何度も何度も打ちつけるような痛み。

 頬を打たれ、足蹴にされたのだと気付いたのは、次々と襲い来るあまりに馴染みのある焼けつくような感覚からだ。

 臓腑を打たれる苦しさとせり上がってくるもの。口の中に拡がっていく錆びた味。

 全てに全て覚えがあって。しばらく続いた穏やかな日々に忘れかけていた玖瑶家での日々が嫌になるほど鮮やかに蘇る。

 ただひたすらに苦痛の嵐が過ぎるのを待ち耐え続けた記憶は、あまりに今の痛みと相まって紗依の呼吸を奪う。


「分不相応な暮らしにすっかりのぼせ上って。弁えるべき礼儀も忘れてしまって、良いご身分だこと」


 紗依を蹴りつけ続ける母の傍らで、苑香は歪んだ微笑みを浮かべながら言う。

 紗依の纏う着物を面白くなさそうに見る顔には、隠そうとも隠しきれない紗依への憎悪が滲んでいた。


「わたくしの誇りを傷つけておいて呑気なものね。忌まわしい呪い子に相応しい扱いを思い出されるといいわ」


 苑香の声に宿る、煮え滾るような怒り。紗依はあの日の……玖瑶家の訪問の時のことを思い出す。

 求められていたのが祭神の妻であると知り、紗依と苑香のすげ替えを狙った父と美苑。

 美しく強い異能を持つ自分が選ばれぬわけはないと確信すらしていた驕った苑香。

 けれどそれは矢斗の固い拒絶にあい、彼女の矜持は微塵に打ち砕かれた。

 きっと、苑香はあの日のことをずっと恨み続けていたに違いない。だからこそ、こんなことを……。

 殴られ蹴られる痛みの中、思考だけは嫌に冷静になっていく。紗依は、次第に何があったのかを思い出しつつあった。


 矢斗が部屋を去った後、紗依は意を決して部屋を出た。

 けれど、当然ながら複雑な面持ちの紗依が門を臨む場所に出た時には、既に矢斗たちは出立してしまった後だった。

 見送りの家人たちの姿とてない閑散とした場を見て、何をしているのだろうと苦く思う。

 あれだけ矢斗を拒絶したというのに、姿を見られたらと思うなんてと自らを心の裡で責める。

 聞いた話では、時嗣達が戻るのは夜になるというので、紗依は部屋に戻ることにした。

 そして、部屋に戻った紗依は、机の上に何かの紙が置かれていることに気付く。

 それは、一通の電報だった。


 ――ハハキトク、スグニコラレタシ


『……お母様が……⁉』


 母が居るという療養所からの知らせに、全身の血の気が引く思いがした。

 慌てて再び部屋を飛び出した紗依に、その場に居合わせた下女中の一人がどうしたのかを声をかけてきた。

 まずはサトに相談しようとした紗依だったが、その女中の言葉によると生憎サトは手の離せない用にて取り込み中であるという。

 紗依のただならぬ様子に事態を知った女中が、電報の住所まで行ってくれるよう俥を手配しますと言ってくれ、蒼褪めた紗依は一も二もなく頷いていた。

 女中にサトへの言伝を頼んで、半ば無意識にお守りとしてあの簪を胸元に仕舞って。

とるものもとりあえず呼んでもらった俥に乗り込み、慌ただしく出立した。

 俥に揺られること暫し。

 随分寂れた場所にさしかかった、と思った次の瞬間には何か寒気を感じ、次いで女の笑い声が聞こえたような気がした瞬間に意識が遠のいて……。


 気が付いた時には、この何処かもわからない粗末な小屋に手を縛られ寝かされていた。

 あの電報が罠だったと今気づいても遅い。自分の迂闊さを悔やむばかりである。

 苑香は事態を理解するにつれ紗依の顔に浮かぶ後悔の色を察したのか、愉快そうに嗤う。


「お姉様のせいで罰を受けて。奥女中から下女中に格下げされた女を見つけて、お金を握らせたの」


 目を見張り、思わず声をあげそうになる。

 ああ、そうだ。あの下女中は…‥紗依と千尋を侮辱して罰を受けた、元は奥女中だった女だ。

 紗依のことを異能持たぬ呪い子と蔑み、千尋を平民と蔑み。時嗣の逆鱗に触れて北家を追い出されかけていた、あの。

 母の危篤という言葉に気を取られすぎて、行き会った女中があの女であることになど気づかなかった。

 苑香は女中に、北家当主夫妻と矢斗が屋敷を空け、紗依が一人になる日を探らせた。

 そしてその日が来ると知ると、偽の電報を紗依の部屋に忍ばせ。慌てた紗依を、美苑の息のかかった破落戸が扮する車夫が引く俥に乗せるように指示したのだという。

 紗依を北家の屋敷からおびき出す為に手を尽くしたのよ、と無邪気なまでに笑う苑香の前で、美苑はなおも紗依を足蹴にし続ける。


「呪い子なんて産んだ不吉な女の癖に、正妻面して偉そうにしていて……。いつも自分は上の立場だという顔で、慈悲深い奥様を気取って……!」


 美苑の口からは、いつしか紗依の母に対する怨嗟が呪詛のように紡がれていた。

 長い年月に培われた深い恨みに満ちた言葉に、紗依はふと伝えきいた話を思い出す。

 父は花街の芸者であった美苑に熱烈に惚れ込み、妻にしてやると言って落籍させた。

 けれど父は入り婿であって。母がある限り、それは叶わない約束であり。美苑は日陰の身に甘んじ続ける。

 それでも母は、美苑に対して辛くあたることもなく、むしろ折に触れての気遣いをしていたという。

 祖父は父が美苑を妾として囲うことについては目こぼししていたが、子が出来たのを知った時は始末させろと命じたらしい。

 妾に子を持たせても火種にしかならない、と渋る父を叱る祖父を止めたのが母だった。

 生まれてくる子に罪はない。そう言って、子を産ませてやるように祖父を説得したのだという。

 美苑は、恐らく長らく母を恨み続けてきたのだろう。

 母の情け無くしては成り立たない立場に立たされ続けたことの咎は母にはないというのに、自らを貶めたのは母だと歪んだ憎悪を抱き続けてきた。

 だからこそ、漸く留飲の下げられる機会……祖父亡き後、紗依を口実に母が離縁されると、これでもかと母を甚振り続けた……。

 長い間に歪みに歪んだ憎悪を叫び続けながら更に紗依を害そうとした美苑へ、傍らの娘が声をかけた。


「ねえ、お母様。そろそろ止めましょう? あまりに見苦しくなりすぎては、売り値が下がってしまうわ」

「そうね……仕方ないわ」


 鬼を思わせる程に歪んだ表情で荒い息をしていた美苑は、娘の言葉に未だ収まらない負の感情の奔流を何とか収めようとしている。

 ようやく止んだ痛みの嵐に安堵の息を吐きかけたが、ふと聞こえた言葉に紗依の眉が寄った。


「売り値……?」


 どう聞いても不穏でしかない響きを帯びた言葉に怪訝そうに呟いた紗依を見て、苑香は口元に手をやって軽やかな笑い声をたてる。

 自分がこれからどうなるのかをその言葉から徐々に察して、紗依の顔から血の気が失せていく。

 紗依の表情が変わり行く様を見て、倒れた姉を覗き込むようにしながら苑香は朗らかな声音で告げた。


「お姉様は、これから人買いに売られるのよ。帝都から遠く遠く離れた北の地にある遊郭の、一番ひどい見世に売ってもらうように手配したの」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る