人を恋う心

 北家に招かれざる客こと玖瑶家の父達がやってきた、嵐のような出来事から一週間。

 その日、紗依は一人居室にて過ごしていた。

 矢斗は、時嗣と共に用向きがあって外に出ている。戻るのは遅くなるだろうということだった。

 紗依の手には針と糸、そして縫いかけである男性の着物がある。言うまでもなく、矢斗の為のものだ。

 祭神である矢斗の為の装束は裁縫に長けた北家の女中達が手がけているが、以前紗依は一着だけでいいから、と頼み込んで普段使いの着物を仕立てさせてもらった。

 矢斗は見て思わず顔が綻んでしまうほどに大喜びで、感激のあまり紗依を抱き締めた。

 はしゃいで時嗣達に自慢しているのを見て、落ち着いてと耳まで赤くなりながら止めた時の気恥ずかしさはなかなか忘れられそうにない。

 もう一度、あんな風に喜んで笑って欲しいと思ってしまって、紗依はやがて来る夏用の着物をまた頼んで縫わせてもらっている。

 仕立てあがったものを見た時矢斗はまた笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。

 我知らずのうちにはにかんでいた紗依だったが、ふと手をとめて、俯いてしまう。

 矢斗が笑うのを見たいのに、見たくないとも思う。自分でも不思議な感情に紗依は戸惑っていた。

 最近、矢斗の笑顔を見るのが嬉しいのに、辛いのだ。

 あの騒ぎで紗依が傷ついたのではないか、と前にも増して紗依を気遣ってくれるようになった。

 あれほど美しい苑香を見た後だというのに、比べてあまりに貧相な自分を尚一層包み込むように守り慈しみ。

 紗依の日々が穏やかであるようにと、祭神としての務めの合間を縫うようにして紗依と共に過ごし、様々な心遣いをくれる。

 その心が嬉しいと思うのに、思えば思うほど、上手く言葉を返せなくなっていく。

 それはきっと、自分の中にある罪悪感のせいだ。

 あの時、見定めるまでの時間を願った矢斗に答えを出せないまま、時は流れている。

 紗依を苛み続ける『悪夢』についても、まだ打ち明けられていない。

 矢斗は急かさず、紗依の心が定まるのを待ってくれている。それが申し訳ないと思う。

 美しい破邪の弓神が、紗依を心から愛しんでくれているのは、日々のささやかな言葉の端から。ふとした瞬間に感じる眼差しから、紗依とてもう気付いている。

 それならば、母の為にも矢斗の申し出を受け入れるべきだと思う。

 矢斗のような素晴らしい殿方と結婚した姿を見たなら、母はどれだけ喜び、安堵するだろうか。

 けれど、そうするべきだと思う度に胸が痛む。母を安心させたいという自分の願いの為に、矢斗を利用するようなものではないかと。

 矢斗の心が嬉しいと心が温かくなる度に、それを願ってはいけないと胸は痛むのだ。

 それは何故なのか。

 答えは紗依の中にあり、もうそれに気づきかけているとは思う。けれど……。

 俯いたまま唇を噛みしめていた紗依の耳に、部屋外から入室の是非を問う声が聞こえてくる。

 それが千尋だと気付いて、紗依は直ぐ様是の意思を返した。

 静かに襖が開かれたと思うと、優しい笑みを浮かべた千尋が姿を現した。


「紗依様。そろそろ一度お休みされて、お茶でもいかがですか?」


 根を詰めすぎてはいけませんよ、と微笑む千尋の言葉に、物思いに耽り手を止めたままだったことを思えば少し気まずい。

 けれど、その言葉を拒む理由もなく、紗依は静かに頷く。

 少しして、紗依と千尋は香り豊かな茶を喫しながら、他愛ない話に興じていた。

 たまには女性だけでこのような時間も良いものですね、と笑う千尋に、思わず紗依も笑みを零す。

 最初の頃こそ北家の奥方であるからとかしこまって接しようとしたが、そんな寂しいことを、と優しい苦笑と共に止められてしまった。

 恐る恐るではあったが、徐々に打ち解けて接するようになり、今では多少なりとも気安く話せるようになり。紗依にとっては、姉のような存在であり。また、初めてできた同性の友人とも思えるようになった。

 そしてまた、千尋は紗依にとって教養の師とも言えた。

 稽古事を希望した紗依に各方面の師匠を手配してくれたが、千尋自身も嗜みに優れた女性であり、千尋から教えを受けることも多い。

 千尋と過ごす時間は楽しく、時としてそれをみた矢斗が嫉妬……いや、拗ねてしまうこともある。

 途中まで紗依が縫い上げた着物を手にとって、良く出来ていると千尋は褒めてくれ、紗依ははにかむ。


「私もこちらでお針をご一緒しようかしら。時嗣様の夏の着物を仕立てておきたいと思うので」


 時嗣は自分が仕立てた以外の着物を絶対に着ようとしないのだ、と苦笑いしながらいう千尋は、言葉とは裏腹に幸せそうに見えた。

 そんな千尋がとても美しく、そして感じる確かな二人の絆を羨ましいと感じてしまった紗依は、言葉を返すことも忘れて思わず千尋を見つめてしまう。

 まじまじと見つめる視線に気付いた千尋は、緩く首を傾げ、どうしたのかと問いかけた。

 不躾に見てしまったことに気付いて慌てて詫びながら、紗依は消え入りそうな声で心の裡を切れ切れに零す。


「千尋様も時嗣様も、本当にお互いを想っていらっしゃるのだな、と思って……」


 その言葉を聞いて、千尋の頬に紅が散る。

 千尋は父の決めた縁組にて時嗣のもとに嫁いできたのは以前聞いたことがある。

 それは珍しいことではない。女性が自らの意思で夫を定めることはまず有り得ない。

 嫁いだ後に夫と仲睦まじく暮らすことができれば幸運であり、心通わぬこととてままあること。耐えて忍ぶしかないのだ。

 けれど、千尋と時嗣は違う。

 確かに千尋は妻として夫である時嗣に従い、後ろに控えて彼を支えてはいる。

 だが、時嗣は本当に千尋を愛し大切にしており、それ故に時折彼女に頭が上がらない様子さえ見せる。千尋を己に従属するだけの存在ではなく、一人の対等な相手として見ているのが、傍で見ていて分かる。

 そして千尋もまた、時嗣を同じ目線でいられる一人の男性として見て、想っているように感じる時がある。

 二人とも、相手が相手である故に。千尋が千尋であり、時嗣が時嗣であるからこそ、愛し愛されている、と感じるのだ。

 紗依は咄嗟に口に出てしまった言葉に気付くと、慌てて千尋に頭を下げる。

 またも不躾なことをしてしまった、と慌てる反面。

 想いあう二人を見て、ふと誰かを恋うる気持ちとは……誰かを恋しいと思う心とは何なのだろうと思ってしまっていた。

 頬をまだ微かに染めたまま、頭を下げる紗依を制した千尋は自らを落ち着けるように茶碗を手にし、一口含んで。

 やや考え込んでいたものの、やがて静かに語り始めた。


「私には、多くの求婚者がいらっしゃいました」


 過ぎ去った日々に思いを馳せるように、少しばかり遠くを見るような眼差しをする千尋。

 紗依は黙したままその横顔を見つめ、続きを待った。


「私の父は妾腹の娘に異能があるのを知ると、これ幸いとばかりに名家と繋がりをつくる駒としました。資金繰りに困っている家門を見つけては、大層熱心に売り込んだそうです」


 異能を持つのは大概の場合名家の人間に限られるが、祖に名家の血を引いているなどの理由により、時折平民にも異能を持つ者は生まれることがある。

 千尋の母方もどうやらとある異能を持つ家門の血を細く引いていたようで、生まれた千尋は異能を持っていた。

 それに目を付けたのが千尋の父であり、半ば打ち捨てていた妾の元から千尋を引き取り、名家に嫁入りさせることを考えた。 

 多額の持参金を積んだために、千尋を嫁にと望む者達は多数現れたというが。


「縁談の相手は、所詮成り上がり商人の娘とはなから蔑むばかりで。目を合わせてくれることもありませんでした」


 持参金は魅力的だが、所詮は平民と。数ある求婚者達は上辺だけの褒め言葉を嘯きながら、視線は千尋を侮り続けていた。

 このような人達の中から自分の夫は決まるのか、と千尋が半ば自棄になっていた時、その男性は現れた。


「でも……時嗣様だけは違いました。あの人は、最初から最後まで『私』を見てくれていて。ただ一人だけ、私と目線を合わせてくれていたのです」


 俯いたままの千尋は、覗き込まれていることに気付いた時それは驚いたそうだ。

 慌てふためいて顔をあげて、初めて千尋は時嗣を視線があった。

 彼は真っすぐに揺らがぬ眼差しを千尋に向けたまま、良かった、と笑った。

 せっかくの美人なのに俯いたままは勿体ないと屈託なく笑う男性に、千尋は一瞬目を瞬き、次の瞬間には思わず吹き出していた。

 唯一人だけ千尋と目を合わせ続けてくれた人は、やがて千尋の夫と決まる。

 夫婦として暮らすようになってからも、時嗣は千尋といつも等しい目線で居てくれる。

 やがて、千尋の中にある想いが生まれたという。


「この人に触れたい、触れて欲しい。知りたい、知って欲しい。傍にいて、顔に笑みを見るだけで……心に幸せな温かさが灯る」


 今はここに居ない夫の姿を思い浮かべるように目を細めながら、千尋は呟く。


「誰かを恋しいと思う心は、これをこそいうのだと。そして、幸せなものなのだと……」


 裡にある想いを噛みしめるように語る千尋の横顔を、紗依は改めて美しいと思った。

 このように誰かへの想いを語れるのを、羨ましいとも。


「紗依様は。……矢斗様を、どう思っていらっしゃるのですか?」

「え……」


 思わず千尋に見惚れてしまっていた紗依は、不意に問われた言葉に思わず目を瞬いた。

 紗依は、矢斗の妻である『神嫁』としてこの家に招かれた。

 けれど祝言も披露目も為されていない。それはひとえに矢斗が紗依の心が定まるのを待ってくれているからだ。

 矢斗は紗依を心から望んでくれている。

 ……それなら、紗依は?


「……分からない、のです……。嬉しいと思うのに、温かいと思うのに」


 暫しの逡巡の後、紗依は切れ切れではあるが、己の心の裡を静かに紡ぎ始める。

 矢斗が自分に対して、温かな想いを向けてくれているのを嬉しいと思う。

 それなのに、彼の申し出にすぐに頷けない自分がいることに、自分でも戸惑っている。

 紗依にとって、矢斗の存在は日に日に大きくなっているのを感じる。

 だからこそ、利用するような真似をしたくないと思うのだ。

 そう、矢斗の思いを嬉しいと思うからこそ……。

 躊躇うように一度口を閉ざした紗依は、やがて顔をあげて真っ直ぐに千尋を見つめた。


「けれど……知りたい、と思います」


 矢斗について。自分の矢斗への想いについて。

 どうなりたいのか。どうしていきたいのか。

 けれど、自分が知らない事は思っている以上に多い気がする。

 矢斗が小さな光であったより前。何故に祭神として祀られる存在であった彼が、あのような頼りない様であったのか。

 その理由があるであろう昔……彼が今に至るまでを、紗依は素直に思った。


「矢斗のことをもっと、知りたいのです」


 自分の裡にある思いを探り、導き出した一つの願いを紗依は静かに紡いだ。

 紗依の言葉を聞いて僅かに微笑んだ千尋は、少し思いを巡らせるように考えこんだ後に一つ頷いて見せる。


「それなら……矢斗様が祭神でいらっしゃった頃の資料ならば、書庫に幾つか残されているかと」


 その頃の逸話が記された書物について時嗣から聞いたことがあると、千尋は告げる。

 今から行きましょうか、と千尋が立ち上がりかけたとき、女中の一人がやや足早にやってきて、千尋に来客の存在を告げた。

 当主が不在である以上、来客の対応をするのは当主の妻である千尋の務めである。

 表情からして、そのまま帰すわけにもいかない相手のようだ。

 一つ溜息をつくと千尋は、女中に書庫への案内を申し付けると申し訳なさげに頭を下げて、足早に去っていく。

 去り行く背を見送っていた紗依は、やがて女中に書庫への案内を頼み、立ち上がった。

 知りたいと思う。

 矢斗のことを。そして、自分の中にあるこの想いのことも。

 裡に生じた一つの願いを抱えながら、紗依は導きに従って書庫へと向かった……。

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